極月(Part2)
レッスンスタジオの中は、活気に満ちていた。
アイドルポップスの曲とともに、人が激しく移動する音。様々な香水と汗の入り混じった匂いが、室内にただよう。女の振付師の叩く手拍子が、正確に十六ビートを刻んでいる。
今日は、アイドルグループの正月公演に向けた練習の一日目。四十人くらいの娘たちが、三チームに別れ、ダンスの練習をしているのだった。室内にいる者は全員マスクを着用している。
今は、片柳萌奈が所属するチーム青紫の十三人が、フロアの真ん中に出て踊っていた。他の二チームのメンバーは、チーム青紫のダンスを真剣に見つめたり、何人かが寄り集まって振付の細かい確認をしたりしている。
青紫が踊っているこの曲のダンスは、複雑なフォーメーション移動で構成されていて、グループのオリジナル曲の中でも難度の高いものとされていた。センターが頻繁に入れ替わる曲であったが、その曲でさえ萌奈は、その位置に立つことはない。彼女に要求されているのは主に、後ろの方ですばやく端から端まで移動することだった。
練習の一日目ということもあって、ダンスの完成度はそれほど高くはない。今日やっていることは、各メンバーの頭の中に振りがちゃんと入っているかの確認と、フォーメーションの場位置をしっかりと覚えてもらうことだった。
当然のことながら彼女たちは、数日前にスマホに送信されてきた振付ビデオのファイルを見て自主練習をし、ある程度のレベルまで仕上げてきてはいるのだが、それでも午前中から始まった練習は、正午を挟んで今の夕方近くまで続いていた。
曲がエンディングに入り、やがてピアノの余韻とともにダンスが止まった。
「はい。青紫、おつかれさま。今日はもう上がっていいわよ。次は薄桃、スタンバイして」
振付師の言葉に、娘たちはドタドタと移動した。
ここでもダマットレは、まだ行われてはいない。そんな余裕はないのだった。久々の公演だからといって、手を抜いたパフォーマンスを観客に見せるわけにはいかない。ヲタクたちは意外と目が肥えているのであった。出来の悪いパフォーマンスの評判はSNSを通して、あっという間にひろがってしまう。
片柳萌奈は、頭から流れ出る汗をタオルで拭きながら、青紫の他のメンバーといっしょにレッスンスタジオを出た。その拭いているタオルも、かなり湿り気を帯びている。マスクもTシャツもジャージのパンツもびしょびしょだ。萌奈は、他の娘たちといっしょに更衣室へと向かった。
シャラップ宣言の発出を受けて、事務所はこのアイドルグループのコンサートツアーの再開を、先月発表した。今までは人気のある中心メンバーが、ぽつぽつと地元のテレビ局のバラエティー番組に出演する程度だったので、全員そろっての本格的な活動は久しぶりとなる。
「おつかれさま。相変わらずダンス、かんぺきやったね」
萌奈の隣を歩いていた城崎つぼみが声をかけてきた。つぼみとは、同期で同じチームという間柄である。たれ目で丸顔の、おっとりとした雰囲気の子で、そこそこ人気がある。
「そげんことなかばい。新曲は、まだまだだし。覚えるのがやっと」
コンサートツアーに合わせて、新曲の発売も予定されていた。そのレコーディングは先週終わり、完成された楽曲が早くも今日の練習に使われていた。
「さっきスマホ見たらね、けさ発売なのに、全公演完売しとった。すごかねえ」
「ふうん」
萌奈は、興味なさげに相槌を打った。歌唱を重視している萌奈にとって、今回のコンサートの客入りがどうなろうと、あまり関心がないのであった。
チーム青紫のメンバーたちは、大声で談笑しながら更衣室へと入ってゆく。
事務所が活動の再開を決断したのには、理由があった。今まで何となく緩和されていたコンサート会場におけるソーシャルディスタンスのルールが、シャラップ宣言下では公式に撤廃されることになったのだった。今までルールとしては半数程度しか入れられなかった観客を、大手を振ってフルで入場させることが可能になったのである。事務所としては、採算面で二の足を踏んでいたコンサートを、復活させる好機なのであった。
ただ、コンサートといっても生で声を出すわけにいかないので、当然全曲口パクということになる。あらかじめ録音された歌声を流すわけだが、それもやはりスマホは声と感知してしてしまうので問題は残る。それについては、コンサートの開催を事前に音声管理局に届け出ることによって、歌声の音を流しても良いということで解決済みとなっていた。
正月公演で披露するセットリストは、ダンスに見せ場がある楽曲で構成されていた。どちらかというと歌声が魅力的な萌奈にとって、今回の公演も華々しい出番はないのであった。
片柳萌奈と城崎つぼみは、着替えを終えて更衣室から出てきた。
「久しぶりだし、どげん? ごはんとか」
つぼみは、自分のおなかを撫でながら萌奈に言った。
「ごめん。これからバイトなんだ」
「まだ続けとーと? カラオケボックス」
「うん……」
二人は、レッスンスタジオから外に出て、別々の道を歩いてゆく。
萌奈は《カラフルシング》が入っている雑居ビルに向かって歩を進めた。体は、練習でかなり疲れていたが、バイトに行くのにタクシーをひろうのもなんか変なので、彼女は歩くことに決めた。《カラフルシング》までは三十分ほどの道のりであった。萌奈は、マスクを外した。それは、彼女にとって、これから声を出さないという切り替えのスイッチであった。ダマットレの開始である。萌奈は、大きく息を吸い込み、歩く速度を早めた。
街はクリスマスシーズンということもあって、華やいだ雰囲気だった。暗くなり始めた並木道に冷たい光のイルミネーションが映えていた。路に居並ぶショップの入り口のところどころに、飾り付けられたツリーがあって、風景に静かな彩りを添えていた。
今日は休日ということで、行きかう人々も多く、マスクをしているしていないは人それぞれだったが、会話をしながら歩いている人を、萌奈が見ることはなかった。みなメモ帳やスマホを、やり取りしながら歩いていた。ゼロシキに載っていたあいさつ程度の簡単な手話をしている人もいた。この都市でダマットレを行う事は、公の場ではマナー化しつつあったのだ。
萌奈は、雑居ビルに入り《カラフルシング》の扉を開けた。
受付のカウンターの中に女社長が、ひとり座っている。彼女の表情は明るい。カウンターの上には、メモ帳とボールペンがいくつか置いてあった。
萌奈もバッグからメモ帳を取り出し、筆談をはじめた。
『すいません。練習が長引いちゃって』
『いいのよ。これから混んでくる時間帯だから、ありがたいわ』
『今日も満室ですか』
『あと2つぐらい。このあと予約もいくつか入ってるから、そろそろ延長をお断りしないと』
この店の売上は、最近うなぎ上りだった。今月の売上は、シャラップ宣言発出前の二か月分を優に超えていた。
店の中はマスク着用、マスクを外さないようにお酒と食べ物は提供しない、喫煙は禁止にしているにも関わらずである。
お客が増えた理由は、来月歌えなくなるということで、今月のうちに思いっきり歌っておこうという、いわゆる駆け込み需要だけではなかった。人々の、心の底に眠っていた歌って曲を楽しむという喜びをシャラップ宣言は刺激したのだった。
『来月も、お店開けるんですか』
『そのつもり』
『だいじょうぶなんですか。歌えないカラオケボックスなんて』
計算上は、来月分まで今月既に稼いでしまったわけなので、無理して店を開ける必要もないのである。休業すれば、雀の涙ながら支援金も出ることになっている。
『さあね。でもやれるだけやってみないと、くやしいじゃない。コロナに負けるみたいで』
女社長は萌奈にメモ帳を見せて、にっこり笑った。
フロアの奥の方にある八番ルームのドアが開いて、客が出てきた。
『いつものように、消毒とおそうじ、お願い』
萌奈は、うなずいた。受付カウンターのカーテンで仕切られた裏に行き胸当てエプロンを身につける。清掃道具を持って八番ルームに向かおうとしたところで、会計が終わった女社長に肩を叩かれた。
『ルームの中に、来月の宣伝ポスター貼っといたから、しっかり見といてね』
萌奈は、感心した表情をつくって何度もうなずくと、清掃作業に入っていった。
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