第22話 『独りの夜を拭うように。』
夜が深まっていく。
合コン会場となった小洒落たダイニングバーの一角に男女の談笑が冴え渡る。
個室席の片隅で純恵は勝手に流れてくるとりとめのない話題に相槌を打って、時折、面白可笑しく笑ってみせた。白のオーバーサイズTシャツの上にピスタチオグリーンのシアーシャツ、デニム生地のスキニーパンツにベージュのパンプス。誰にも好かれる人気者を装っている。
合コンに集まったのは、同学科の男女8人。
女性陣は純恵が普段行動をともにしている友人4人組。
男性陣は学科の1つ上の先輩で、カースト高めな爽やか系4人組。
純恵は当たり障りなく話に交わりながら、膝下に置いたスマートフォンの通知をしばしば確認した。陽奈からの返信はない。
ひょっとして、迎えにきてくれないかもしれない。
危惧が脳裏にはしるが、咄嗟に純恵は首を振った。
よからぬ疑いを排除する。そうしないと人気者の笑顔が剥がれてしまいそうだ。
大丈夫、陽奈さんは迎えに来てくれる。スマートフォンを握る手に汗が滲む。
「――梅小路さんって漫画好きなんだっけ?」
「え、あ、……はいっ」
咄嗟に話題を振られて、純恵の反応にラグが生じる。
たちまち、人気者モードの笑顔を繕うと、程よく酔った明美が隣から抱きついてくる。鼻腔に広がる甘ったるい香水の香り。純恵はおもむろに呼吸を止めて、抱きついてきた明美を見やる。彼女の首は既に純恵ではなく、机の向こう側の男性陣に向いていた。
「そう、純恵ってば色々読んでるっぽいよ! どんな漫画の話をしても付いてきてくれるんだよね~!」
「マジか! じゃあ――」
純恵の座るソファ席に椅子を動かしてきたのは、シシドという名字の、一番おとなしそうな先輩だった。漫画の話は嫌いじゃなかったので、純恵はテキトーに話を合わせた。オススメされたのは最近話題の少年漫画だった。
――確かに面白いんだけど、趣味とはちょっとズレてるんですよね。
なんて、本音は一切顔に出さない。
純恵は楽しそうに語るシシド先輩に付き合うことにした。
人気者は笑顔を崩さない。好き嫌いをしない。
純恵は男性への耐性がない。テニスサークルで多少耐性はできたけれど、中高6年間名門のお嬢様学校に通っていた名残はそう簡単に払拭できない。
彼女が女子大学に行かなかった理由の1つは、『自分を変えたかった』からだ。
純恵の両親は彼女が求めるものはおおよそ与えた。
やりたいと思った習い事は一通りさせてくれた。
欲しい物も一通り。
なにより、彼女の努力は素直に褒めてくれた。
その結果、純恵は笑顔を絶やさない女性になった。
誰からも愛される人気者になった。
その結果、純恵は笑顔を絶やせない女性になった。
誰からも褒められるために。
誰にも嫌われない人気者になった。
純恵が笑顔を崩さないのは――誰の側にも属さないのは、人気者でいるため。
他人の笑顔の邪魔をしないためだ。
ゆえに純恵の周りにいる人は悲しむことが少ない。
――裏を隠せば、他人の共感性をくすぐって満足させているだけ。
『純恵ちゃんが笑顔だと元気が出る』『純恵といると……楽しい』『梅小路さんが学級委員になるといじめは起きないし、1年間、誰でも楽しいクラスになるんですよね』『やっぱり梅小路さんには敵わないなあ。どんな揉め事も簡単に解消しちゃうし』
褒められれば褒められるほど、純恵は誰からも好かれる人気者になっていった。
自分の力で人が笑ってくれる。
自分の力で誰かの悲しみが消える。
それらはいいことだ、と純恵は信じて疑わなかった。
だって、両親に報告すれば必ず褒めてくれたから。
だから、彼女は人気者をやめなかった。
合コンは滞りなく進む。
学科内の共通の話題から、地元トークや趣味の話題。
談笑のテーマは個人に関わるものに集約していく。
――着地点となったのは恋愛話だった。過去の恋愛、現在進行系の恋バナ。他人の恋の話は合コンでも定番の話題らしい。
初めてのデートやキスの話、元恋人の仰天エピソード、失敗談、初恋の甘酸っぱい話、理想のデートについて……、恋愛だけで二転三転話は動く。
純恵は陽奈との関係を打ち明けなかった。苦々しいエピソードは聞き役に徹し、甘々な惚気話は楽しそうに、愛おしそうに耳を傾けた。
その裏では陽奈との思い出が、一等星のように明滅して脳裏を流れていく。
胸がきゅうと締まって、苦しい。
先輩面々のお酒は進む。
女性陣も先輩に勧められてお酒を嗜む。
純恵は1杯だけ注いだノンアルコール・カクテルを枯らせずにいた。喉は砂漠よりもからっからなのに。
酒精がもやもやと暖色の照明を燻ぶらせる。
話はだんだんと爛れた方向にシフトしていった。初夜の話、サークルの複雑な恋愛関係の話、ドロドロとした性的関係。
知り合いを伝手とした他人の性事情が無断でアップロードされていく。
真偽が定かではないゴシップの共有は、仲間意識を深めるちょうどいい養分だ。
純恵以外の男女の口はだんたん軽くなっていった。純恵もまた、興味深そうな顔つきを繕って薄暗い話題に耳を傾ける。
彼女の耳に届く単語は、漫画を介して得たものばかりだった。ティーンズラブ漫画で蓄えた性知識はリアリティを帯びていなくて、どこか他人事のような気がしてならない。
だからだろうか、
――当然の流れとして入ってきた話題に純恵の反応は遅れた。
「ってか、ウチの学科にパパ活やってた子がいるんですよ~」
ガタッ、と机が大きく揺れた。
何の前触れもなく純恵が立ち上がったからだ。
机の上で彼女のグラスが大きく傾き、倒れた。テーブルの外めがけて、半分以上残っていたノンアルコール・カクテルが一斉に流れ出る。
話題の一時停止。静寂。純恵とグラスを交互に眺める、痛い視線。
純恵の頭に空白の瞬間が生まれた。
――わたしは、今、何をした?
「――純恵!」
明美に揺すられて、純恵はびくりと震えた。現実が空白を縫い止める。
すぐさま純恵は目を丸くして、深く頭を下げる。
「……ぁ、す、すいませんっ! ちょっとぼーっとしてて!」
「店員さん呼んでくるね」
「ありがとうございますイチカワ先輩っ」
「じゃあ俺とミツイで濡れた皿を――」
「そっちは服濡れてない?」
「はいっ」
「ってか梅小路さんお酒飲みすぎか~? お水も飲まないとね」
「はい……、ありがとうございます」
面々の機転により、グラスの処理はすぐに終わった。
純恵は汚れてしまった手を洗うために洗面所に向かった。
洗面台の鏡面に映ったのは、凍りついた笑顔のような表情だった。
蛇口を捻って顔を拭おうとして、純恵は思いとどまった。外面をかたどる化粧が崩れてしまえば、笑顔の小細工が紐解かれてしまいそうな気がしたからだ。
――普段はあんなぼーっとしないのに。
しないのに、何故?
答えなんて、明白だ。
落ち着かない、と。酔った眉根を解すようにつまんで、席に戻ろうとした。彼女の足取りは一歩踏みしめるごとに重くなっていく。
そして、合コンの面々が集う個室の手前まで迫ったところで大きくて下品な笑い声に身を竦ませた。
「ってか、その子見たことあるわ。俺がバイトしてるホテルによく来てた」
「マジですか!? 詳しく」
「ってか、シシド先輩ってラブホで働いてたんですね」
「夜勤でフロント立ってるよ。結構稼ぎがいいから」
「で、小林さんって普段どんな人と一緒に来るんですかぁ?」
純恵は席に戻らず、個室の入り口前に突っ立ったままだった。
陽奈のうしろめたい遍歴が本人でもない誰かから広められていく。
小太りの中年サラリーマンだったり、あるいは定年間近な壮年だったり。たまに若手の実業家。常に金を持っていそうな男を引き連れているようだった。
純恵の知らない陽奈が、他人の手で暴かれていく。
「小林さんって上級生の中でも知っている人多いんだよね。フツーに可愛いし」
「この写真見せたらどういう反応するんだろ」
「というか、その写真流出してから小林さん学校来ていないっぽいんですよね~」
「そうなんですよ! 課題とか見せてもらってたんだけどな~」
「過去問ほしい感じ? 俺のやつあげようか?」
「本当ですか! さすがイチカワ先輩、そゆとこ好きです!」
「常葉さんここぞとばかりにおだててくるじゃん!」――、
陽奈をダシにして、下世話な話が繰り広げられていく。
預かり知らないところで、陽奈は晒し首にされる。
その首を肴に飲む酒を美味しいと感じる人たちは、1枚の壁を隔てた向こう側でアルコール混じりの毒霧を放っている。
優等生な小林陽奈を道具にして他人に好かれようとする友人だったものがそこかしこに転がっている――純恵には同じグループの女子たちがそのようにしか見えなくなっていた。
気持ち悪い。他人の笑顔が――嘲笑が、気持ち悪い。
吐きそうになって純恵は両手を塞ぐと、顔を両手で覆って、ダイニングバーの外に出る。夜になって再び降り出した雨はバケツをひっくり返したような雨だ。
純恵は空を仰いで雨に打たれた。その顔からは、あっさりと人気者の皮が剥がれていく。ファンデーションやマスカラやリップの残骸が手のひらにこびりつこうが彼女は構わなかった。
降りしきる雨は人の放つ排気と負の感情とをないまぜにした異臭を放っている。店の外では傘を差した群衆が虚ろな視線を泳がせて道を行き交う。
どこにも居場所がなくて、息苦しい。純恵はその場にしゃがみこみ、スキニーパンツのポケットからスマホを取り出した。新規通知はない。
スマホに取り付けられた青色のストラップに目が届く。リュウグウノツカイを模したそれは恋人とのお揃いの品。
見つめれば見つめるほど、彼女と過ごした日々が思い返される。
初めて講義室で会話した。出会い。
ナンパから助けてくれたこと。
自分には持ってない格好よさを持った貴方を好きになって。
テニスコートでの勝負。誰かに必要とされたいと願う貴方にシンパシーを覚えて。
水族館でのデート。クラゲが貴方で、わたしがリュウグウノツカイ。
――似た者同士であり、一方で決定的にわたしと貴方は違っていたから。
好きになってしまった。好きを止められそうになかった.
「……初めて会ったときの貸し、返せていないのに」
街路の隅で膝を抱える純恵の頬に一滴、また一滴と熱いものが流れていく。それらは雨露に希釈されて蔑ろにされていく。
――陽奈さん。もしかして、もう、本当に帰ってこないのでしょうか。
そんな予感が彼女の貼り付いた人気者の笑顔を決定的に破壊した。
無理やり上げていた口角は両端に分銅がつけられたように下がる。
スマホを胸に抱えて、しゃがんだまま顔を俯かせる。
誰にも、今の顔を見せたくなかった。
そうすれば、誰かの笑顔を奪ってしまう。
――誰かって、誰、なんですか?
他人が笑ってくれればいい。
梅小路純恵はそんな他人本位のスタンスで生きてきた。散々陽奈に自分本位になれ、と諭した当人のほうが、よっぽど他人に依って自我を保ってきたのだ。
だが、その行き着く先にあったのが、好きになった貴方が悲しんでいる姿と、彼女の悲しみなど知ったこっちゃない外野からの嘲りだったとしたら。
人気者として振る舞ってきた梅小路純恵に、一体何の意味があったというのか。
彼女には分からなかった。だから、たった1本、切れかけた――あるいはもう、切れてしまったかもしれない蜘蛛の糸に縋るしかなかった。
都会の夜は豪雨。
貴方、此処へ来て。
「――助けてください、陽奈、さん」
「助けてくださいってのは、こっちの台詞だよ、バカ純恵」
純恵の前にずぶ濡れのシルエットが映える。
驚いて、純恵は勢いよく見上げた。
暈けた街灯の明かりに照らされて、たくさんの雨粒が彼女を濡らした。
シルエットから放たれる眼光は、純恵も見知ったもので、しかし、いつにもまして生気を放ち、きらめいている。彼女の手に握られたスマートフォンには、純恵とお揃いのキーホルダーがぶら下がっている。黄色の、リュウグウノツカイ。
蜘蛛の糸は、まだ、繋がっていた。
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