第6章
睦月――下旬(Part1)
大通りの公園の両脇には、中高層のビルが立ち並んでいる。
平日の宵の口ではあるが、公園には、LEDのライトに照らされて雪像の粗削りをする人たちや、その関係者、作業を眺める観光客、仕事の終わったサラリーマンなどで、けっこう人影がある。雪まつりが近いのだ。
鹿泉勇人は、大きな直方体の黒いバッグを背負って、通りを歩いている。バッグの下の方は、一時的にしゃくれた形に拡張されている。大皿の料理も運んでいるのだ。鹿泉は、真新しいダウンジャケットを身に付け、慎重に足を進めている。ダウンジャケットは密告の報奨金を手にしたことで、この間やっと新調できたものだ。
彼は、道を右に折れて五階建てのビルに焦点を定め、そこを目指す。そのビルは今月の始めに遭遇した老人が、経営をしている会社の自社ビルだった。明るいライトブルーの外壁で、すらっとした印象を与えるビルである。
一月三日に不意に出会った老人の境遇は、ネットを使ってすぐに割れた。鹿泉は、まずこの都市に在住しているであろう社長の名前を集めた。そしてその社長たちの画像を、かたっぱしから検索したのである。
その老人は、ローカルテレビの取材を受けたことがあった。その取材の模様が、動画サイトにアップされていた。その動画を見たことにより、老人が近松豊治と云う名前で、経営する会社が何という名前なのか、知ることができた。
ラブホテルの店名と同じ名前のその会社――《素敵な二人》のホームページには、各店舗や本社の所在地が全て記されていた。
鹿泉は次に、会社と社長の名前をキーワードにして検索をした。近松豊治が、どんな生活をしているか探るためである。さすがに個人の情報ということになると、なかなかつかめなかった。
分かったことは、《北国のラブホテル王》と呼ばれてること、豪放な性格らしいということと、演歌の名盤のコレクターであるということ、反社会的な組織には関わっていないようだ、ということぐらいであった。
それを知ったからといって、鹿泉の目的には何の役にも立たない。老人の発する声をもう一度捕えるという目的には。
老人の近くにいって声を聞くことができなければ、このネットにおける探索の意味はないのである。
スマホのメモ画面に、せっかく打ち込んだ車のナンバーも役には立たなかった。陸運支局などの公的機関から個人情報を取得するには、車のエンジンルームにしか記載されていない車台番号も必要だったからだ。
あれこれ検索を続けるうち、鹿泉は興味深いブログに、たどり着いた。今は《素敵な二人》を退職しているが、かつて店長をしていた者が過去の経験を振り返った記事だった。
『……それでさ。
毎月下旬に本社に呼び出されるのさ。店長全員。
そこで売上の報告会議と慰労パーティーをやるわけ。
とにかく憂鬱だった。
行きたくなかったね。
特に会議のあとの立食パーティーが、ひどかった。
慰労といいながら、立ちんぼなんだぜ。
それに社長のじじいはさあ、売上が下がると怒鳴るのよ。
ほかの店長の前でさ。何度も。
ずーっと、同じこと言われるんで、頭おかしくなりそうだった。
しかもひと息つくときに、ニヤニヤ笑ってるんだ。
怖いというか、気持ち悪いというか。
今でも思い出すと、いやーな気分になる。……』
鹿泉は、この記事からパーティーが毎月下旬に行われるらしいということを知った。今でも続いているかどうかは分からないが賭けてみる価値はあった。
彼は厳冬の中、下旬に入ってから本社の周りをうろつきはじめた。といってもそれに専念しているわけではない。気の向くままに人が群れている所に行っては耳をそばだてる行為の合間に、断続的に本社の場所を訪れるのだ。
鹿泉は、一月三日に遭遇した幸運のあと、街を徘徊する行動を毎日続けていた。しかし成果は、あれ以来なかった。彼は、自然とパーティーに対する関心が高まってきていた。
そして、本日。昼過ぎくらいに、ビジネスコート姿の男たちが矢継ぎ早に本社ビルに入ってゆくのを目撃した。
すぐに鹿泉は、かねてより目を付けていたオードブルのテイクアウト専門店にメールをして、大皿を一つ、小皿を二つ注文した。内容は、サンドイッチや焼きそばとかの炭水化物を抜いて、ローストビーフや白身魚のムニエルや極太のアスパラガスの天ぷらなどの、わりと高級感のあるものにしてもらうことにした。四時間ほどで、できるとのことだった。
次に地下鉄に乗って、いったん自宅に戻り、昼寝をした。うまくいくかどうか心配だったので、あまり眠れなかった。ベッドの上でゴロゴロしながら、時を過ごした。そして夕暮れ時になってから、今は使っていない商売道具の黒いバッグをつかみ、外に出た。
それから彼は本社ビル付近にあるテイクアウト専門店へ、できあがった料理を取りに行き、またこの通りに戻ってきたのであった。
鹿泉勇人は、ビルの正面入口の自動ドアから中に入った。
日頃から無人の小さな受付カウンターには連絡用の電話の代わりに、ビニールでコーティングされたオフィスの簡単な案内図が、ぽつんと置かれていた。今月に限り、どこのビルでも行われていることだった。
鹿泉は、粗い見取り図に部署名が記載されただけの案内図を眺め、何も書かれていない部屋で最も大きなものを探した。一階のいちばん奥にある部屋がそうだと分かり、彼はそこに当たりを付けて歩を進める。
その部屋への廊下を歩いているうち、彼の見当が間違いではないことが分かった。ざわざわとした大勢の人の声に混ざって、聞き覚えのある老人の声が聞こえてきたからである。
彼は部屋の前に立ち、軽くノックして中に入った。ドアを開けたところで、ひとつ礼をする。
五十人くらいの男たちが、しまを六つぐらいに別けて立食のパーティーをしていた。久しぶりに聞く人々の声の騒音で満ちている。耳が痛くなるような大音量。
鹿泉の視点が、部屋の真ん中で止まった。メインとおぼしきテーブルの上に、透明なプラスチックのコンテナボックスが置いてある。ボックスの中は、ウレタンスポンジで満たされ、『聞かざる君、大成功!』と蛍光色のピンクの文字で書かれた看板が、突き刺さしたように立っていた。
異様な光景ではあったが、鹿泉には何のことか分からなかったので、視線をすぐに外し、料理が置けそうなテーブルを探した。
彼は、考えてきた自分の設定を思い浮かべていた。パーティーの料理が予想以上に食べつくされ、困った幹事が追加で注文したオードブルを、急いで届けにきた小柄な配達員――そういう設定の雰囲気を出すように心がける。
会場の手前右奥に、酒類だけを置いていそうなテーブルが有った。その上の半分くらいには、空になっているビールや日本酒、焼酎などのビンが乱雑に並んでいる。
――あれを床下に移せば、なんとかなるかも。
鹿泉は、そのテーブルの方に歩を進めた。その間、耳をそばだて、パーティーのようすを盗み見しながら、一人一人の特徴を頭に刻み込んでゆく。
「おまえにはさあ、考える力が無いんだよ! 考えれよ少し。バカタレが!」
近松豊治の怒鳴り声だけが、際立って聞こえてきた。
彼はテーブルのスペースを開け、バッグを床に置いて開き、三つの皿を全てテーブルに乗せた。
そそくさとバッグを元の形に戻し、背負って部屋を出ていこうとする。その間も鹿泉は、パーティーの観察を続けた。
開けたままのドアのノブを握って出ていこうとした時、強い視線を感じて、彼は振りかえった。
五メートルぐらい離れたところにいる、濃紺のぼってりとしたスーツ姿の中年男と、目が合った。
鹿泉は、にっこり笑って一礼し、ゆっくりとドアを閉めて会場を出た。
帰りの廊下を足早に歩く。追いかけてくる足音はない。彼はビルを出ていく前に、一度振り返った。人影は確認できなかった。
ビルを出た鹿泉は、しばらく公園の方に向かってゆっくり走った。立ち止まる。一刻も早く、現場から離れるべきだったが、記憶が薄れる前に発声者目撃情報を作って送信したい気持ちの方が勝った。
彼はダウンジャケットの右ポケットからスマホを取り出し、操作をはじめた。記憶のあやふやな者からデータを作ってゆく。
四人目のデータを送信し終えた時、いきなり背負った黒いバッグを強く押されたのを感じた。
「うおっ」無意識に声が出てしまっていた。
ずさっと地に転ぶと同時に、鹿泉は振り返った。
先ほどの中年男と、背高いがっしりとしたラガーマンのような黒スーツの男が並んで立っていた。
「誰もオードブルなんど頼んでなあぞ。おめ、何者だ?」
鹿泉は、とっさに左ポケットから携帯用のアルコールボトルを取り出した。
立ち上がってスーツ姿の二人の顔を目がけ、思いきっり噴射する。
二人ともアルコール液が目に入ったのか、悲鳴をあげてのけぞり、よろめいた。
鹿泉は、公園に向かって全速力で走る。大通りの雑踏にまぎれることを目指して。路面の氷に足を滑らせないように注意しながら。
ゼロシキに書かれていた生活様式を守っていて良かった、彼はつくづくそう思った。
『携帯用のアルコールボトルは、常に持ち歩いてください。そして不意のくしゃみや咳が出た際には、飛沫が付着した箇所を、すぐにアルコールで消毒してください』
結果的に用途は違ったが、思わぬ場面で役に立った。
鹿泉は、走りながら振り返った。追いかけてくる者の姿は確認できない。
――食べ物を置いてきただけだ。やつらもそったら執着しないべ。地下鉄にさえ乗ってしまえば、安心だ。
今回の件は、ひょっとしたら住居侵入の罪に問われるかもしれないが、そうなってもかまわないと彼は思っていた。入ってくるであろう金の大きさの方が重要だった。
鹿泉勇人は、公園をあっという間に横切り、地下鉄の出入り口の中へ消えた。
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