第23話 『綺麗も、汚いも、貴方となら。』
「陽奈、さん」
純恵の頭上に雨がなくなる。陽奈が彼女を見下ろすように立っているからだ。
気持ちが溢れすぎておかしくなりそうだった。
けれど、純恵の喉からかろうじて捻り出せたのは、恋人の名前だけ。
「連れを迎えに来たんだけど。
そこのあんた、そう、顔がみっともないあんた――梅小路純恵はどこにいる?」
陽奈は、低い声をあげて純恵を指差した。
声は純恵が今まで味わったことないくらい、すさまじい怒気を孕んでいた。
彼女がなんで怒っているのか、純恵には分からない。
「ここ、ここですっ、陽奈さんっ。貴方が指を指してる、わたしが――」
「――あんたは違うでしょ?」
「…………えっ」
陽奈がくだした答えはまたしても、純恵の予想とは大きく異なった。思考のフリーズ。煩雑した感情が急激に加熱されていき、臨界点を超えていく。
決壊寸前だったヒビだらけの表情が、熱く苦しいほとばしりによって決壊する。
「……どうして、そんなこと、言うんですか」
「私の知ってる純恵は、あんたのように辛そうな顔をしない。何があっても笑顔を貫いて、飄々としていて――そして、」
「貴方も……、陽奈さんも、そんなわたしを望むんですかッ!」
聴覚から、雨音がフェードアウトしていく。雑多な街の風景が輪郭を失っていく。
貴方だけしか、見えない。見たくない。
純恵の中で何かがぷつり、と切れる。ふらふらとした足取りで立ち上がると、陽奈のぐっしょり濡れたスウェットの胸ぐらを掴んで、引き寄せる。
「貴方も、いい子な、人気者のわたしの方が好きなんですかっ、この期に及んで! いったい誰のせいで、わたしが泣きそうになってると、思ってるんですかっ!」
陽奈の胸ぐらを掴んだ純恵は、彼女の目を強く、強く強く、睨んでやる。
今まで、誰かに怒りをぶつけたくなったことはなかったのに。
初めての感情だ。
激情だ。
「貴方が勝手にいなくなるから、心配で心配で、眠れなくなって。いや、眠れなくなったのは、貴方がわたしの知らないところで知らない男と寝ていたからですね。わたしがありながらっ。浮気ですか不倫ですか馬鹿馬鹿っ」
「……どうして、それ、知ってるの」
「知っていたわけではありません。でも……、ただのお泊り会ではなかったんでしょう?」
「どうして、何も知らないのにそういう結論になるの? ひょっとして――」
「――ええ。知っていましたから。見ちゃいましたから」
今度は陽奈が純恵の肩を掴んで揺すった。
睨む視線を向けられても、純恵は逸らそうとはしなかった。
逃げてしまったら、この関係を続けていく資格がなくなると確信していたから。
なにより、陽奈の瞳に映っていたのが怒気ではなく、恐怖だったから。
「……じゃあ、あのメッセージはなんだったんだよ。あんたがつるんでいる女の子たちとのメッセージ。私が秘密にしていたパパ活のことについて、あんたはどう思ったんだよ。どうしたら常葉明美から共感されること書けるんだよ」
「それは――、」
純恵は言葉に詰まる。
事なかれ主義の彼女は、陽奈の話題が出ても無関心の姿勢を貫いた。
人気者という立場を守るために当たり障りのない返信をし続けた。
「わたしは、誰の意見も肯定していません」
「でも、――否定していたら、常葉明美から共感されることはない。だから、否定もしていないんでしょ?」
陽奈の慧眼に、ついに純恵は何も言えなくなった。
誰にも染まらないことで、誰にも非難されないポジションを獲得したのだ。
――誰からも愛され、誰からも憎まれない。そんな、薄っぺらい人気者の称号。
陽奈は、真っ向から純恵を否定する。
「でも、……そんなのって卑怯だと思わない? 肯定しなくても、否定をしなかったら、あんたは他人の意見に流されているだけでしかない。自分を持っていない。このままじゃ、あんたは空っぽのまま、なんじゃない?」
その通り、だ。
純恵は誰の意見にも流されることで誰からも愛されやすくなっていた。けれど、それはすなわち、誰にも毒されないことで、誰に対しても都合の良い女になっただけだ。
「……だから、わたしは陽奈さんを傷つけてしまったんでしょうか」
「いや、それだけじゃない。あんたは重大な間違いをしているよ。ちょっと俯いてみて」
陽奈は純恵の肩を掴んでいた細い腕をほどき、純恵の手首を握った。ぼうっとしていた純恵は、陽奈に「早く」と急かされて、疑問符を顔に貼り付けながら、たちまち頭を下げる。
「で、何が間違いだったんで――」
「それはね、」
陽奈は、
「ふんっ!」
「あでっ!?」
陽奈は。
――純恵に勢いよく頭突きした。
「ちょ、いた、え、何、」
「頭突きしたんだけど」
「なんで頭突き!?」
がばっ、と顔を上げた純恵はますます訳がわからないと言いたげに目を白黒させて、まばたきを繰り返した。
「昔のテレビって叩けば直ったじゃん? それと同じことした」
もう一発放つ構えを取った陽奈の額を、純恵は必死に抑えた。
陽奈はしぶしぶ、頭を下げる。痛そうに、ぶつかった額を擦った。
「わ、わたしはアナログテレビじゃありませんがっ……!?」
「変わらないよ。頭悪すぎるもん」
「頭、悪っ……!?」
突っかかろうと前のめりになった純恵の額に、陽奈は自分の額を重ねた。頭突くわけではない。触れるだけ。冷え切った2人分の体温を共有するように。増幅させるように。純恵の鼻腔に、陽奈の吐息が交じる。ミントの香り。吐息だけじゃない。髪の匂い。服に染み付いた柔軟剤の匂い。香水の匂い。
そのどれもが、共同生活の果て、共有された2人の生活を示していて。
「よく考えなくても分かるでしょ。
――新入生歓迎会。私がせっかく、あんたの貞操を守ってあげたのに。
あんたは……わたしとの出会いもなかったことにする気、なの?」
純恵は、息を呑んだ。
唇を噛み締めた陽奈の瞳から、とめどなく溢れるそれは何なのか。
「……純恵。ごめんね、勝手に逃げ出しちゃって」
「陽奈、さん……」
「パパ活のことバレて、あのグループメッセージ見て怖くなったんだ。純恵との生活が安定してさ、ようやく男の人に求められなくても、あんたがいればそれでいいって思えるようになったから。だから、そういう関係の人とは縁を切った」
「じゃあ、お泊り会の日は――、」
「高校時代からの友人っていうのは本当。でも、友人は友人でも都合のいい男友達。セックスだって当然のようにしてた。――私が純恵の家に居候になる前の仮住まいは、その人の家」
「陽奈さんはどうして、泊まりに行ったんですか……?」
「最後のつもりだったから。これで、感情が純恵に傾いたままだったら、そのときは純恵のそばにいよう、って決めたんだ」
似た者同士で、決定的に違う2人。
似ているけれど、当然分かり合えない価値観もあって。
でも、今更分かり合えないことを隠す必要なんてなくなってしまった。
――小林陽奈が、たとえ優等生でなくとも。
――梅小路純恵が、たとえ人気者でなくとも。
2人にとって、他者からのラベリングは決定的に無意味になったのだから。
「……わたしにはどうしてそうなるのか、分かりません」
「ごめん。今まで、誰かを好きになったこと、なかったから。
私は誰からも必要とされる優等生として振る舞ってきた。パパ活やセフレは特に私の中の承認欲求を満たしてくれたんだ。
でも、純恵のせいで、いや、純恵のおかげでそれ以上、大事な感情に気付けた」
陽奈は純恵の顎に手を当てて、頬同士をこすり合わせた。
純恵がこそばゆそうに目を細める。
「ねえ、純恵。私の身体はとうに汚れてしまっているけど、それでも、あんたは私を受け入れてくれますか?」
「――今更、汚れてるとか遅すぎます」
純恵は自分から、恋人に口づけをする。触れるだけで、薄い皮膚の先端から伝う熱が、2人の濡れた身体を急速に加熱していく。
たった3秒ほどの悠久の末。純恵は赤く腫らした深海の瞳に灯火を燃した。
「何度だって汚れてあげます。だから、その代わり、何にも分からないわたしに、汚れていること、汚れているものに立ち向かう勇気を、――薄ら寒い流れに逆行する力をください」
「私にも教えてほしいくらいだけどね。私は逆行なんてしていない。必要とされるように演じているだけだよ」
陽奈は、雨で濡れそぼった純恵の髪を乱暴に撫でた。
「でも、あんたが必要してくれるんだったら、そばにいる。
――最初に講義室で会ったときの『貸し』、返してもらうね。これから長い時間かけて、私を純恵のものにしてください」
「たかが講義の課題で重すぎますね、陽奈さんは。まぁ、課題1個分で貴方が手に入るんだったらいい買い物をした気分ですけど」
行きましょうか。もはや涙は何処へやら。
「えっ、もう帰るんじゃないの?」
「いや。まだ大事な一仕事が残ってます。陽奈さんに片付けてほしい仕事が」
「私に?」
「――これ以上、貴方が上辺のレッテルに縛られないで済むように。
わたし、人気者やめちゃおうと思います」
純恵は陽奈の手を握る。
もう、冷たくなんかなかった。
――だって、貴方がそばにいるのだから。
「わたしと一緒に堕ちましょう、陽奈さん。優等生とか人気者とか、そんな箔を剥がして、ただの小林陽奈と梅小路純恵になりましょう。陽奈さんのこと、何も知らずに悪く言う人は、わたしが許しません」
バーの入り口に手をかけながら、純恵は陽奈へと振り向いた。
陽奈は、恋人の初めて見る一面に、思わず二度見した。
「ふふっ、純恵が悪い顔してる」
「見ててくださいね。今からわたしは、嫌われ者になりますから」
「それはちょっと違うね」
小首を傾げた純恵を陽奈は真っ直ぐ見つめる。
瞳からはいつの間にか、恐怖の色が抜けている。
都会の夜。雨は収束に向かう。
貴方は、ここにいる。
――私も、ここにいるよ。
「『わたし』じゃなくて……『私達』、でしょ?」
陽奈は勝ち気に眉を上げて、純恵の手をぎゅっと、強く握った。
もう、手放してしまわないように。
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