第19話 『崩折れる、優等生。』

 6月も末に迫ったその日、街は豪雨に見舞われた。行く宛もない。逃げ回る戦略など皆無。深夜ともなればお金も下ろせない。なけなしの所持金で陽奈は漫画喫茶に駆け込んだ。女性専用の個室に滑り込む。鍵をかけて扉に背中をあずけて、力なく腰を落とした。


 泣きたい気持ちは喉の奥に引っかかって吐き出せない。リュックに詰めたタオルで髪を拭う。何もする気が起きなかったが、何かをしていないと純恵の顔がちらついてしまうから、本棚から両手に余るほどの漫画を持ち込んだ。


「……ってか、意識してないのに、全部少女漫画って。昔、貸してもらって読んだ作品だし」


 仕方ないから、陽奈は1作ずつ目を通してみることにした。実家にいた頃の記憶が蘇る。


 陽奈には友達に恵まれている方だという自覚があった。門限はあれど、毎日たくさんの友達と遊んでいた記憶がある。その頃から優等生のイメージは定着していた。でも、その頃は優等生を演じようとしていたわけではない。純粋に友達が喜んでくれるのが嬉しくて、考えるよりも先に行動していた。


 ――だから、友達に『読んでほしい』と言われて借りた漫画はすぐに読み終えていた。読み終えて感想を言いあう時間が楽しかったし、その友達が嬉しそうに反応してくれると陽奈も同じように嬉しくなれた。


 陽奈も、漫画は好きだった。

 けれど、長らく読んでいない。


「そういえば、親を嫌いになったのは『漫画』が原因だったっけ……」


 友達から借りていた漫画を許可もなくゴミ収集に出されたのだ。学校から帰ったら普段の隠し場所にはなくて。どこを探してもなくて。母親から捨てたと言われて。父親もさも当たり前のように母親の言い分に頷いていて。ゴミ置き場に言ったら、もう漫画はどこにもなかった。


 ――いつも漫画を貸してくれていた友達は、その一件以降漫画を貸してくれなくなり、暫くして遠くの街に引っ越してしまった。


 明確に両親を許せなくなったのはこのときだ。

 子供なりの理不尽への反逆は、高校を卒業するまでずっと続いた。


 陽奈が『優等生』を意識し始めたのは、このときだった。両親による理不尽が理由だったとはいえ、他人から求められなくなることへの恐怖が根付いてしまったのだろう。


 昔のことを思い出しながら、ページを捲っていく。甘ったるくて、ときに酸っぱくて、たまにほろ苦い。物語を読めば読むほど、濃密に凝縮された恋の熱量と、人の温もりを感じる。


「ぁー……、コマがぼやけて、見えない、や」


 読み終えて、ページを閉じる。個室のパソコンは午前6時を示していた。足を抱え、俯いて――ようやく彼女は、喉の奥にとどめていた弱音を漏らす。


「怖いよ、純恵……、あんたに嫌われるのが、すごい、怖いよ……っ」


  †


 夜が明けても雨は止まなかった。柄シャツの男がアスファルトに溜まった水たまりを避けるようにして、軽快に走り抜ける。その手にはコンビニのビニール袋。スナック菓子とビターチョコ、そしてコンドーム3箱。

 昨晩もまた、女遊びに耽っていた男――ワタルは早足で自宅に向かっていた。

 6月も半ばを超えて、梅雨ど真ん中だ。


「うあぁ、びしょぬれだ。風邪引かないうちにシャワーだねえ……って思ったけどガス代未納だから……水シャワー、困るなあ、布団に包まるかぁ…………っと、あれ?」


 ボロアパートの階段を登り、ワタルは傘を畳んで振り返って、最奥の角部屋前を見つめた。リュックを抱えた、ずぶ濡れの女が体育座りをして彼の帰りを待っていた。上下ベージュのスウェットですっぽりとフードを被っている。


「濡れ雑巾みたいだね、――ヒナ」

「……せめて捨てられた猫にしてくれない?」

「朝早くから、ごきげんよう? 恋路は……、いや、聞かないほうが良さそうだ」


 ワタルは困ったように髪を掻いた。折角、つい先日恋人の惚気話で浮かれていた女が目の前で嗚咽を漏らしていたのだから。

 両の瞳を赤く腫らした小林陽奈は低く、しゃがれた声で。


「ごめん、ワタル。しばらく、また居候させてくれない?」


 泣いている女の子は放っておけない性分のワタルは「散らかってるし、温かいシャワーは出ないけど、それでいいなら」と二つ返事で快諾した。


  †


 ワタルは、ちゃぶ台にインスタントの味噌汁が入ったお椀を並べた。

 陽奈のスウェットは窓際でハンガーに掛けられながら送風機の風を受けている。手早く水シャワーを浴びた陽奈は下着の上にワタルのものであるロングTシャツを纏い、その上からベッドに散らかっていた毛布をかけられていた。

 体育座りのまま、陽奈は両手でお椀を口に持っていった。息を吹きかけて冷ましながら、ゆっくりと嚥下していく。


「デート、失敗しちゃった、とか?」

「デートは楽しかったよ。恋人のこと、改めて好きって思えた」


 お椀の中を覗いたままの陽奈の口ぶりは、平坦どころかどん底に響くような低い声で、ワタルから見てもちっとも楽しそうに見えなかった。

 鼻は啜っているし、涙はまばらに流れている。

 しかし、ワタルには陽奈が嘘をついているように見えなかった。陽奈は決して、意地を張っているわけでもなさそうだった。


「それじゃあ喧嘩でもしたの?」


 陽奈は弱々しく首を振る。ますます分からなくなって、ワタルは首をかしげる。ことり、と味噌汁が半分になったお椀をちゃぶ台に置きながら、うつろな視線のまま、陽奈はぼそりと、白状する。


「バレちゃってたんだ。

「……ああ」


 その一言だけで、ワタルはすぐに察した。

 伊達に高校時代からセフレをやっていない。彼女の初めての男じゃない。


「パパ活の話、あるいは僕との関係のこと、なのかな。まあ、どれだけ注意してもバレるときはバレるだろうし。それで、軽蔑されちゃったの?」


 陽奈の唇は震えている。頭が徐々に下がっていく。


「……分からない。恋人のスマホに出てた通知見たら、私のこと書かれてて。恋人も何かしら言及しているような内容だったから」

「怖くて逃げ出しちゃったのか」


 重い首を窄めながら、陽奈はうなずく。


「恋人のこと考えて、足を洗おうって思って、マッチングアプリのアカウントは消したし、メッセージアプリで繋がった『パパ』との連絡手段も断った。けど、」

「へえ。前代未聞だねえ。君がそれほどまで変わっちゃうなんて」

「……茶化さないで」


 茶化しているつもりはなかった。が、わざわざ反駁して要らぬ諍いを引き起こすほど、ワタルは愚かではなかった。

 ――話を聞く限り、これからも隠す予定だったんだろうな。男遊びから足を洗って、健全なおつきあいをする、と。


「知られたくなかったんだね、そういう自分」

「だって、嫌われたくなかった。恋人が求めているのは、きっとそういう自分じゃないから」

「嫌われたくないってくらいに、好きになっちゃったわけだ」

「だから、嫌われるより前に逃げた。これ以上続けて、少ない思い出に泥を塗るのが怖かった」


 憧れの小林陽奈のまま関係を終わらせてしまえば傷付かずに済む、という魂胆なのだろう――ワタルはそう解釈した。眉根が下がる。ワタルは、このとき、陽奈が酷く遠い場所の人間のように思えた。そして、彼女を遠い場所に連れていった恋人、とやらに少しだけ、ほんの少しだけ羨ましさを抱いてしまう。知らぬ間に眉間に寄っていた皺を彼は指先で摘んで、解いた。


 ワタルは手を顎に当てて、「なるほど」と理解する。陽奈の行動パターンを理解したという意味と、恋に悩む少女の一面を理解したという意味の『なるほど』だ。


「ねえ、ワタル」

「……何?」

「お願いが、あるんだけど」


 ちゃぶ台が揺れる。陽奈が座っていた身体を持ち上げて、ワタルに身を寄せたからだ。這うようにして彼の胸に頭を擦り付けて、右手の指先で細く、しかしがっしりした男の背中を撫でる。男を誘うときのように肌と肌を触れ合わせてくる。女の子の柔らかい部分は対男性特攻の武器だ。

 ワタルは誰よりも、陽奈のそのような仕草を知っていた。知り尽くしていた。


「私を、抱いて。ぐちゃぐちゃにして。ゆっくりでいいから溶かして。忘れさせて。あんたのことだけを見つめられるようにして」


 ――いつも通り、だったら。めちゃくちゃにしてたんだけどなあ。


 陽奈と触れ合った肌の熱は下がっていくのをワタルは感じた。身体は燃えるように熱くならない。どろどろになった欲求で理性が溶かされない。せいぜい、熱くなるのは目線の行き先をなくした両の瞳くらいで。


 ワタルは、ため息を付いて、



「やだよ。ふざけるなよ」



 軽く陽奈の頭を叩いた。いてっ、と陽奈は思わず声を漏らす。その途端、陽奈の目元で溢れそうになっていた熱い感情の塊が頬を滑っていった。しかし、ワタルは気にもとめず、陽奈の頭を押し戻す。

 先程の雨で濡れた、生乾きでボサボサな髪を掻き上げて、ワタルは敢えて、優しく頬を緩ませてやった。ボクは、たった今この瞬間だけ、キミの都合のいい友達をやめるよ。



「犯されたくない顔をしてる女の子を無理矢理やりこむのは性じゃないんだよね」



 優男の表情の裏にむしゃくしゃを隠して、恋愛小説家はただの、ただならぬセフレを突き放す。

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