第3章
極月(Part1)
承然和尚は、僧衣を身につけ、自身の寺の本堂の一室でお経を暗誦していた。
質素な印象を与える祭壇の中央には、あちこち金箔のはげた大日如来の仏像が安置されている。
三十人ぐらいは入れるが、それほど広いとはいえないその部屋に、老人は今、独りでいた。
がらんとしたその室内に、低く単調なお経の声だけが響いている。
黄土色の長い線香の煙が、祭壇の中央にある大日如来の仏像に絡みながら、立ちのぼっている。
彼は、いつもの調子が出ないのを感じていた。というのも、木魚のばちは床に置かれたままになっていて、おりんの音が鳴ることもなかったからである。
今まで何度唱えたか知れないこのお経ではあるが、やはりお経の声だけだとリズムが取りづらいのであった。
承然和尚は、シャラップ宣言に備えて、お経だけを録音しているのである。
僧侶とて、来年から声を出すのは禁止であった。しかしながら、お経のない葬儀は考えられない。困ってしまった仏教系の各宗教団体の幹部たちは、こぞって総務省と掛け合い、録音したものを流すことだけは許可させたのだった。
もちろん、録音された声もスマホはひろってしまうわけだが、後日音声管理局から指摘された際に、使った音声データを提出すれば良しとされた。音声管理局では、それを使って声紋の照合を行う予定なのである。
「はんにゃらみったしんぎょうおーーー、おーおおおー、おーおおおー」
承然は、お経を唱え終わった。
目の前の祭壇に置いてあったカセットテープレコーダーを止める。大型でゴツゴツとした感じの前世紀の遺物。承然が自らの住まいである僧房の居間で、ほこりをかぶっていた私物を持ち出してきたものだ。
――これでは、あかん。まっぺん、やるか。それにしても、どえりゃあ冷えてきた。
今は昼下がりであるが、室内に射し入る光もなくうす暗かった。
大日如来の金色のお姿だけが、ぼんやりと祭壇から浮かび上がっていた。
承然は、今年もいよいよ石油ストーブを出そうと思い、立ち上がった。左膝に少し痛みがはしる。ここ数年、患っている持病だった。
祭壇のある部屋の裏には、もうひとつ部屋があって、そこが本堂の納戸になっている。
今日は膝の調子がとくに悪く、老人は少し足を引きずりながら移動した。
納戸までの廊下を、壁を伝いながら歩いてゆく。
この本堂にエアコンの設備はない。少しぐらいの寒さを我慢するのも修行のひとつと承然は考えているが、入れない主な理由は、やはり金銭的なことが大きかった。
老人には細々とした年金の収入があるものの、その大半は妻の入院費で消えてしまっていた。もちろん檀家からのお布施の収入もあることはあるが、それでも足りないほどの高額な入院費を毎月支払わなければならなかったのである。
納戸のドアを開けると、卒塔婆用の白木、焼香台やゴザ、大型の扇風機、予備の花瓶や燭台などが雑然と置かれていて、肝心の銀色をした石油ストーブは、奥の方に鈍く光っているのが確認できた。
今、膝が痛みだした老人にとって、そのストーブを運び出すのは骨が折れそうな作業であった。承然は、ためらって立ちすくんだ。
「来たわ」
男の声が、本堂の出入口の方からした。承然にとっては聞きなれた声。息子の水谷和彦だった。
「おお、来てくれたか」
承然は返事をして、出入口の方まで足を引きずりながらて歩いていった。少し息が切れた。
和彦は、お賽銭箱の脇に腰かけていた。彼は落ち着いたブルーのダウンジャケットのポケットに不織布マスクを入れていて、白くて細い紐の部分がはみ出ているのが見えた。
承然は、大きな息をつきながら彼の隣りに腰かける。二人の間でダマットレがはじまる気配はない。新型コロナの感染者を出したことがない地域に住むこの親子にとって、シャラップ宣言は、いまだ遠い世界の出来事なのであった。声を出さない日々が来月から始まるとういうことに現実感はない。違和感しかなかった。
「スマホの設定が、わからないとはねえ。困ったおじいちゃんだ」
「すまん。せっかくの休みに」
「じゃ、さっそくやりますか。ひとりで歩けそうかな」
「しばらく待ってくれ。痛みが治まる思うで」
二人は黙って、目の前の風景を眺めた。この寺は山の中腹にあり、分厚い雲におおわれた暗い空、その色を映し出しているかのような黒みがかった海、こじんまりとした漁港に、それを中心にして扇形にひろがる町並みが見えた。町の左端付近には大きな商業施設が、ぽつんと建っていた。
「もう、だあじょうぶだ。歩けそうだ」
二人は立って、本堂の隣にある承然が住んでいる僧房に歩いていった。
平屋の木造の古びた家の玄関を開けて、居間に入る。こたつの上に、黄色いスマホと充電器が二つずつ、それに取扱説明書が二部置かれていた。
これらは数日前、書留で承然のもとに届いた。スマホの機能は、声を感知するものと『音声管理局』と名付けられたアプリがひとつだけ入ったシンプルなものだったが、各携帯電話会社のサービスで、というよりは宣伝的な意味合いで、ネットやメールの利用も一ギガまでは通常の速度で使用可能になっていた。ただし、通話はできない。シャラップ宣言下では必要ないからである。
「こんなの簡単なのに」
「そうか。その説明書が日本語で書かれとるような気がせなんだ」
「お経より、よっぽど分かりやすい思うがねえ」
和彦は説明書を見ながら、軽やかにスマホをいじり、数分で二台の設定を終えた。
「俺の携帯の電話番号とメールを入れとくがね。あとおふくろのメールアドレスも」
「おお、頼む」
和彦は、また踊るような指さばきで二つのスマホに入力をし、一つを承然に渡した。
「こっちは病院のおふくろに、このあと持ってくわ」
そう言って、和彦は三点セットをショルダーバッグにしまった。
「これで俺もおやじも、おふくろとメールのやり取りができるようになる。まあ、来年の一月までだけど」
「ありがたあことだな」
承然の妻――水谷頼子は、十年以上も前にクモ膜下出血で倒れ、半身不随となった。自宅で介護ができないほどの重い後遺症のため、もう長きにわたって介護病院のベッドの上にいた。彼女とは新型コロナが蔓延して以降、入院患者との面会が禁止になったため一度も会っていない。
頼子の声は、担当の看護師から一週間に一度くらい、電話が掛かってくるので聞くことができた。看護師が、自身のスマホを使って頼子の口もとにかざし、話しをさせてくれているようだった。
看護師の厚意で成り立っていたその通話も、来月にはできなくなる。電話が使えなくなることは、ゼロシキに書かれている中でも際立った事項のひとつだった。
「じゃ、俺、もう行くわ」
「ちょっと待ってくれ。ひとつ手伝ってもりゃあてえんだが」
承然は息子に、納戸の奥の方にしまわれた石油ストーブのことを話した。
二人は僧房を出て、もう一度本堂の方に歩いていった。
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