第2章

霜降月(Part1)

 この国で最も過ごしやすく快適な季節は、終わりを告げようとしていた。

 そうはいっても今年の秋を快適に過ごした者などいなかった。親族の死など不幸に直面した人や、職を失った人、そこまでいかなくとも何らかの我慢を強いられた人ばかりであった。


 今、間近に迫った冬を前にして、人々の心はいよいよ絶望に近づいていた。ここのところの冬といえば、感染者が急増した記憶しかなかったからである。


 十月の終わりに、この国で発見された新たな変異株の影響からか、十一月に入って新型コロナウイルスの一日当たりの新規感染者数は、二万人を常時超えるようになった。一日当たりの死亡者数も五百人を上回る日が多くなり、人々は感染爆発の予感におびえていた。


 雫森玲香は、タクシーの後ろの席に座って、半ば眠っていた。午前三時を少し回った頃である。


 ここ一箇月余りというもの、彼女は膨大な事務量をこなすために、労働規定の時間をはるかに超えたサービス残業を続けていた。それでも一日の間に一度は公務員宿舎の自宅に帰り、三十分でもいいから仮眠をとって、服も着替えて、また出勤するという生活をしていた。


 そのかいあって、第五次緊急事態宣言を発出するための準備は、ほぼ終わりつつあった。


 この宣言は、十月の初め頃に玲香が素案を徹夜で作った後、すぐに策定作業に入っていった。

 と同時に、各省庁と野党への根回しも始まったが、そちらは緊急事態宣言策定局の他の局員にまかせた。

 玲香は全体の進行の管理をしただけだった。それでも、すぐにこなさなければならない仕事は山のようにあり、玲香を追い詰めていった。


 根回しの際に、表立った反対意見は、策定局の予想を裏切り、ほとんど出なかった。ただひとつ、急進的な野党から、声を発するだけで前科がつくのはいかがなものかとして、罰金刑から過料への変更を求めてきただけであった。それだけ、各省庁も野党も新型コロナウイルスの問題について手詰まりになっていたのである。


 それは有識者会議もまた同じであった。飛沫感染が主体らしいのは確実視しているものの、その先の新たな展開を促す情報やアイディアを持っていなかったのである。病理学や疫学とはほとんど無縁の、政策だけとも云える今回の宣言の内容について、彼らが助言できることは何もないのであった。


 タクシーが、玲香の住んでいる公務員宿舎についた。

 建ってから数十年経過した、簡素な三階建ての独身寮である。エレベーターはない。


 玲香は、ふらふらしながら何とか居室に続く階段まで歩く。

 真っ赤な薄手のトレンチコートが非常灯に照らされて、闇から浮かび上がった。

 肉体は限界まで疲れ切っているが、仕事のことが頭から離れることはない。


 今はいわゆる新新生活の様式について詰めているところだが、一番の問題になっているのは、生の声が社会から消えることで困る人たちを、どうフォローするのか、あるいはしないのかということであった。耳からの情報を頼りに生活している人や、声を発することによって生計を立てている人たちが、この国には少なからずいるのである。


 また、唇のきれいな助教授さんに相談しなきゃ、階段を上がりながら玲香は思う。


 村越とは十月に何度も例のスパニッシュバー《プロスペラ》で話し合いを重ねてきた。彼はその度に的確なアドバイスをしてくれた。ここまでこれたのは、村越のおかげといっても過言ではなかった。


 ――いつの間にか、服装がこぎれいになってたのよね。初めはひどいもんだったけど。ふわあ。眠い。とりあえず寝ないと。今日は何時間寝れるんだっけ。二時間か三時間ってとこか。あっ、お取り寄せしたマンゴープリン、まだ冷蔵庫にあったはず。あれはお風呂あがりに食べてから寝ないと。酸味がほどよい感じなのよね。お風呂、マンゴープリン、ベッド。お風呂、マンゴープリン、ベッド┄┄。


 玲香は居室の扉の前に立ち、茶色のショルダーバックから鍵を取り出した。眠気と戦いながらも過ごす、至福のひと時を思い浮かべながら。

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