第24話 『外面美人を殺した日。』
純恵は陽奈を連れて再び店内に入った。頭のてっぺんから、足の爪先まで濡れ鼠のようになった2人を、レジに立った店員がぎょっとした面持ちで見つめてくる。すかさず、進路を阻もうとしてくるが、
「すいません。……あちらの席のお代、この封筒に入ってる額で足りますよね?」
陽奈が先立ち、スウェットのポケットから湿った封筒を差し出した。店員が恐る恐る開けてみると、折りたたまれた諭吉が3人分。陽奈が指差した方向には常葉明美を中心とした合コンのグループの席が見えた。
「純恵の分も含めて、男女8人分。足りなかったら」
「い、いえ。大丈夫です。今すぐお釣りを持ってきますから少々お待ち――」
「領収書ちょうだい。あと釣りはいらないです」
「えっ」
困惑する店員の肩を叩き、背伸びをする。
耳元で、「早く。時間が惜しいの」なるだけ低い声で、脅すように囁く。
固まっていた店員がそそくさとレジに赴き、走り書きの領収書をしたためた。
陽奈はそれを受け取ると、店員を躱す。
そして、後ろ手でひらひらと手を振った。
「釣り分はちょっとした迷惑料ってことで、よろしくっ」
純恵を引き連れて、合コンの会場となった個室へと身を潜めて、迫る。
周りの席を囲む客から一身に奇異の視線を浴びても、2人の恐怖心は凪だった。
陽奈は純恵に領収書を託す。
純恵は領収書を見つめながら首を傾げた。
「あの3万円はどこから?」
「最後のパパから貰ったやつだね」
「なんですか、それ。――最高じゃないですか」
――今。人生史上、最高に悪い顔してる。
純恵は胸の奥がじん、と熱くなったような心地だった。
ついに2人は、個室を隔てる壁一枚まで接近した。静まった喧騒の中に、個室の馬鹿笑いはよく響いた。
「学科の男の子とも関係を持ってるらしいよ」「まだ入学して半年も経ってないのに!? ヤバすぎ」「お金払って確かめてみるか~」「ちょっとセンパイ、今のはキモいですよ」「ちょっと、誤解だって〜」
純恵がいない間も、依然陽奈は話題の上でたらい回しにされていた。
その場の全員が並べる罵詈雑言は、陽奈の不在を前提として発生するもので。
個室の壁に背中を預けて、滑稽なものを観たかのように、からからと笑った。
「噂が二転三転しすぎて、大嘘の大還元祭だねぇこりゃ。そもそも同級生の名前ほとんど覚えてないっての。それに、私が身体売ってたのは金目的じゃないし」
「……じゃあ、何が目的で」
「必要とされたかった。ただ、それだけの話。難しいことじゃないんだよ。私って昔から、親に褒められたことなくて。だから、褒めてもらう場所を外に求めた」
ゆえに優等生。周りから褒められるために、必要とされる人間を目指した。
いつしか、肥大になった承認欲求は身体を貪り尽くしていた。
たった、それだけ。
「まるで、わたしと正反対ですね」
「……純恵って、親に甘やかされてそう」
「欲しいものはなんでもくれましたし、習い事もなんでもやらせてくれましたね」
「ちっ。……ずるいなあ」
陽奈はぐし、と目を擦る。
身体をすり減らしすぎた彼女の涙は、とうに流れない。
だから、小林陽奈には笑うしか道は残されていない。
どこまでもすり減らした身体と向き合うしかない。
他者の亡霊に犯され続けた優等生は、――もう泣かない。
「約束。ってか、お願い。いい?」
「――これから、貴方が腐るくらい、褒めて甘やかしてあげますよ。世界の誰もが貴方の敵になったとしても、わたしは陽奈さんの味方です」
純恵の口上はありきたりなフィクションからの引用だ。
果てしなくクサい台詞。しかし、陽奈の目には純恵が凛々しく見えた。
「カッコつけちゃって、さ」
照れくさくなって、口元を手で覆う。
惚れ直したな、と陽奈は自覚した。
――大概私は、好きな相手にはチョロいのかもしれない。
「嘘も真も関係ない、他人の性事情とゴシップ。……わたしは、こんな会話に加担していたんですね」
純恵が陽奈の隣に並ぶ。びしょ濡れのパンプスの爪先で地面を蹴る。
陽奈はそんな恋人の脇腹を小突いて、
「今更気づいたの? そんなだから恋人のこと傷つけちゃうんだぞ?」
「ごめんなさい」
「……マジで謝らないでよ」
きまりが悪そうな顔をした陽奈に純恵はゆっくりと首を振った。
「わたしは万人受けすることばかりをしてきました。思想が誰かに偏ったら、他の誰かに妬まれるから。
その結果、わたしは誰にも介入しないことを選びました。イエスでもノーでもない。けど、人によってはイエスともノーとも取れることばっかり言って、逃げてきたんですよ――わたし自身の主張から」
誰の色にもならない、無色透明な人気者。
誰にも共感している風で、誰にも染まらない女。
「だったら、やっぱり似た者同士だ。誰かに大事にされることばっかり大事にして、自分が大事にすることを見誤り過ぎたんだ」
温もりを共有しながら、振り向いた2人は目を合わせる。
――深い深い、深海の瞳に一筋の光が宿っている。
きっと、導べになってくれるはずの、まばゆき光が。
「人気者も優等生も、程度はどうあれ、相手から見られることで成り立つものだったから。相手から見られることで成り立つ理想を叶えるには、どこまでも自分を切り捨てて他人にしなければならなかった。
……そうしていたら、いつしか自分を失っていて、」
陽奈の下ろした手が純恵の手に触れる。
小指と小指が触れ合う。
「失っている自分に気付けたのは、陽奈さんのおかげでした」
「私も。純恵のおかげで、初めて人を好きになれたから。変われたから。
――ありがとう」
指と指はおもむろに噛み合って、手のひらが重なり合う。
雨に濡れて冷たくなった人肌はいまや、ただならぬ熱を帯びている。
手を伸ばせばすぐそばにいる合コンのメンバーたちは、優等生としての小林陽奈と、噂の中で肥大化するふしだらな小林陽奈の2つしか知らない。
そのどちらも表面的なレッテルだ。
純恵はついさっきまで、綻びきった絵空事を相手に耳を塞いでいた。
自他から向けられる理想に板挟みにされて苦しさから逃れようとしていた。
だけど。もう、逃げない。
梅小路純恵は確かな進化を望んだ。
上手く笑えているか。いい子ちゃんに見えているか。
なんて、他人のご機嫌取りはもうやめだ。
周りと歩幅を合わせようとしなくていい。甘い美辞麗句は枯れてしまえ。
「では、参りましょうか、陽奈さん」
「いつでもいいよ、純恵」
目配せとともに、人気者だった女は初めて、眉毛をぴりぴりと振るわせた。
眉間に依っていく皺は、嵐の到来を告げる稲妻のように迸り――。
†
「いい加減にしてくれませんか、皆さん」
凪に墨を一滴垂らすような芯のある声が、合コンの席からあらゆる音を奪った。密になった視線のすべてを一身に受けながら、純恵は未体験の恐怖に足がすくみそうになる。喉はからからに干からびていく。
純恵が二の句を告げられずにいると、静寂に戸惑いの波紋が広がっていく。
「ど、どうしたの陽奈。なんかいつもと感じ違くない?」
明美が薄く笑いながら、純恵の手を取ろうとする。
しかし、その手は到達するより前に跳ね除けられる。
純恵の横合いから影を縫うように現れた、小林陽奈によって。
この場に存在しないはずの噂の種は、合コンメンバーの間に漂っていた空気の流れを決定的に変えてしまった。
2人の目の前に映るのは救いのない灰色の狂騒だったもの。唾を飛ばしに飛ばした謗りの数々も、本人の前では泡になって消えてしまう。
優等生だった小林陽奈は、しらけた場をぐるり一周見回して。
「……ふ、くく。あははっ。……あーあ、せっかく面白そうなこと、聞けそうだったのに、どうしてみんなだんまりなのかな?」
腹の底から思いっきり可笑しそうに笑いこけるふりをした。
大袈裟な演技だった。
純恵もむず痒くなっていった口元を咄嗟に隠した。乾いた喉が僅かに潤う。
「ねえ、純恵。せっかくのご本人の登場なのにみーんな豆鉄砲で打たれた鳩じゃん。どうしてだろ、ねえ、どうして?」
「ふ、くく。笑っちゃうじゃないですか、陽奈さん。ホント、どうしてなんでしょうね? ――というか、合コンって人の悪口で仲間意識を芽生えさせるイベントだったんですね」
道化を演じる陽奈に純恵も絶えられなくなり、純恵も控えめに噴き出す。しかし、目線は明らかに冴え冴えとしていた。
着実に積み上げられてきた八方美人のキャラクターをぶっ壊していく。
殺していく。
「ってか、先輩方も、気の抜けた顔してたら後輩ちゃんに嫌われちゃうんじゃない? それとも目の前のキラキラ女子は眼中になかったり?」
「それってもしかして、わたし狙いってこと、ですか?」
純恵はわざとらしく、一番近くにいたクロト先輩を睨めつけた。彼はすかさず目を逸らしてこめかみを押さえた。陽奈はそんな純恵の背中をどん、と遠慮なく叩いて、
「まさか。あんたのような八方美人じゃあ付き合ってから苦労するでしょ」
「陽奈さんったら辛辣ですね。そういう貴方だって外面美人なくせして、裏でえげつないことしてたじゃないですか」
「――確かに。わたしはパパ活でお金稼いでたし、セフレもいた。アバズレって罵りたいなら勝手に罵ればいいと思うよ」
顔に泥を塗っていく。
真偽定かなゴシップを
外面美人を徹底的に殺した陽奈の目に淀みはない。
勝ち気な笑みさえ浮かべている。
「私の顔に泥を塗りたいなら塗ってよ。ねえ、今すぐに。陰口で仲間意識持てばいいじゃない。噂なんてどんどん広めてしまえばいい。私は許してあげるから」
だって、優等生だもんね。――と、陽奈は柔和な、とっつきやすい微笑を浮かべて個室から出ていく。かつ、かつと靴音が去っていき、バーの玄関を閉める音がした。
張り詰めた空気はたちまち霧散して、合コンの席に安穏が再来しかけた。
「よ、よかっ――」
誰かが、ぼそりと呟いた。
次の瞬間、声の主は頭からビールを被った。
「え」
クロト先輩は見上げた。アルコールでずぶ濡れになった顔を拭って。
――ジョッキを真っ逆さまにした純恵が無表情で見下ろしている。
「何が、良かったんですか。みなさん。なんで一息ついているんですか?」
梅小路純恵の、深海の目がゆらり、静かな激情に揺れる。
彼女はジョッキを勢いよく机上に叩きつけて、逆鱗に触れられた龍をも黙らせる双眸を見せた。
吐き出す。
「わたし、うんざりしました。明美たちにも、先輩たちにも。影で根も葉もない噂流して楽しい気分になっちゃうような人と関わるの、もう嫌です。今までそれとなく頷いておけばいいかな、って思ってきましたがやめます。
――いい加減にしてください、皆さん」
それでは。と純恵は自分の荷物を持って、陽奈から受け取っておいた領収書を机の真ん中に置くと、その場から立ち去ろうとした。
沈黙。常葉明美は、その取り巻きは、先輩たちもなにも言わない。純恵は初めての主張を言い尽くした。不満はない。ただし、人気者の仮面を剥がした素の彼女はまだまだ臆病者だ。ずぶぬれた脚が震えているのは、雨に濡れたからではないだろう。
「……ってか、何語っちゃってんの、純恵。ガラじゃないじゃん?」
口火を切ったのは明美だった。手に持ったグラスを揺らす彼女は、余裕げな表情で立ち上がる。たちまち、沈黙が晴れ、明美を援護する声に変わる。
「た、確かに」「陽奈ちゃんってこんな子だっけ~」「ま、まあまあ落ち着いて? 梅小路さんも」「……あー、飲み直ししたいな」「…………ってか、めっちゃびしょびしょなんだけどどうしてくれるの」
一斉に純恵に向く敵意と悪意。立ち上がった明美はグラスに入ったカクテルをぐいっと一気に飲んで純恵の腕を引っ張る。
純恵は、その手を振り払って。
「……これだけ言っても分からないなら、そんな友達なんて必要ないです」
ぱしんっ! と。
乾いた音が跳ね返った。
純恵の、大きく広げられた手は、勢いよく明美の頬に命中した。
「な、あ、……純恵っ、あんた」
明美の目が血走り、再度乾いた音が響いた。
彼女の手のひらを純恵は無防備に受ける。
初めて、誰かに叩かれた。新鮮な驚きで、途端に泣きたくなった。現に明美の目尻には薄っすらと雫が浮かんでいる。
口の端から熱い鉄の味がする。
ぽた、と顎を滴っていくそれを拭えば、鮮やかな赤色をしていた。
しかし、純恵は涙で頬を濡らさない。
代わりに怒号を鳴らす。
「頬を叩いた傷なんて、舐めてればいずれ治ります。血が流れたって、いずれ瘡蓋になります。……でも、傷つけられた心はきっと、そんな簡単に治らない!
――陽奈さんが自分のしてきた過去を肯定できないのは、嫌なんですっ!」
誰かに必要とされたいという願いの果てで、陽奈は男に貪られることを選んだ。
彼女は誰も傷つけていない。
むしろ両親から必要とされない傷を癒やしたかったのだ。
なのに、何も知らない赤の他人から傷つけられている。
身も蓋もないゴシップで、不当に下等なレッテルを貼られている。
梅小路純恵は、小林陽奈が傷つくことを許さないと、見過ごさないとそう決めたのだ。その決心のためだったら、外面だけの人気者なんてぶち抜いてしまえ。
――いいですか。わたしは、わたしです。だから。
「わたしは貴方たちを許しません。……もしも、これでも陽奈さんを傷つけるというのなら、容赦しませんから」
純恵の深海の瞳は、このとき何よりも眩しく光った。明美は頬を擦りながら、何も言い返せずに苦しげに目を細めた。
今度こそ立ち去ろうとした純恵は、
「そういえば、」
机の真ん中をぴんと指差す。
視線が一斉に、純恵の指差した先にあった領収書を示す。
宛名はこの場を荒らすだけ荒らして姿を消した『小林陽奈』。
「合コンの代金。お釣りは要らないそうです。
――最後のパパ活で稼いだお金らしいですよ? 大事に使ってくれると、
純恵はにやり、と悪っぽい艶笑を浮かべて、颯爽と駆け出した。
恋人のもとへ。
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