霜降月(Part2)

 拓信は、リビングにある大型テレビを見つめていた。


 画面には、首相官邸の中にある記者会見室が映し出されている。ソーシャルディスタンスを意識して、椅子がまばらに置かれ、そこに記者たちが座っている。画面を見る限り、空席はない。


 記者会見は、午後六時から行われることになっていた。もう間もなくである。


 在宅勤務している拓信にとっては、まだ勤務中であった。なので、ノートパソコンは開いたままである。


 今は月の中ということもあって、ディスプレイにスキャンされた書類はほとんどない。拓信の現在の主な仕事は、九月に終わった中間決算の最終チェックだった。月末にはグループ会社全体の中間決算の公表を控えている。先月は決算を組むために、けっこう忙しかったのだが、この時期は比較的余裕があるのであった。


 彼がながら仕事をしているわけは、今回発出される緊急事態宣言が今までと全く異なるものになりそうだという、マスコミのリーク報道が、昨日から流れていたからである。お昼のニュースでも、特別措置法が今日にでも改正される見込みであると報じられていた。


 今までの生活が大きく変わりそうな予感が、拓信にはあった。


 内閣総理大臣が、画面に現れたのは六時を少し回ってからだった。彼は数枚の紙と、黄色いスマートフォンと小さいプラスチックのボトル、それからやや厚目のパンフレットを持っていた。


 会見の場に歩を進める。総理は透明な檻のようなパーテーションの中で、マスクを取らないまま話し始めた。


〈まずは、国民の皆様方に第四次緊急事態宣言に対する、並々ならぬ御協力を感謝致します。そして、その御労苦について敬意を表させていただきます〉


 大臣は深々と、おじぎをした。

 そんなに協力していないけどな、拓信は思う。コロナ禍の始めの頃のように、宣言に対して誠意をもって対処してきたかというと、それは嘘になってしまう。


「ただいまあ」

 玄関の方で、扉を開ける音と同時に繁美の声がした。

 すぐに繁美と大樹が、リビングに姿を現す。


「ぼく、おててあらってくるね」

 大樹は、洗面所の方に歩いて行った。

「どうだった? 緊急宣言」

「緊急事態宣言ね。さっき始まったばかりだよ。まだ前振り」


〈……というわけで、政府としましては、新たな緊急事態宣言を発出することに致しました。第五次緊急事態宣言であります〉


「はいはい、わかってますよ」

 繁美が茶化すように言った。


〈今回の宣言は、今まで行ってきた飲食店の方々の営業時間制限の自粛、企業における従業員の方々の出勤削減の要請、国民の皆様方の不要不急の外出自粛、地域をまたいでの移動の自粛などは、一切行わない方針であります。ロックアウトは、しません。この宣言が施行されて以降は、経済活動にできるだけ制限を設けないこととします。政府が重視しているのは経済です。この宣言によって、疲弊しきった経済を立て直したい、急回復させたい。もちろん十割とはいきませんが、九割ぐらいを目標に経済を回したいと思っています〉


 拓信と繁美は、驚いて顔を見合わせた。画面の中の記者たちも、意外な内容に戸惑いを隠せないようで、きょろきょろ周りを見渡している。みな政府が罰金刑をともなったロックアウトに踏み切るだろうと予想していたのである。


「ひょっとして、総理大臣、あきらめちゃったの?」

「まあ、待て」


〈ただひとつ、国民の皆様方に守って頂きたいことがあります〉

 そこで、総理大臣は言い淀んでいるかのように、いったん目を閉じた。しかし、すぐに目を開けて、語り出す。


〈それは、声を発しないということです。御存知のように、新型コロナウイルスの主な感染源は、飛沫感染です。残念ながら、マスクをしていても細かな飛沫は隙間から漏れ、エアロゾルとなって空中に飛んでいきます。もうこれを防ぐには一人一人の努力で、唾液を飛ばすのをやめるしかない。感染の元を断てば、すぐに収束に向かうだろうと政府は考えたのです〉


「そうきたのか」

「たしかに、みんなが話をしなければ、そうなるだろうけど。わたしは、おしゃべりできなくなるなんて、やだわ」


〈……本日の国会において新型インフルエンザ等対策特別措置法を改正させていただきました。国民の皆様方におかれましては、この声を発しないというルールを、お守り頂けると存じておりますが、もし万が一お守り頂けなかった場合に備えまして、過料を課すことと致しました〉


 画面の中の記者席が、うめきや小声で騒然となった。


「かりょうって、なに」

「たしか……前科はつかないけど、お金は払わされるやつじゃなかったけ」

「ふうん。えっ、お金とられるの。やだ」

「罰金みたいなものかあ。まあ、そうなるわな。今までの要請レベルじゃ、こんなの守れっこないし。外出すらろくに我慢してこなかった報いだな。こりゃ」

「今までのことは、とりあえず置いときましょうよ。問題は、そのかりょうってやつで、お金がいくら取られるかよ」


〈……という大きな決断を迫られたわけであります。内閣の間でも充分審議を尽くしまして、最終的に過料の金額については、声を発した時間の長さにより十秒ごとに十万円と致しました〉


「たっ、たっか。冗談だろ」

「えっ、一分話したら六十万円ってこと? あなたの給料より全然高いじゃない」

「重すぎるだろ。待てよ。俺たちが話しているのをどうやって見つける気なんだ」


〈……予算を組んで環境を整えさせて頂くことに致しました。第一に、皆様方がお持ちになっているスマートフォン及びお持ちになっていない方へお配りするこの黄色のスマートフォンに、あるアプリを――〉


 総理大臣が発表する違反者を把握するための三つの方法を、拓信と繁美はテレビに釘付けになって見続けた。洗面所から戻ってきた大樹が、二人の間に座ったことも気づかないまま。


 三つの方法を話し終えた総理大臣は、かたわらに置いてある水差しに手を伸ばした。


「たいへん。あなた、どうなるの。これから」

「政府、本気なんだな。これ。でも、俺は無理そうだ。政府から他人から四六時中監視されている生活なんて」

「パパ、ママ、どうしたの?」


 水を飲み終えた総理大臣は、手元にあったやや厚目のパンフレットを持って、表紙がテレビの画面に映るように掲げた。


 表紙には《感染者ゼロを目指す新たな生活様式》と書かれ、老若男女、さまざまな人々が密になってバンザイをしているイラストが描かれていた。みんな笑っていた。稚拙な感じを与えるがやわらかくて太い線、暖かみのあるその色合い……。


 拓信は、その絵を見て懐かしいと思った。ずいぶんと昔に、絵のような光景の中に自分がいたような気がした。


〈このパンフレットには、第五次宣言下における生活様式が、こと細やかに書かれています。また、声を発してもよいケースも書かれています。どうか国民の皆様方におかれましては、このパンフレットに書かれている内容を御理解いただき、新たな生活様式を守っていただきますようお願い申し上げます〉


 総理大臣は、パンフレットを置き、小さいボトルを手に取って掲げた。

〈これは携帯用のアルコールボトルです。国民の皆様方、全員に先ほどのパンフレットと共に配布致します。どんな時にアルコールを使うかは、パンフレットを御参照ください。それから、パンフレットの内容を十五分ほどにまとめた動画を制作致しましたので、こちらもどうぞご覧ください。テレビ各局、ネット配信、街なかにある広告用の大型ビジョンでも放送していきます。テレビではこの会見の後すぐに――〉


「なんだか、めんどう。あなた、勉強してね」

「なに言ってんだ。ひとこと十万円だぞ。真剣になれ」

「ねえ、どうしたの。どうしたんだよ」


〈……ビジョンでは近日中に放送を開始する予定です。なお、この第五次緊急事態宣言は来年の一月一日に施行することと致しました。期間は一箇月とします。今の第四次は年末まで施行し続けることとし、四次とはバトンタッチする形で五次が施行されることとなります。なぜ、発出から施行までこれだけの期間を置いたか。それは国民の皆様方に施行に向けての準備をしていただきたいのです。いわばトレーニング期間と申しますか、今年中に声を発しない練習をして、その生活に慣れてから来年を迎えていただきたいのです〉


 総理大臣は、そこで話をいったん切り、記者会見室全体を眺め回した。記者たちの反応を、うかががっているように見えた。


〈最後に。この宣言は国が出す最後のものとして考えてください。もし、この宣言によっても感染が収束しなかった場合、政府としては、この新型コロナウイルスを指定伝染病から外す覚悟です。どうか国民の皆様方も、このウイルスを撲滅するんだという決意をもって、宣言の内容に臨んでいただきたい。私からは以上です。ありがとうございました〉


〈続きまして、記者の皆様からの御質問をいただきます。あまり時間もございませんので幹事社である――〉


「終わりの方のあれ、どういう意味なの」

「んー、よく分からないけど指定から外して、ただの風邪ってことにするんじゃないかな」

「そうすると、どうなるの」

「そうだな。政府はコロナ予防のことをほとんど考えなくてもよくなるし、かかった人の治療費も負担しなくていいし、休業してる飲食店へお金を渡すこともなくなる……他の政策に集中できるようになる。つまりは放り投げだね」


「ずるいわねえ」

「いや、それだけお前ら真剣にやれってことだよ。やらないと見捨てるぞっていう一種の脅しだよ」

「こわーい」


 そう言って、大樹は拓信に抱きついてきた。今の家族がおかれた状況を分かっているはずもないが、夫婦の雰囲気がそうさせたのだった。


「とりあえず、大樹をどうするか、だな。仮に俺たちは黙っていることができたとしても、こいつはいくら言い聞かせてもしゃべるだろ」

「ぼく、しゃべらないでいるよ」

「できるかなあー」

 そう言いながら、繁美は大樹に近づき頭を撫でて、くしゃくしゃにした。


 テレビの画面が切り替わり、妙に明るい音楽が流れ始めた。先ほど総理が言った動画の番組が始まるのであった。

 徳山家族は、その番組を食い入るように見つめた。

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