睦月――下旬(Part2)

 凍えるような空気の中。突き抜けた青天の下。


 自宅で朝食をすませた徳山一家は、ジャンパーとデニムの家族コーデをした気軽な服装で、駅へと続く坂道をのぼっている。ここは自転車道路と兼用の遊歩道だ。


 平日のこの日、夫婦はともに休暇を事前に取った。大樹を連れてテーマパークに行き、夕方まで遊ぶ予定なのである。


 テーマパークの人気の中心である絶叫系マシンは、今月休みになっているものの、どのみち大樹が年齢制限と身長制限で引っかかるものばかりなので、彼らには関係ない。大きなねずみや犬やアヒル、お姫さまを身近に感じて、ファンタスティックな気分にひたれれば、それで満足なのだ。


 大樹は例の特殊マスクをつけている。テーマパークだと、やはりしゃべりだす心配があったからだ。出かける直前の玄関で、拓信が大樹に頭をさげて拝むように手を合わせ、やっとつけてもらったものだった。これが最後の一枚である。


 正月に泣かれて以降、繁美はマスクの耳にかけるゴムを、引っぱりに引っぱって伸ばしてしまった。というわけで、今日の大樹は、少しゆるめではあるが快適なおしゃぶり付きマスクをしているので、表情は明るい。


 拓信は、スマホの画面をテーマパークのホームページにして、それを大樹に渡した。

 大樹は、それを見てテンションが上がったのか、小踊りしながら夫婦が歩いている前に出ていく。

 拓信は、その姿に思わず顔がほころんだ。繁美も同じだった。楽しい休日の始まりである。


 その時。


 坂の上から、連れ立って並列に走る女子高生たちの自転車集団が、ふっと現れた。それはまるで、車の付いた紺色の壁が走っているようだった。


 登校時間が迫りくる朝のひと時。自転車のスピードは早い。


 拓信は、大樹が自転車集団によって作られた危険な領域の真ん中まで、躍り出てしまっていることに気づいた。


「大樹、危ない! よけろ!」


 拓信は大樹のいるところまで猛然と走り寄り、うずくまって我が子を抱きしめた。血だらけになりながらも、大樹を守り抜く自分をイメージする。抱きしめる腕に力が入った。


 ところが女子高生たちの乗る自転車は、一台、二台とぶつかりそうになりながらも器用に二人のかたわらをすり抜けていった。

 坂道を下りきり学校へと急ぐ自転車集団を、拓信は茫然と見送る。


 ほおと一息ついて、大樹をもう一度抱きしめたあとに、彼はようやく気づいた。

 ――しまった。叫んじまった。

 シャラップ宣言下での初の失態だった。十万円……。

 拓信は繁美を見た。彼女は、あろうことかスマホをいじっていた。

 ――こんな時に、何をやってるんだ。


 彼は大樹の手を取り、繁美に急いで近づいて、スマホの画面を見た。

『ご連絡ありがとうございました。情報を受け付けました。あなたの行動に政府は心より感謝致します』という文字が浮かんでいた。


 繁美はスマホをジャンパーの内ポケットにしまい、かわりに外ポケットからボールペンと、終わりの方まで使い込んでいるメモ帳を取り出した。

『自転車の女の子たちより、早く送らないとね』


 拓信もポケットから筆記用具を取り出した。筆談をする。

『ありがとう。でかした。これで10万円損しなくて済むな』

『まだ分からないわよ。近しい人からの密告は、認められない場合もあるってネットでささやかれてた』

『そうなのか。じゃ、ヤバいのか』

『遊び半分で、わざと何度も繰り返している人だけらしいけど』

『なんだ。おどすなよ。だいじょうぶじゃないか』

『なに安心してるのよ。あなたはあなたで、貯めたおこづかいからしっかり払ってね。わたしはわたしで、もらえるお金はちゃんと使うから』


 ……そうなるか、やっぱり。まあ、いいか。家族でみればトントンだ。


 拓信は筆記用具をしまい、大樹の左手を強くつかんだ。家族は、足取り軽く坂をのぼってゆく。徳山一家の頭の中は、電車に乗って行けるファンタジー世界のことで既にいっぱいになっていた。





 スマホのメール着信音が鳴った時、承然は夕餉の真っ最中だった。


 テーブルには、赤味噌仕立てのけんちん汁の椀に、大根とがんもどきの煮物、お新香の皿が乗っている。

 承然は、茶碗と箸をテーブルに置き、畳に置いてあった黄色いスマホを手に取った。


 メールは、後遺症で入院している妻の担当看護師からのものだった。

【水谷さん、危篤。面会謝絶】

 そのメールを見るなり、承然は立ちあがって寝室にいった。衣装箪笥から僧衣を取り出し、何年も使っているどてらと安物の灰色のスウェットから素早く着替える。


 急いで僧房の玄関を出ると、黒々とした地面に激しい雨が打ちつけていた。


 承然和尚は濡れるのもかまわず、走って本堂に向かった。冷たい雨も感じないほど、心はひとつのことに囚われていた。突風が承然を揺さぶり、僧衣が波打った。


 ――とにかく経をあげよう。こんな時に祈祷せな、何のために帰依しているのか分からん。


 数日前に、入院中の承然の妻――水谷頼子は、細かに切ったキャベツを誤って気管に入れてしまい肺炎を発症していた。

 容態は悪いと担当看護師の昨日のメールから知ってはいたものの、いきなり来た危篤のメールに承然はすっかり動揺していた。面会謝絶なので、病院に出向いたとしても、どうすることもできない。今、僧侶として承然にできることは、祈祷しかないのであった。


 わずかな距離であったが、僧衣はびしょびしょになり、暗がりの本堂の床を濡らした。


 彼の目の前には、大日如来のお姿が闇の中から浮かびあがっている。雨と風の音が、さらに激しくなった。


 承然は、左右のろうそくを灯し、線香をあげた。

 大きく息を吐いて、いったん目を閉じ、集中してから数珠を音立てた。

 おりんを強く弱く二度、鳴らす。


「おんあぼきゃーべいろしゃのうーまかぼだらーまにはんどまじんばらはらばりたやうんー」


 承然は一息で光明真言を唱え、またおりんを強く弱く二度、鳴らした。

 頭の中には、やせて皺だらけになった妻の頼子の顔があった。長年の労苦が刻まれたような顔。

 笑みをもたらすことが承然には難しかった顔……。


 彼は合掌し、しばらく固まったように動かなかったが、やがて祭壇の下部に設けられた引き出しの取っ手をつかんだ。

 そのまま一気にそれを強く手元に引き寄せる。引き出しには、いっぱいに詰め込まれた経本が入っていた。勢いで、その何冊かが床に落ちる。


 承然は、さらに残りの経本も床にぶちまけた。


 そして一冊一冊手に取り、それをろうそくの灯りに持っていき、中身を調べはじめた。それを繰り返し、ひとつのお経を見つける。


 延命十句観音経。承然はそのお経を、本を読みながら唱えた。

 唱え終わると、また経本を調べ、薬師本願功徳経を見つけた。それも唱えた。

 また次をさがす。却温神呪を見つける。それも唱える。


 そうやって、承然和尚は持っている経本を調べ、頼子の助けになりそうなお経は全て唱えた。

 最後の読経が終わったのは、夜半過ぎであった。


 真冬の嵐の音は、まだ続いていた。


 承然は気が抜けたようにぼんやりしながら、本堂を出て、また激しい雨に濡れ、強風に吹かれながら僧房に戻る。途中から、持病のひざの痛みが襲ってきて、彼は左足を引きずりながら歩く。


 ――長時間の正座がようなかったか。いや、ずっと痛んどったのかもしれん。それを感じとらなんだだけか。


 僧房に帰り、居間の食べかけの夕餉が乗ったテーブルを過ぎ、再び寝室にゆく。ずぶ濡れの僧衣を、とりあえずハンガーに掛け、灰色のスウェットに着替える。やれることはやったという充実感に満ちあふれていた。


 ……ふと。


 大切なことを失念していたことに、彼はようやく気づいた。声を出してしまっていたのだ。あまりにも読経に集中していたために、そのことに考えが及ばなかったのである。愚かだった。愚か過ぎた。

 承然は、数日後に課せられるであろう多額の過料を想像し、身ぶるいした。


 しかし……。


 ――スマホはどこだ。


 僧衣の中に入れた記憶はない。彼は、あたりを見回した。

 黄色いスマホは、畳の上に放り出されたまま画面を暗くしていた。


 承然は、二重の過ちを犯したために、かえって事なきを得たことを知った。安堵感が胸にひろがる。


 ……だが。これでええのか。


 いかに不条理な法律とは云え、その禁を二重に破ってまで行った祈祷に御利益などあるのだろうか。そんな不埒な者に仏は、はたして手を差し伸べるのだろうか。この数時間にも及んだ祈祷は、全く意味のないことだったのではないか。


 彼は不安になって、へなへなと座り込んだ。左膝の痛みが立っていられないほど、ひどくなっていた。が、なんとか這って居間に行き、夕餉の残りを食した。


 洗い物は明日することにし、また這って寝室に戻った。押し入れから、布団を出して敷く気力は残っていなかった。


 承然は、着古したどてらを引き寄せて体の上に掛け、膝の痛みはひどいものの、とりあえず無理にでも眠ることにした。


 これからどうなるか分からない。眠ることなどできなくなる日々が、やってくるかもしれない。彼は心底、それを恐れた。


 承然は妻との想い出に沈み込んでいった。遠い親戚にあたる頼子と初めて会った日、湖が好きな頼子とあちこち旅行をしたこと、断食修行が終わった直後の手作り弁当のやさしい味、結婚を申し込んだらずっと手を離さなかったこと、ふたりきりでこのぼろ寺に初めてやってきた日、一人息子が生まれて名前をどうするか迷いに迷って結局頼子が決めたこと、貧しくとも穏やかな日々が微風のように過ぎて、頼子が突然台所で倒れた瞬間……。


 想い出は、いつしか浅い夢と混じり合い、承然は眠りに落ちていった。




 妻の病が峠を越し、快方に向かったことを知らせるメールが承然和尚のスマホに届いたのは、夜明け前のことであった。

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