第21話 『恋せよ乙女、貴方は誰よりも気高い。』


 ワタルは陽奈を抱かなかった。

 食器を流し台に並べた彼は、布巾で拭ったちゃぶ台の上にパソコンを置いて、特に何事もなかったかのようにキーボードを打ち始める。まるで陽奈の存在が眼中にないかのように。


 はっ、として陽奈はキーボードを打つワタルの腕を掴んだ。彼の眉と目と口に浮かぶ皺はあからさまな軽蔑を示していた。


 陽奈の背筋にぞわり、と嫌な感覚がせりあがる。誰からも必要とされようとした彼女が、最も忌み嫌った感情。呼吸が詰まる。蛇のように、嫌悪感が彼女の喉を示す。


 それでも、陽奈は問い詰めなければいけなかった。


「なんで。なんで抱いてくれないの」

「分からない?」

「女の子の気持ちいい顔が見たいんじゃないの?」

「……キミの馬鹿さにちょっとムカついた」


 ワタルが掴まれた腕を振り上げる。

 陽奈は叩かれると思って反射的に目を瞑った。


 しかし、一向に頭に衝撃は走らなかった。

 代わりに、頬を両側から引っ張られる感覚。陽奈は目を開ける。


 彼女の目と鼻の先。

 生ぬるいと息がかかる位置。

 額に青筋を浮かべて、口端を引き攣らせたワタルの姿があった。


「い、いひゃい!? 何を」

「君は僕のことを見誤りすぎだ。君を慰める筋合いはない。

 ――それくらいの『自分』は持っているつもりだよ」

「……訳、分からない。セフレのくせに」

「訳分からないのは、ヒナだろう?」


 せっかく楽しい楽しい惚気話が聞けると期待していたのに、がっかりだ。

 大袈裟に項垂れたワタルが陽奈を睨めつける。


「好きな相手に嫌われたかすら知らないのに、勝手に嫌われるって思い込んで、恐れて逃げ出して。――自分だけ辛くなりたくないって欲丸出しじゃないか」


 陽奈の顔に熱が籠もっていく。

 怒りか。

 羞恥か。

 それとも。


「――わかんないんだよっ!」


 頭を抱えて、陽奈は掠れた声で叫ぶ。

 熱くなった頬や額や喉を拭って。

 首を何度も大振りして。

 それは怒りでもあり、周知でもあり、悲嘆でもあり、何よりも困惑だった。

 力ない声量で放たれた、純朴な懊悩は、ワタルの口を容易に塞ぐ。

 

 ぐちゃぐちゃになった何もかもがとめどなく、陽奈から溢れる。


「人を好きになるのなんてはじめてだったんだよ! 

 今まで人から必要とされる人になろうって思っても、嫌われたくないって考えたことはなくて、自分じゃ、どうしようもなくてっ。

 今までまかり通ってきた私の中の常識が全部全部崩れちゃって訳わかんないんだよ!

 訳わかんないけど、好きって言いたいんだよ!

 でも、私のこと全部知られてさ、必要とされることを過剰に求める卑しい自分も、男に身体を売る安い自分も、全部筒抜けてさ。

 それでも好きって言ってくれる確証なんて持てなくて! 

 ――何より! 私が私のこと、好きって言えなくなりそうなんだよ!」


 言いたいことはめちゃくちゃで、さながら素人のうったサブマシンガンのように部屋の隅々に木霊する。ワタルはパソコンを閉じて、項垂れた陽奈の頭に手を置いた。

 陽奈がびくり、と肩を揺らす。

 今度は叩かなかった。


「わかんないんだよ……助けてほしいんだよ、この感情との向き合い方、好きな人との向き合い方、何よりもいいところ悪いところ全部ひっくるめた私との向き合い方、

 ――誰か、教えてよ」


 全部、再定義し直さなきゃいけないくらいに、破綻してしまったのだから。

 たった一人、好きになっただけで。

 陽奈は壊れた人形のように力なく項垂れた。

 ――ありのままのじぶん。身体を安売りしていた自分を、純恵は認めてくれるだろうか。

 陽奈のなかに発生した不安は大きくなることをやめない。

 両手で顔を覆って、声にならない泣き声を漏らす。

 呆気にとられていたワタルは、ようやく呑み込んでいた呼気をゆっくり吐き出せた。

 そして、髪を掻き上げると、


「あーもう、面倒臭いな」


 ワタルは気怠げな声と共に髪を掻き上げる。

 そして、冷たく突き放す声で。


「けど、とか、でも、とかもういいんだよ。言い訳してばっかりなら、君の恋はここまでだ。お通夜するんだったら他所でやればいい」


 陽奈はワタルの顔を見上げられなかった。

 唇を噛み締めて、うつむき、肩を震えさせるだけ。だったが、


「だからさ。

 ――本当に好きなら一歩踏み出してみなよ。

 好きな人をもう一度、自分の手で掴み取ればいいじゃないか」


 ワタルの語気は何よりも、誰よりも優しさに満ちていた。

 少なくとも、陽奈の耳はそう認識した。

 だから、彼女は顔を上げる。

 顔を隠している両手を恐る恐る開く。


 ワタルの顔から軽蔑は消えていた。代わりに、


「……なんで、笑ってるのさ」

「恋をしてる女の子が可愛いからだね」

「こんな時に茶化さないでよ」

「本気だよ。恋をしている女の子は無敵なんだ。でも、恋を知ると、人はどうしようもなくなる。今まで通りに生きていけなくなる」


 ワタルは陽奈の髪を両手でぐしゃっと掻き乱した。

 陽奈は無抵抗なまま、ワタルに見つめられて、固まっている。


「見るもの聞くもの全てがキラキラして見えるかもしれない。けど、時折、胸が苦しくて苦しくて仕方なくなる。でも、それがいいんだよ。なんでだと思う?」


 ――苦しい。痛い。逃げ出したい。

 陽奈は胸をギュッと握りしめる。

 喉の奥から何か甘ったるい刺激物が溢れてきそうな気さえする。

 胸の疼痛は痺れるように身体中を伝う。

 一滴の涙を最後に、陽奈は両目をグシグシと拭った。


「うまく言い表せる自信はないけど、」


 稚拙な言葉を尽くすことでしか彼女の記憶は復元されない。

 だから、稚拙なりに小林陽奈思い出す。

 純恵こいびとと過ごした2ヶ月近くを。


 出会って、

 セックスをして、

 きれいだなって思って、

 漫画で育ってきて何も分かってないんだなって呆れて、

 でも心の底から好きって言ってくれて、

 その度に胸がムズムズして、

 早く帰りたいな、純恵に抱きしめられたいなって願うようになって、

 日々肥大化する安心感に身を委ねるようになって、

 初めてデートをして、

 自分を好きになった理由が何となく分かってきて、

 自分もまた、彼女を好きになった理由を言葉にできるようになって。


 箱入り娘と勘当娘。

 違っているようにみえる2人は、根のところでは似たもの同士で。

 そのくせお互いにないものをねだって、求めて、好きになって。



「この痛みが愛おしくて、仕方がないんだ。

 もっともっと痛くなりたい。

 痛くなった分だけ、好きって気持ちを求めたい、好きって気持ちを吐き出したい。

 そうするのが気持ちいいんだよ。だから無敵なんだ」


「大正解」


 ワタルはとん、と陽奈の背中を叩いた。

 最後の後押しをするように。


「でも、恋は痛みが伴う。その痛みを肩代わりするのは無理なんだよ。当人の心の問題だからね。僕に話せるのは僕の視点から見た一般論に過ぎない。だけど、陽奈はきっと、一般論を出せばそういうものに引っ張られる気がするんだ。

 だって――今まで、誰かに必要とされるようになろうとしすぎたから。

 恋は十人十色。どんなスタンスも間違いじゃないから。

 存分に悩みたまえよ、恋する乙女。僕は君を後押しする言葉しか放てないから」


 恋をしたから。苦しんだ。

 だけど。


 狂うほどの苦しさ以上に愛おしいんだ。

 君が。梅小路純恵が。

 陽奈は深呼吸をした。踏ん切りがついた。


「……ありがとう」


 呼吸を整えたからか、あるいは決心したからか、陽奈の心は羽が生えたように軽くなった。勢いで、ここ数日電源を切っていた、スマホを点ける。


 通知欄に数件。

 梅小路純恵から送られてきたメッセージの数々が目に飛び込む。

 心臓が、跳ね上がる。すぐさま、陽奈は立ち上がった。


「大事な急用を思い出した、ってところかな?」

「そんなとこ。かなり緊急なんだけど。……自転車、貸してくれない?」


 ワタルはにやにやしながらポケットから『何か』を取り出し、陽奈に向けて放り投げる。


「喜んで」


 彼女が掴んだそれは、紛れもなく自転車の鍵だった。


  †


『愛しています、陽奈さん

 だから、言葉だけじゃなくて、行動で示してみます』


 重いサドルを力いっぱい踏む。

 錆びついたチェーンは危なっかしい音を立てて、車輪を回し始めた。


 日暮れとともに再来した雨脚は、次第に強まっていくばかりだった。

 半乾きだったスウェットを着込んで、傘も持たずに陽奈は自転車を漕いでいる。


 脳裏に浮かぶのは、純恵から送信されたメッセージ。

 常葉明美主催の合コンに参加しているらしい。


(ワタルの部屋に泊まった日には参加しようか迷っていたのに……、まさか、使をするなんて)


 純恵が送ってきた内容を思い出して、陽奈は舌打ちする。


 ――『陽奈さんがお迎えに来てくれなかったら、わたしは誰かしらにお持ち帰りされましょう。誰でもいいです。できれば性格が最悪な人で。そこから何人もの男に回されてしまいましょう。

 陽奈さんに助けてもらうために、わたしは貴方に賭けます』


 すなわち、合コンを陽奈をおびき出す撒き餌にした、というわけだ。

 もし、陽奈が釣れなかったら、純恵はバッドエンドを受け入れるということで。


 馬鹿げてる。やることが突飛すぎて、まるで――フィクションじゃないか。

 この漫画脳め。


「――私を。小林陽奈を、見くびりやがって!」


 片手にスマホを握りしめ、陽奈は街を自転車で駆け抜ける。

 タイムリミットはもうすぐだ。夜は深まっていく。

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