極月(Part3)

 音声管理局。

 それは、シャラップ宣言下による感染対策が、成功するかどうかを決める重要な機関である。


 シャラップ宣言により特別に新設された国の機関であり、支局が設置される場所は、全て各地方公共団体の施設の中にあった。国と地方に垣根が存在するこの国の機関としては、まれで特異であると云えた。その組織形態は、場所を同じくすることによって国と地方の連携を強め、行政全体でシャラップ宣言を実現しようとする意図と決意が現れていた。


 雫森玲香と村越優也は、とある区役所に設置された音声管理局の支局に来ていた。


 戸籍住民課や税務課、地域振興課、医療保険課など様々なセクションに分かれたフロアーの奥の片隅に、机ひとつだけ置かれたこじんまりとした場所がある。その机には、人材会社から派遣された女性――橋本美咲がひとり座り、パソコンの画面を見つめていた。軽くブラウンに染めた長い髪。目鼻立ちがはっきりとしたこの彼女は、ついこの間まで大手電話会社のお客様苦情センターに派遣されていた。


 玲香と村越は女性のかたわらに立っていた。室内にも関わらず、玲香はイエローグリーンのリバーコート、村越は濃紺のチェスターコートを、はおったままだ。というのも、両手がふさがっているからである。


 玲香と村越は、それぞれ筆記用具を両手に持って筆談をしている。二人とも、もうマスクはしていない。お互いに顔を見合わせ、相手の表情を読み取りながらメモを書いていくことで、よりスムーズに考えていることが伝わるようになった気が、二人はしていた。


 ただ玲香は、はっきり見れるようになった村越の形の良い唇に、目がいってしょうがなかったけれども。


『なんとか間に合ったようだね』

『ワクチン接種の時に作った記録システムが土台になったの。それでもこのシステムを作った会社の人たちは、総出になって徹夜続きだったらしいけど。けっこう倒れちゃった人もいたみたい』

『システムの詳しいことは分からないんだけど、出来はどうなんだい』

『完璧とは、ほど遠いわね。あちらこちらでバグとか出てるみたい。今はその修正で、やっぱり徹夜続きらしいわよ。しょうがないわね。時間がなかったんだから』

『そんなので、だいじょうぶなのかな』

『ゆるゆる。言いだしっぺは村越さん』

 村越は頭をかきながら、うなずいた。


『デモ画面、始まりそうよ』

 二人は、パソコンの画面をのぞき込んだ。


 支局の仕事が来月どのくらいの量になるのか、玲香は測りかねていた。違反者として過料に処すべきか否かの最終決定をくだすのが、この支局だからである。支局員の仕事量は、当然のことながら声を発したかどうかの被疑者の数によって上下する。


 パソコンにデモンストレーション用のメールが何通か送られてきた。当局の問い合わせに対しての被疑者からの返信という設定である。


【すいません。たしかにしゃべったと思います】

【話なんかしてねえよ!】 

【あたしは言ってません。隣りにいた母の声がひろわれただけです】

【よくおぼえてませんが、わたしの声なのでそうなのでしょう】

【記憶にございません。何かの間違いなのでは】…………


 音声管理局は、各支局の上層に地方本局を置いている。地方本局には、管轄する地域の音声データ、警備会社等からの抽出データ、密告データが集中することになっている。違反者の認定は、まず地方本局から違反と思われる音声ファイルと共に定型文で被疑者にメールが送られる。被疑者は一日以内に支局に返信しなければならないことになっていた。


 橋本美咲は送られてきたメールを読んで、声を発したと認めている者には、被疑者リストの各行の左端に設けられたタブから、(認定)を選択し完了したことのチェックを入れていった。


 また、他人の声だと主張している者については(要調査)を選択した。被疑者リストは地方本局と共有されている。地方本局はGPSデータを検索して、近くにいた者を割り出し、結果を支局に連絡をすることになっていた。


 そして、チェックの入らなかった被疑者及び返信のなかった被疑者に対しては、支局から再度メールを送り、確認を促すのであった。


 橋本美咲は、その返信用のメールを書き始める。文例集があるとはいえ、一件ごとに細やかな対応が必要なので、気を使うむずかしい作業ではあった。


『過料を課すとなると、一人一人確認をとらなきゃならないんだね』

『どのくらいの手間になるか、予想つかないから人員だけは確保しました。研修も終わってます』

『だいじょうぶだと思うけど。感染者も減少傾向だし』

『ほんと。ダマットレが浸透しただけなのにね』


 全国の一日当たりの感染者数は、十二月に入ってから急激に減りはじめ、ここ二、三日は五千人を割り込んでいた。国民は、この感染対策の威力を実感しつつあった。ダマットレを行う人の数は、感染者数と反比例するように伸びていた。閣僚の中には、あえてシャラップ宣言を施行しなくても収束するのではないかと言い出す大臣さえいた。


 一通りの入力を終えた橋本は、玲香の方を見て指でOKのサインをつくった。

『ありがとう。見学させてもらって』

 玲香は橋本美咲にメモを見せて深々と礼をした。村越もつられて、少し遅ればせながら礼をする。


 それから玲香は、この場所で書いたメモのページを全て破り、村越にも同じようにするように目配せをした。村越も破って、それを彼女に渡した。

 玲香は税務課の机が並んでいる方に歩いていき、そこに置いてあるシュレッダーの口の中へ、手に持っていた紙の束を滑り込ませ、処分した。


 二人は、区役所から外に出た。自動ドアが開いた瞬間、年の瀬の冷たい硬質な空気が二人をつつんだ。


 この街の高台に立てられた区役所から、二人は坂道を下ってゆく。様々な高さのビルが並ぶ雑然とした街の上にある空を眺めながら、玲香は歩いた。うすぐもりの空の中から、力なくぼんやりと輝く太陽が、西の端に近づきつつあった。クリスマスがはじまる日没の時が迫っていた。


 坂を折りたところで、玲香は村越に肩を叩かれた。彼の開かれた手帳が目の前に現れる。


『仕事、終わりなんだろ。これからプロスぺラに行かないか』

「えっ? これから」

 思わず声が出てしまっていた。玲香は、あわてふためいてリバーコートの深い大きなポケットからメモ帳とペンを取り出す。


 村越は、にっこり笑って手帳の新しいページを彼女に見せた。

『来月だったら、過料10万円』

『びっくりさせるからでしょ。プロスぺラは今夜、予約で満席よ。きっと』

『予約なら、してある。2名で。先月に』

 玲香は、胸の鼓動が高鳴るのを感じながら新しいメモを書いた。

『そうなの。じゃあしかたないから行こうかな』

『プレゼントとかは用意してないけど』

『そう。10万円徴収する気がないなら、それでいいわ』


 村越は、バッグからスマホを取り出して画面をいじりはじめた。


『手際、わる。プロスぺラへの最短ルートの駅は、あっちよ』

 玲香は地下鉄の駅に向かって、つかつかと歩き出した。

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