第25話 『パパ活よりもセフレよりも、わたしとキスがしたいんですね?』(完)

 純恵が店の外に出ると、雨は止んでいた。

 薄い雲間からクリーム色の満月が覗いている。深夜の飲み屋街は、人がまばらな通りを、茹だるアルコールの臭いで繋ぎ止めていた。

 店の入口では、陽奈が自転車をまたいで振り向いたところだった。


「やることはもう済んだ?」

「はい。……言いたいこと、全部言えました」

「なら、逃げよっか。どこか遠くまで」

「ふふ。陽奈さんが白馬の王子様みたいです」

「白馬じゃなくてボロっちいママチャリだけどね」

「細かいことは気にしなくていいんですよ。さ、エスコートお願いしますね?」


 純恵は自転車の荷台に乗り、陽奈の腰に捕まった。

 身体を密着させれば濡れた衣類がぴたりと張り付く。ぐっしょりとした重みと雨粒の冷たさを人肌の体温で希釈していく。


「くすぐったら大変なことになるからね?」

「死なば諸共ですよ」

「死んだらあんたの好きなイチャコラができないけど」

「それは困りますね……」


 陽奈は両足で地面を蹴って助走をつけた。

 思い切り、ペダルを踏む。

 車輪が音を立てて回転し始める。


 ボロボロの自転車にずぶ濡れの女が2人。

 跳ねるような笑い声を解き放ちながら、暗夜を切り裂くように街を駆け抜ける。

 その光景は、白馬の王子様とお姫様、というにはあまりにも不格好だったけれど。

 ――案外、悪くはないんじゃない? 

 陽奈は斜め上を見上げながら、腹の奥底からからっ、と笑い声を上げた。

 その頬は、高揚して熱く火照っている。


 2人の頭上からは雲間が晴れて、無数の星々が浮かび上がる。

 進行方向には、デネブ、ベガ、アルタイル。夏の接近を暗示する大三角形。


「――まるで駆け落ちですね! 映画のワンシーンみたいっ!」

「そこは漫画じゃないんかいっ」

 

 軽口が飛び交う。笑いが止まらない。

 可笑しくて、喜ばしくて、愛しくて。

 

 ――あー、戻ってきたんだなぁ。


 陽奈は、純恵が横にいる、ただそれだけの心地良さを噛みしめて強く、強くペダルを漕いだ。純恵の両腕に抱きしめられている感触を布越しの身体に馴染ませながら、行き先とか何も考えずにただひたすら自転車を走らせる。


 夜風は火照りを冷ましてくれる。

 けれど、冷めるよりも早く、また熱くなる。

 空から一筋、真っ白な光が差し込む。


 汚れのない、月明かり。処女のような無垢を帯びている。

 浴びている2人はふしだらだけれど、構わなかった。

 汚れを知らない顔を繕うのはもうやめだ。


 ――私たちは浴びるように汚れて、その分美しくなる。


「お持ち帰りしちゃったね」

「はい。お持ち帰りされちゃいました。しかも2人乗りなんて!わたし、こんな青春漫画みたいなイベント、初めてですよ」

「……ホント、青春だよなぁ」


 2人乗りの青春片道切符。

 行き先なんて決まっていない。

 バーから逃げるように立ち去った彼女たちは、2人きりの夜遊びに耽る。



  †



 合コン事件から2週間が経ち、世間は7月の上旬が終わろうとしていた。

 梅雨があけると同時に、本格的な蒸し暑い夏が到来。


 陽奈も純恵も、大学から帰宅するとすぐに、エアコンつけっぱなしのリビングでソファに転がりながらアイスキャンディーを舐めるのが日課となりつつあった。


「純恵、暑苦しいのでちょっと退いてくれない?」

「いやですー。このソファはわたしのものですからー」


 2人はソファの取り合い、という名目でいちゃついていた。海月がプリントされたお揃いのTシャツとショートパンツを纏っただけのラフな格好なうえに、服ははだけて、へそが丸出しである。


 アイスキャンディーはとうに食べ終わっている。にもかかわらず、ソファから離れるのすら面倒くさいので、口に咥えたまま、押し合いへし合いをしている始末。


 およそ、かつての人気者と優等生にあるまじき堕落である。


 結局、この日のソファの取り合いは純恵に軍配が上がった。仕方ないので陽奈は、純恵が咥えているアイスキャンディーの棒切れを引き抜いて、キッチンに赴くついでに自分の咥えていたのと一緒にゴミ箱に放り投げた。


「それにしても、あんなに場を荒らしたのに存外平和だね」

「本当に不思議ですよね。結局、陽奈さんの噂も下火になりましたし」


 合コンの日を境に、小林陽奈にまつわる噂の広がりは収束していった。たかが、無害な人間が全くの別コミュニティで男漁りをしていただけの話だったのだ。火元を消火してしまえば燃え広がることはなくなった。


 火元、というのは、常葉明美を筆頭としたキラキラ女子集団のことである。

 合コンが終わって数日は確かに、明美と純恵の間にぎくしゃくとした空気が流れていた。が、1週間も経たないうちに向こうから謝罪をしてきて晴れて和解。


 明美と純恵は少しずつ、関係の修復を進めているらしい。ビールを頭から被ったクロト先輩に謝る際も、明美は純恵に付き添ったようだった。


「仲がいいのはいいことだよ」

「でも、本当に良かったんですか? 明美のこと許しちゃって」


 エプロンを着て、冷蔵庫から食材を取り出しながら、陽奈は答える。


「私はぶっちゃけどっちでもいいよ。陽奈が許さないんだったら許さなかっただろうし、陽奈が許すんだったら、私も許すよ」

「……また、他人本位になるんですか?」


 ソファから覗く純恵の目線は冷えきっている。純恵は合コンの日から、言いたいことをはっきり言える人間になれるよう努力している。その一環として、他人本意な姿勢をやめたのだ。それは陽奈も同じはずだった。


「確かに、今のは他人本位に聞こえるかもしれない。けど、今のわたしならきっとそうするよ。そういう選択を私が望んでいる。だから自分本位だよ」

「どうして、ですか? 許すか、許さないかなんて自分が決めればいいのに」


 陽奈は、故郷での記憶を思い出す。他人本意な自分をなくした今だからこそ、陽奈には両親が遺した言葉の意味が分かるような気がした。


「――本当に優しい人ってのを目指しているからだよ」

「そう言われましても、陽奈さんは充分優しいですよ?」

「純恵に見せる優しさも本当の優しさだよ。むしろ、そっちの方が本当の優しさなのかもしれない」


 ――例えば、他人の役に立つことが進んでおこなうのは、どうだろう。

 西に宿題を忘れた友達がいたら、自身の完璧に仕上がったノートを貸してあげ。

 東に急な用事がある人がいれば、その人の代わりに日直の雑務をやってあげる。

 そういう行為を、かつての陽奈は優しさと形容していた。


「今まで、私は人に優しくなろうとして、実は単に甘かっただけなのかもしれないってね。人に必要とされる最短経路を選びすぎたんだ。

 純恵と出会って、今までの私、ちょっとおかしいなって思ったんだ」


 甘さは人を駄目にする。返報性もない。

 別に見返りを求めているわけじゃないけれど。

 2人は衝突の末、お互いを必要とする関係となった。これから何度も衝突するだろう、そんな予感さえ陽奈は感じていた。


 けれど、構わなかった。

 それはきっと、身体ではない、もっと密接な部分を馴染ませていくために必要なことなのだろうから。


「だから、人に甘くなるのはやめるよ。ノートを貸してあげるのだって、日直の雑務だって、全部全部私がやる必要はないのだから。

 だけど、……純恵が許したいと思った人を、もう一度やり直したいって思った人を許すのはきっと、甘さじゃないんじゃないかな?」


 むう、と唸って純恵はのっそりとソファから起き上がった。

 そして、キッチンまでとてとてと小走りで駆けつけると、陽奈の背中にむぎゅう、と抱きついた。耳元、囁きは熱く、それでいて包み込むように柔らかな口調だった。


「陽奈さんって、本当に、優しいですね」

「ふふ。ありがとう」

「……かっこよすぎて、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけムラっときました」

「一気に台無しだよ! どうしてそうなるのさ、まったくもう」


 流し台で野菜を洗っていた陽奈は、手を止めて水を切った。布巾で冷たくなった手を拭うと、純恵のもとへと振り向く。

 目を瞑ってキス待ちしていた彼女の、赤みがかった両頬を冷たい手で挟む。


「んひゃ!? 冷たっ」

「頭冷やせ」


 不意打ちに涙目を白黒させる純恵の挙動を可笑しそうに眺めながら、改めて、

 好きだなあ。

 しみじみと感じる陽奈だった。


「……なんですかいきなり。不意打ちしてきたと思ったら『好きだなあ』って」


 冷まされた頬に手を当てる純恵は、頭の先から湯気が出そうなくらいに照れていた。


「あれ? 今の聞こえてた?」

「心の声だだ漏れですよ、陽奈さん」

「あ、……あはは、は、恥ずかし」


 陽奈も、顔が火照っていく。純恵のことをまっすぐに見つめるのが照れくさくて、顔をそらして、にやけそうな口元を隠す。


「ふふ。好きって言うのくらい、恋人なら当たり前ですから。恥ずかしがらなくていいんですよ? 何度だって言ってください」

「ベッドでは言ってるじゃん」

「別腹です。いつだって、わたしは陽奈さんから『好き』って言われたいんですぅ」


 駄々をこねて、すり寄ってくる純恵は懐いた猫のように見えて、陽奈は彼女の真っ黒で艷やかな髪を手櫛で解いた。


「ね、陽奈さん。キスしたいです」

「……本当にキスだけ?」

「それは陽奈さんの理性次第です」

「責任転嫁するな。私、あんたのキスに弱いんだって」


 口では尻込みしている陽奈も、純恵の顔が近づけば否が応でも目を閉じてしまう。

 鼻息が荒くなりすぎないように、呼吸を整えながら。陽奈は今にも触れそうな位置にあるはずの純恵の唇を待望して――、


「陽奈さん、質問焦らしてもいいですか?」


 目をぱっ、と開いた陽奈は唇に当たっているものに違和感を覚える。

 それは純恵の唇ではなく人差し指で。


 陽奈はむず痒くなる下腹部をエプロン越しに擦る。

 身体の熱が急激に上昇していく。


「……早く、しようよ」

「わたしだって早くシたいですけど……これだけは聞いておきたくて。むしろ聞いておかなきゃ、今日のわたし、…………ま、マグロになっちゃうかもしれないので」


 純恵は徐々に声を小さくしながら、控えめに両手を前に広げた。

 抱きしめてほしい、という合図を汲んで陽奈はその通りにしてやる。

 背中に手を回す。

 純恵は上目遣いで何か言いたげに陽奈を見つめていた。

 その瞳には不安という名の淀みが生じているように、陽奈には見えた。


「――わたしと、キスしたいですか?」

「したい」

「他の誰と、するよりも?」

「……純恵って面倒くさいね」


 純恵はあからさまに肩を落としてしょぼくれた。「どうせわたしは面倒くさいですよ」とダウナーなスイッチが入ってしまう。いつも誰もから好かれていた彼女は、ちょっとした言葉の棘で沈んでしまう。


 今まで、誰にも好かれたからこそ、いざ好きになった人から失望されることを恐れているのだろう。


 まつげの先が、震えている。


 仕方ないなあ。陽奈は苦笑いしながら純恵の首に腕を回して、勢いのまま唇を奪う。何度目か分からないキスも、2人にとってはかけがえのないものだった。


 一分一秒を柔らかい唇の感覚に刻みつけていく。これから何度、口づけを交わすのだろう。曖昧で希望に満ちた未来予想図を描きながら、ミントの香りを重ね塗る。


 触れるだけのキスの後。

 陽奈は、目を丸くした純恵の額に自分の額をくっつけた。

 吐息が混ざる距離。


 純恵がくしゃり、と緊張が解けたように笑う。

 陽奈はそんな彼女の、深海の瞳を見つめて、頬を緩めた。

 いつしか一筋、綺羅星が差し込むようになった、愛おしい瞳を。




「パパ活よりもセフレよりも、ずっと、あんたとキスがしたいよ」




 噛みしめるように呟く、夏の始まり。

 それはすなわち、2人にとって本当の始まりだった。


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