睦月――上旬(End of chapter)

 邸宅と呼ぶにふさわしい家が立ち並ぶ、閑静な住宅地。

 漆黒の闇を背景に、パウダースノーが、ちらちらと舞い降りている。


 周りの住宅と比べても、ひときわ高級感のある外観。まるでモダンな美術館のような。それは、やわらかなタッチで人気のある著名なイラストレーターであり、テーマパークの設計もする建築家が、初めて個人住宅を手掛けた野心作だった。


 その一階の一室に設けられた広々とした視聴覚室。そこにある革張りのソファーに寝転んで、口を曲げて不機嫌そうな顔をしている白髪の老人がいた。フリース生地の濃紺の作務衣を身に付け、低いテーブルにぽつんと置いてあるスマホを、にらんでいる。


 画面には、『過料決定』の文字が浮かんでいた。通常、過料決定の通知は文書で送られるが、シャラップ宣言下に限ってはメールで送られることになっていた。件数が非常に多くなることが予想されたので、発送する人手を省くのと通知のスピードを重視したためだった。


 通知書には、当事者として『近松豊治』の名前が記載され、主文には『当事者を過料金百万円に処する』とある。理由として『スマートフォン不携帯にもかかわらず声を発したため』とあり、併せて場所と日時が記載されていた。通知書には、その他にも当事者の住所や、決定の根拠となった法令が書かれていた。


 スマホの電源を切ったり、声が届かない場所に置いたまま喋ったことが判明した場合、過料百万円という普通のケースよりも厳しい措置がとられることになっていたのである。


 近松豊治は、横になったまま手を伸ばし、スマホを操作した。同じような内容の過料決定通知書が、もう一通届いていた。


 ――こんなので、二百万円かよ、おい。


 老人は寝返りをうって、天井を見つめた。大きなシャンデリアが目に入った。

 こんなに早く通知が来るとはな、豊治は思う。確認メールを全部無視したからか。


 地下街で女と会話したのは、むろんワザとしたことだった。豊治としては、発声を規制するという前代未聞の行動に出た政府に対する軽い挑戦のつもりでやったことだった。ちょっとしたいたずら、もしくは実験という気持ちだった。


 監視カメラと密告のメールだけでは、どこの誰だか分かるはずがない。豊治はそう思っていた。この制度の穴を突いたはずだったのだが。


 ――ひょっとして、俺が有名人だからか。


 近松豊治は《北国のラブホテル王》という異名を持つ実業家であった。


 ラブホテルのチェーンを展開しており、北国のあらゆる場所に四十軒を超える店舗を有している。ホテルは、部屋ごとに様々な外国の都市をテーマにした豪華な内装がほどこされ、各国の現地から取り寄せた調度品が室内を盛り立てる。その国の音楽をBGMで流し、部屋の香りや温度や湿度にまでこだわって、きめ細かな部屋の雰囲気が創り出されている。まるでその国に行ったような気分になれるとユーザーには人気だった。


 豊治は、マスコミにも何度か取材されているので、世間的には顔が割れているのは確かなことだった。ネットに顔写真が流出していることも確認している。


 それにしても。住所までは、知られていないはずだった。


 豊治は、にが笑いしながら思う。そうだった。この件の相手は政府だったな。政府なら俺の顔と住所を結びつけるぐらい朝めし前だべ。待てよ。他のやつらは、どうなんだ。俺みたいに簡単でないはずだ。見つけられないんでないか。すると有名税みたいなもんか。なんか損した気分だな。まあ、過料の金額から考えて、俺みたいな事をしでかすやつが、たくさんいるとは思えないが……。


 ――そうか。警察も動いているのか。


 公表はされていないが、おそらくそうなのだろう、彼はそう推察した。

 豊治は、また寝返りをうって横向きになった。


 真正面には視聴覚室と呼ぶにふさわしく、年代物のオーディオセットや懐かしい大型のスピーカー、百インチを超えるモニター、レコードやCDが大量に整然と並んでいる。カラオケセットもあった。

 レコードは、ほとんど演歌ではあるが、貴重なコレクションと云える感じで、半世紀以上も前の物も散見された。


 ――俺の楽しみを、奪いやがって。


 豊治は、演歌を聴くのが趣味であった。仕事を終えた後、毎晩酒を飲みながら、この部屋で演歌を聴くのが習慣になっていた。気が向くと自らマイクを持ち、歌うこともあった。音程は、かろうじて合ってはいるものの、がなるだけの何の変哲もない歌声ではあったが。


 だからこそ、幾多の演歌歌手の凄さが実感できて、興がいっそう深まるのであった。

 その何よりの楽しみが、今月はいっさいできていない。


 シャラップ宣言下では、歌うことはもちろん、声楽曲を流すことも基本的には禁止だからである。本来、独りしかいない部屋の中で演歌を流すことは感染と何の関係もないはずだが、音声管理局のサーバーを圧迫するからという理由で、それもできないのであった。


 ――なんだ、この茶番は。ヘッドホンで、ちまちま聴けってか。


 耳元で聴くために、この手の込んだ視聴覚室をあつらえた訳ではない。たっぷりの臨場感とともに名曲を味わいたかったのである。


 コロナ禍を収束させるために必要なことであることは、彼も分かっている。シャラップ宣言が、今までの宣言と違って一番効果的なのも、頭では理解していた。しかし豊治にとって、この状況は、やはり耐えがたいことであった。


 シャラップ宣言へのささやかな抵抗として、豊治はラブホテルの各部屋に、ウレタンスポンジを詰め込んだプラスチックの箱を配備しようと考えていた。《聞かざる君》と名づけたその箱に、利用客たちのスマホを入れてもらい、男女の秘め事の会話を思う存分楽しんでもらおうという趣向である。室内には密告者が隠れひそんでいることは有り得ないし、彼らをのぞき見る監視カメラも無い。


 おおっぴらに宣伝はできないものの、SNSか何かで評判になれば、少ない設備投資で、かなりの売上の増加が見込まれた。


 ひょっとしたら音声管理局か警察の手入れがあるかもしれないが、いったい何の罪に問われることになるのだろう、豊治は思った。そうこうしているうちに、一月は終わるはずだった。


 彼は、今月下旬に本社で行われる予定の定例会議とその後の慰労パーティーのことを思い浮かべた。各ラブホテルの店長を集めて、売上の状況報告を会議で聞き、慰労というか豊治が店長たちを恫喝し続ける宴会のことを。


 先月までは自粛要請に応えて開催していなかったが、今月は絶対にやると既に決めていた。《聞かざる君》を置いた後の各店舗の反響も確認したいし、部下たちを叱咤激励するのも楽しみであった。


 ――これだけは、外せないな。


 もちろん会議もパーティーも黙ってやるなんて、考えてないぞ。くっちゃべってやる。豊治は寝返って、また天井を見つめた。久々に行われる当日の光景を想像しながら。

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