第5章

睦月――中旬(Part1)

『このままでは、ゼロにならない』


 雫森玲香は、村越優也の書いた手帳のメモを見つめていた。それはいつもの走り書きではなく、一文字一文字ていねいに書かれていた。彼女に会う前に、書いたものだった。


 玲香と村越は《プロスぺラ》のフロアーのテーブル席で、注文した料理とワインが運ばれてくるのを待っていた。激しいダンスを想起させる情熱的なリズムのギター曲が流れている。店内の席は、ディナーを楽しむ人たちで、ほとんど埋まっていた。声は聞こえないものの、せわしく動く数名のウエイトレスの姿が、店内を活気あるものにしていた。


 窓ガラスによって締め切られたフロアーの外には、玲香と村越がシャラップ宣言について何度も話しをしたオープンテラスがある。そこは今、寒さのために閉鎖中になっていて、パーテーションが無くなったテーブルと、その周りの椅子が凍り付いたように並べられているだけだった。


 玲香は村越を見た。眼光が鋭くなっている。久々に見る彼の表情だった。


 ――今夜はデートのつもりで、きたんだけどな。

 彼女は、そう思いながらもメモを書いた。

『ここのところ、感染者数が横ばいだから?』

 村越は首を横に振って、テーブルに置いてあったグラスを取り、水を飲み干した。


 一月に入ってから、全国の一日当たりの新型コロナウイルスの新規感染者数は、ずっと三千人前後で推移していた。しかしこれは、シャラップ宣言が発令される前の十二月に感染した人の数字である。感染者数は、まもなく激減するだろうと誰もが予想しているところであった。


 玲香は、続けてメモを書いて、村越に見せた。

『じゃあ、水際対策のこと? もう落ち度はないはずだけど』

 村越は、また首を横に振った。メモを書きはじめる。


 入国者の水際対策は、シャラップ宣言の発令に合わせて強化されていた。自宅待機を一切取り止めにし、政府が指定したホテル等の宿泊施設に全員入居してもらっていた。期間は一箇月。入国者は、感染者の軽症とほとんど同じ扱いの、強い監視体制下で生活していた。今年になってからは、入国者がこの国の人と会ったり街を出歩くという事態は、全く無いはずであった。用意された宿泊施設は間もなく満杯になるため、大人数が収容可能なスポーツ選手のエリート村の施設を利用することも既に決定している。


『シャラップ宣言は問題ない。成功する。この国のみんなの力で、何とかここまでにした。だからこそ、ゼロを目指す生活様式だけでは意味がないんだ。ゼロにしないと。こんなことを二度とやるわけにはいかない。ここでゼロにしなければ、このやっかいなウイルスは、また必ず数を増やす。そうなったらイチから出直しだ。こんな生活は、これで終わりにしなければ。今は、一度きりの大勝負の時なんだ』

 村越の手帳を持つ指が、かすかに震えていた。


『わかったわ。ゼロにするには、どうすればいいの?』


 その時、店長のなぎさがサービスワゴンにタパスの皿と赤ワインを乗せて、ふたりのテーブルにやってきた。


 玲香は、あわててメモを書いて、彼女にだけ見せた。

『ごめん、なぎさ。後にしてもらっていいかな? この人と、これからちょっと仕事なの』


 なぎさも黒いロングエプロンのポケットから、注文伝票を取り出して、その裏をメモ代わりにして書き、玲香にだけ見せる。

『あら。今夜はプライベートなのかと思ってたわ』


『そうね。だから、お食事はお食事でゆっくり楽しみたいの。ほんとにごめん』


 なぎさはうなずいて、微笑みながらサービスワゴンを引いて厨房の方に戻っていった。


『明日から、わたしはまた眠れないほど忙しくなるのよね』

『たぶん。でもこの前ほどには、ならないと思う』


 ふたりは、しばらく見つめあっていたが、やがて周囲に決して聞かれることのない密談に入っていった。





 徳山拓信は、経理課の同僚たちと会社の近くにある老舗の和食の店に入っていく。


 今夜は遅ればせの新年会だった。ほんとは上旬にと企画されていたのだけれども、この店の一月限定のコースが、けっこうな評判を取っていて予約が取れなかったのである。そのコースの名は《サイレント会食》。美味しい食べ物とお酒は、人を黙らせる力がある。それを提供しようとするこの店からの挑戦状のようなコースだった。


 靴を下駄箱に入れ、暗めの照明の廊下を拓信は同僚たちと歩く。彼の気持ちは、軽いとは云えないものの、若干の高揚感があった。


 この新年会は、昨年の四月に人事異動があってから、初めての飲み会だった。普通ならば、花見を兼ねた新人の歓迎会から始まって、決算業務終了の打ち上げや、暑気払い、忘年会それから営業課などの他のセクションとの交流やらなんやらで頻繁に行われる飲み会が、昨年は全く行われなかった。


 拓信は、飲み会が無くなってせいせいしている反面、どこかで一抹の寂しさも感じていた。それは好きとか嫌いとかの気持ちを超えて、仕事の一部になっていたからだろう。むろん、残業手当など出たことなどないが。


 宴会の部屋は、襖が開いていた。拓信たち十人は、それぞれ宴席につく。課長は座敷側の奥の中央に、ほかの者はそれなりに。席には本日のお品書きと共に、箸やグラス、おちょこが置かれている。

 部屋は純和室のおもむきだが、席は掘りごたつのようになっていて、座りやすかった。


 酒類は部屋に入った時からテーブルの上に置かれていた。冷えたビールやウイスキーのボトル、赤白のワイン、ソフトドリンク。日本酒は大吟醸や純米酒の著名な銘柄が十本近く並んでいる。高級な部類の飲み放題で、料理との合わせを楽しんでもらおうという、この店が考えた企画だった。


 グラスやおちょこに酒をついでいるうちに、仲居さんによって、先付けが運ばれてきた。


 ふぐ刺しをこんもりと盛り付け、その上に、ちりめんじゃこを振っただけのシンプルなものだった。


 一同は、酒の入ったグラスを掲げて笑みを浮かべると、隣りどうしになった人とそのグラスを静かに合わせて宴をはじめた。


 拓信は、箸で先付けのものをつまみ、口に入れた。こりこりとかりかりの食感が同時におとずれた。ちりめんじゃこの塩の味がほどよい繊細な味だった。とろっとした日本酒と合わせて、喉に流し込むと、口の中には複雑な旨みが残った。


 彼は同僚たちを見渡した。みな満足げな顔をしている。自分もたぶんそんな顔をしているのだろうと拓信は思った。たまにはこんな飲み会もいいかもしれない。これで同僚とのコミュニケーションが取れるかどうかは正直疑問だが。コロナ禍が去ったら、今夜の話をゆっくりすればいい。共通の同時体験は、意外と長く記憶に残るものだから。


 先付けに続いて、お凌ぎが運ばれてきた。鮨が二貫。ぷっくりとした小ぶりのホタテと、銀の筋が鮮やかなキビナゴ。北と南の食材を一皿に盛った大胆な取り合わせだった。


 どんな酒と合わせようか、拓信はそう思いながらテーブルの端に並んだ充実した酒類を見つめた。極上の酔い心地を予感していた。


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