極月(End of chapter)

 コロナ禍になって、二度目の大晦日がやってきた。そしてこの日は、第四次緊急事態宣言の最終日であり、またダマットレの最終日でもあった。


 徳山拓信は、不織布マスクをして雑踏の中を歩いていた。かなり大きめのリュックサックを背負っている。正月に食べる物の買い出しをしているのであった。それは拓信にとって、大晦日の恒例となっていた。


 年末になると爆発的な安売りをする横丁。密になっていることを恐れることもなく、動き回る人々。だが、店の売り子も買い物客もみな、一様にマスクをつけている。昨年の末頃から既に売り子の声は小さくなっていたが、今年はさらに身振り手振りを加えて、できるだけ声を出さないように努力をしているようであった。


 拓信はウニやイクラ、カズノコ、かまぼこ、お菓子の大袋を買い込んだ後、最後に本タラバガニが背高く縦に大量に並べられている店に行った。そこで、彼は指で数字をつくりながら、いかつい体つきのおじさんと長らく交渉して、値段よりもだいぶ安く本タラバガニを手に入れることに成功した。


 手提げ袋に入れたカニを持ち、ささやかな充実感に満たされながら歩いていると、ドラッグストアの軒先のワゴンに見慣れないマスクが、どさっと置かれているのが目に入った。


『シャラップ宣言下対応! 幼児用マスク! これであなたのお子さんもダンマリ』


 黄色い紙に赤い文字のポップ広告がワゴンの正面横に貼られていた。マスクは一枚ずつビニール袋に入れられている。


 拓信は、マスクを手に取った。幼児用というだけあって、大人用の半分ぐらいの大きさの布マスクである。一枚五百円。とんでもなく高額だ。

 しかし、その値段には理由があった。マスクの内側に、おしゃぶりのような突起物が付いているのだ。


 ――そうか。これを口に含ませて黙らせるのか。これは、いいかもしれない。


 大樹は、家と幼稚園でダマットレを一ヶ月余り続けてきたが、声を出さない生活が明日からできるかというと不安があった。今でも大樹は家にいる時ふいに、声を出してしまうことがあるのだ。


 明日は大樹を連れて、両親が住む実家に行くことになっている。外出時に大樹が声を出してしまわないか、拓信はだんだん心配になってきた。

 彼は、そのマスクを予備のものも含めて三枚買い、家路に着いた。



 


 承然和尚は、僧房の居間で僧衣に着替えて、寺の中庭に出た。もうあと一時間ほどで今年も終わろうとしている。


 空気は、冷えるほどに澄みわたっていて、承然の気持ちを凛とさせた。


 海に向かった中庭のへりの方には、古びた鐘楼堂があって、彼はそこに向かって歩を進める。


 お堂の屋根の四隅は、幾分せりあがって天に向かって伸び、吊るされた撞木が半分、四方の柱によって区切られた空間からはみ出ていた。これといって特徴のない鐘楼堂ではあるが、ひとつ他のそれと比べて決定的な違いがあった。


 そこには鐘が無かった。


 承然がこの寺を継いだ時、既に鐘楼堂は、もぬけの殻だった。

 鐘は、もう半世紀以上も前からこのお堂からは無くなっていた。太平洋戦争の際に、ときの軍部から供出を強要されて、鐘は溶かされ、ただの鉄となり何処へと行ってしまったのである。


 お堂を戦前の姿に戻すことは、この寺を継いだ承然の使命であり夢でもあったが、思うように資金が集まらず、どうやら果たすことはできずに終わりそうであった。


 承然は、吊るされた撞木のかたわらに立った。

 眼下は、深夜だというのに家々の灯りに満ちて、光の靄となって町なみを照らしている。


 彼は合掌した後、撞木を括り付けた太い紐を手に持ち、何もない空間を突いた。

 重々しい響きが承然の胸の中にひろがって、余韻を保ちながら消える。


 鐘は無くても、除夜の儀式はできる。いやむしろ、この土地に住む人々の煩悩を今年中に取り払うために、除夜は行わなくてはならない。承然は律儀にも、そう考えていた。


 いつの頃からか始めた独りっきりの除夜の儀式ではあったが、今年は特に紐を握りしめる手に力が入った。


 コロナ禍で生み出されてしまった人々の感情──ささやかな幸福が消えてしまったことへの立腹や、ほころんだ人間関係の悲嘆、対策がお粗末過ぎる政府や地方公共団体への失望や、思わぬ幸運で大金を得た人たちへの嫉妬などを除くべく、承然は一回一回念を込めて空間を突き続けた。


 はたから見れば、それは愚かでばかばかしい行為のように見えるかもしれないが、彼は真剣だった。

 額には、いつしかうっすらと汗が滲み、吐く息の白さは濃くなった。突き続けるうちに、持病の膝の痛みが始まってしまったが、それで彼の動きが止まることはなかった。


 胸の中ではあったが、承然は百七回の鐘の音を聞いた後、腕時計を見た。

新型コロナウイルスという見えない、得体の知れないものに振り回され続けた一年が、終わろうとしていた。


 承然は、明日からはじまるシャラップ宣言の成功を祈って合掌し、目を閉じた……。


 来年こそ、来年こそは平穏な日常に戻りますように。胸の奥にくすぶり続ける不安で、顔がくもる日々が終わりますように。かけがえのない人と、気兼ねなく楽しく会話できる日が帰って来ますように。


 承然は、コロナ禍で今を生きている人々の共通の願いを聞いたような気がした。





 後に、この国の歴史に深く刻まれることとなる奇跡の二か月間が、やって来ようとしていた。


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