霜降月(Part3)

 首都からは遠く離れた西に位置する地方都市。その都市でも有数の繁華街。


 大規模なデパートや地下にいくつものショッピング通りを抱えたこの街は、複数の鉄道やバスが駅に乗り入れ、常に活気に満ちている。


 第五次緊急事態宣言の発出から、一夜明けたこの街なかの風景は、見た目はいつもと変わらなかった。


 駅は職場へと向かう降車した人々で混雑し、駅の付近では、朝食を済ましてこなかった人を当て込んで、カフェや牛丼チェーン、立ち食いそば屋などが、店を開いていた。


 その中のひとつ、本来なら二十四時間営業のはずだが、短縮営業の要請を受けて、今は午前六時から営業しているラーメン屋があった。


 厨房からは白い湯気が立ちのぼり、二人の料理人がせわしく動いている。

 客層は、年齢高めの男性サラリーマンがほとんどだ。黙々と麺をすすり、スープを飲む。会話をするものなどいない。


 そんな客たちに混じって、ひとり豚骨ラーメンをすすっている若い女がいた。ボブヘアが、よく似合う卵形の顔。切れ長の目。だぼだぼの薄茶色をした厚手のワンピースの袖をまくり、一心不乱にラーメンと戦っている。


 ――朝でも、うまかもんはうまかね。んー、たまらんちゃ。スープ最高。


 彼女の名前は、片柳萌菜。この街に移り住んで四年目になる。


 萌菜は、麺を食べ終えると、わざと最後に残しておいたチャーシューを口に入れた。薄い肉は、すぐに彼女の舌から無くなったが、それで彼女は満足した。


 膝に置いてあった、お気に入りの焦茶色のベレー帽を被り、不織布マスクをして外に出る。

 萌菜は人混みの中を歩く。黒いロングブーツで舗道を叩くようにして。五分ほど歩き、とある雑居ビルに入ってゆく。


 エレベーターに乗って五階で降りると、そこは彼女の現在の職場だった。

 《カラフルシング》と書かれたポップな看板が掲げられている。部屋が十室ほどのカラオケボックスの店。


 萌菜は鍵を開けて店内に入り、胸当てエプロンをして店全体の掃除をはじめた。といっても、昨日閉店してからアルコールを使っての入念な掃除は済ませてあるので、チェックを兼ねてふきんで軽く拭く程度ではあったが。


 店は十時から開けることになっている。一連の宣言下の前は正午に開けていたが、閉店時間が午後八時に制限されてからは、二時間繰り上げて営業しているのであった。


 部屋の掃除が半分ほど終わったところで受付カウンターを拭いていると、店内に中年の女性が入ってきた。


「あっ、社長、おはようございます。……どうしたと。まだ開店まで、時間があるとに」

「心配で眠れんかったとよ。ここに来てじっくり考えたかったんよね」

「なんかあったと」

「あんたテレビ見とらんの」


 萌菜は昨夜、部屋に戻るとすぐにベッドに入り、スマホを見ながら寝落ちしたのだった。ダイエットのために電車に乗らず歩いて帰ったため、ひどく疲れていたのである。


 店長から宣言のことを大まかに説明された萌菜は、狼狽した。


「声出し禁止って、この店はどうなるとね」

「そればこれから考えるけん。あんたは、おそうじ続けて」

「は、はい」


 萌菜は、残りの部屋の掃除に取り掛かった。テーブルや機材を拭きながら、彼女もこれからのことを考えていた。年末まではこのバイトは続けられるとして、一月からは職なしかあ。生活はどうすると。切り詰めにゃいかんとね。……不安でしょうがなかった。


 片柳萌菜の本業はアイドルである。


 この都市に本拠地を置く多人数のグループに所属して、四年目だ。といっても、そのうちの半分はコロナ禍で休業しているようなものだったが。


 高校を卒業してからの遅い参加にも関わらず、彼女は歌もダンスも懸命に練習して、他のメンバーの実力をしのぐようになっていた。とりわけ歌は、艶のある歌声と音程の精度で、レッスンの先生からも一目置かれていた。


 しかしながら。萌菜の人気は、なかなか上がらなかった。所属しているということ自体、一般の人には知られていなかった。その原因は本人にも分かっていた。そこそこかわいいのでアイドルにはなれたものの、センターに立つだけの華やかさが彼女には欠けていたのである。事務所のスタッフやグループ内で一度評価が定まると、それを変えるのはむずかしい。萌菜は、アイドルをやめてからのことを、もう考えていた。


 ――歌っていきたい、ずっと。そのためには練習やわ。


 このカラオケボックスのバイトでは、客の少ない時間帯に、空いてる部屋をただ同然で貸してもらっていた。ここは萌菜のレッスン場とも云えた。お金のことも心配ではあったが、思いっきり歌える場所が無くなることの方が心配だった。この場所だけではない。この国のどこにいても思いっきり歌える場所など無くなってしまうのだ。


 萌菜が、掃除を終えて受付カウンターに戻ると、女社長は両手で頭を抱え込み、肩を震わせて泣いていた。


 店を閉めることになるかもしれない、萌菜は思う。バイトながら、この店の経営が限界なのは薄々気づいていた。最後に部屋が満室になったのがいつだったか、萌菜はもう思い出せなかった。


 ――あたしが客寄せパンダにでも、なれれば良かったと。


 表向きはバイト禁止になっているものの、休業同然のアイドル活動下においては、バイトは事実上黙認されていた。熱心なヲタクたちの間では、どこで嗅ぎ付けるのかメンバーたちのバイト先を巡礼するのが、はやっているという。しかし萌菜の勤めるこの店には、それらしき風貌の者がやってきたことはなかった。彼女は、ヲタクたちの好奇の目からさえ外れてしまっているのだった。


 開店時間の午前十時が迫ってきていた。

 萌菜は女社長の肩にそっと触れて、それを知らせた。


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