睦月――下旬(Part3)
片柳萌奈は、不織布マスクをして波止場近くの橋までやってきた。多くの警察官の姿が目に映り、ものものしい雰囲気である。
人の列が橋の先まで伸び、左に折れてゆるやかな坂、そして波止場の舗道の入り口まで、それは続いていた。
晴れた平日の昼下がり。萌奈がいる橋の歩行者道路のかたわらで、車がスピードを上げて絶え間なく行き交っている。まるで経済を作り出す力強い流れであるかのように。
萌奈は、列の最後尾について、波止場の舗道を眺め渡した。
舗道では人々が、間隔を開けて一列にならんでいる。そこにいる人たちはみな、海に向かって叫んだり喋ったりしていて、萌奈の耳にも届くほどのけっこうな騒がしさだ。
彼女がならぶ待機列に続々と人が集まり、雑然と後ろに伸びてきていた。
ホイッスルが鳴って、警官が四本指を立てたり、直立姿勢をしたりして、身振り手振りで四列に整列するように促した。へたくそなパントマイムを見ているようだと、萌奈は思った。
萌奈のスマホに奇跡のような《十分声出し会》の当選メールが届いたのは、一週間前のことだった。メールには参加をする際の注意事項がびっしりと書かれていた。そのうんざりする量の注意事項を読んだ時から、彼女は今を心待ちにしていた。
事務所から届いた新曲の音源を何百回も聞き込み、楽譜とにらめっこをし、歌詞をおぼえた。萌奈のために創られた、そのバラードを歌ってみるつもりだった。事務所の許可は、何度もメールのやりとりをして、渋々ながら昨日取れた。
萌奈は《カラフルシング》のバイトをちょっと抜け出して、ここに来ていた。もちろん、女社長にはメモで説明をしてから。女社長は『できるなら、いっしょに行って聴きたいぐらい』というメモをくれた。
このめったにない幸運の日時に、東風だけは吹かないで欲しいと、彼女は前から願っていた。東風が吹くと、発声した者の飛沫やらエアロゾルが海に向かわない可能性があるからだ。そうなるとこの会場は危険極まりないものとなり、中止になってしまう。せっかく当たったのに、中止になったりしたら彼女の歌える瞬間が、宣言解除の日まで伸びてしまうのだった。この《十分声出し会》は振替の日程とかは組まれないことになっていた。希望者殺到でスケジュールがキチキチなのである。
彼女の願いが通じたのか、今は無風に近かった。
萌奈は、スマホの時計を見た。メールで指定されている時刻まで、あと十分余りだった。《十分声出し会》と云っても、人の入れ替えに時間がかかるので、一時間に三組のスケジュールで行われているのである。
ウーウーと、舗道にいる複数の警官が手持ちのメガホン型拡声器のサイレンを鳴らして、前の組の声出しが終わった。
すっきりとした表情の人たちが橋に向かって歩きはじめ、萌奈たちの列が進みはじめた。
四列のまま進み、橋が終わっている所で別れ、入場のチェックを受ける。
女性警察官にスマホの当選メールを見せて、非接触型の赤外線検温器でピッと熱を測られる。不織布マスクをした萌奈の顔をみた女性警察官は、ちょっと不思議そうな表情をみせた。
――だいじょうぶ。平熱みたい。
彼女は、他の参加者とともに、ゆるやかな坂を下り、舗道を歩いてゆく。
左に見える海面が鏡のように、なだらかだった。日の光をきれいに反射している。
萌奈が歩を進めていくと、やがて舗道の並木ごとに佇んでいる警察官の一人のホイッスルが鳴った。その警察官は舗道のある場所を指で示した。彼女は立ち止まり、その場所に移動する。長く伸びた列の真ん中ぐらいの位置で、萌奈は歌うことになった。
彼女のほかにマスクをしている者などいない。
アイドルという職業がら、視線に敏感な萌奈は、あちらこちらから疑問の視線を投げられているのが分かった。
両隣りになった人の視線も、もちろん感じて、自然と左右に目がいった。左は藍色のトレンチコートをはおったサラリーマン風の男、右は学生服にショートコート姿の若い女の子だった。
ウーウーとサイレンの音がして、強運の持ち主である百五十人の声出し会が、はじまった。
絶叫。普通の話し声。小声。老若男女のさまざまな声が入り混じり、一人一人の言っていることは、もはやよく聞き取れない。
「あー、あー」
騒然とする中、萌奈はこわごわ声を出してみた。今年初めて聞く自分の声だった。懐かしい自分の声だった。
次に低音から高音へ、高音から低音へと少しずつ声量を上げながら繰り返して歌声を出す。それだけで彼女の歌声は、もう昨年末の調子を取り戻していた。
「よし。片柳萌奈、歌いまーす」
彼女独特の、艶やかな心地良い響きの歌声が流れはじめる。
消えていった 時間は
もう戻らないけど
この両手にある ぬくもりは
まだ 何かをあたためられる
だからわたしは 向かう
あなたが住んでいた 静かな街へ
楽しげに だいじそうに
話をしていた あなたの街へ
わたしはそこで きっと見つけるだろう
あなたが残した きら星のような想いを
あなたがつくった かがやきの砂の時計を
消えていった あなたは
もう戻らないけど
この心にある ぬくもりは
まだ たしかに息づいている
だからわたしは 向かう
くちもとをおおっていた ベールを取って
悲しみに 沈んでいた
日々を抜け出し あなたの街へ
わたしはそこで きっと溶かすだろう
あなたが残した かがやきの砂の時計を
氷が止めた かがやきの砂の時間を
わたしはそこで きっと笑うだろう
ふたたび動いた かがやきの砂の時計を
まぢかに見つめ 想い出を抱きしめながら
歌い終わると、萌奈の歌声が届いた空間に、声が無くなっていた。彼女は歌の途中で、歌詞に合わせてマスクを外していた。
萌奈に、周りにいる者たちの視線が集中していた。
やがて、どこからともなく拍手が起こり、それは周りにいる全員のものに変わった。
右側にいた女子学生が、海の方を向いた。
「良かったです。最初からちゃんと聴かせてください。アンコール、お願いします」
その声を皮切りに、みんな海の方を向いて口々にアンコールを叫び始めた。
それは萌奈が、ソロで初めてもらったアンコールだった。何よりも欲しかった、自然にわき起こったアンコールだった。
片柳萌奈は、あふれそうになる涙を抑え、またマスクをつけて歌いはじめた。
外灯が少ない、ちょっと暗めの公園。ビジネス街の高層ビルに挟まれた、ぽっかりとした空間。大通りの道路がカーブしている外側に設けられた十段余りの階段をのぼりきったところに、その公園の出入り口はあった。仕事が忙しくてなかなか時間の合わない年頃のカップルが、ちょっとだけ会いたい時に、よく利用する公園である。
今は深夜近くにもかかわらず、意外なほど人影は多い。数個しかないベンチは、全てカップルに占領されている。
そんな人影に混じって雫森玲香は、外灯と外灯の間のうす暗い闇の中に立ち、公園の内側には背を向けて、独り静かに泣いていた。真冬の夜の凍るような空気が、彼女の涙をすぐに冷たいものに変えていた。
そこに階段をのぼってきた村越優也が、あたりを見回し、しばしの時間を要して彼女のそばにやってきて、肩を叩いた。
玲香は振りかえり、彼をみとめて涙顔のまま微笑みを浮かべた。
村越は、スマホのメモ帳の画面に文字を打ち込んで彼女に見せる。
『だいじょうぶ? 仕事が終わらなかったのかな』
玲香もスマホの画面をメモ帳にし、文字を打ち込む。ふたりの筆談がはじまった。
『そんなわけないでしょ。明日の準備は万全』
『びっくりしたよ。突然呼び出されたから』
『急に怖くなっただけ』
スマホを見せた玲香は、村越の顔をじっと見つめた。怪訝な表情だった。
この人には、わたしの今の気持ちは分からないだろう、玲香は思う。彼女は明日がくるのが怖かった。宣言プラスが発出される明日が。
本来なら、明日でシャラップ宣言は解除されるはずだった。一箇月という約束で、この国の人々に尋常ではない我慢を強いてきたのだ。みんな、明日には解除されると思い込んでいる。宣言プラスは、その期待を真っ向から裏切ることになるのだ。発出の後の、落胆しか有り得ない反響を玲香は受け止められる自信がなかった。
この国の人たちのためになるだろう、喜んでもらえるだろうと思って、今までシャラップ宣言が成功するように玲香は尽力してきた。だがその努力も虚しく、明日の夜になれば彼女の所属する策定局にも非難が及ぶことは避けられないだろうと、彼女は考えていた。
玲香は、また涙を流した。
『宣言プラスは、あなたの中では計画の範囲内のことなの?』
その画面を見て、村越は暗い表情になってうつむき、スマホにメモを打ち込んだ。
『計画ではないといえば嘘になってしまう。でも予定していたことではなかった。正直な話、僕はこの国の人たちを、あまり評価してなかったんだ。みんなして声を出さないなんて、できるわけないと思っていた。シャラップ宣言は、違反者の数に圧倒されてパンクするだろうと予測していたんだ。失敗すると思っていた。だから、次の段階に移ったら、どんなことになるか深く考察してなかった』
「だったら、最初に言ってよ! 成功すると思ってないって!」玲香は叫んでいた。「わたしは成功を信じて今までやってきたのに……何日も徹夜同然で仕事をして、体もこわしかけて……けっきょく、わたしも策定局も、総理だって、国民さえも、あなたに振り回されてただけなのよね。あなたはみんなをだましていたのよ。総理は明日の宣言プラ――」
玲香はいきなり男の手で口を塞がれた。村越に抱き寄せられる。彼女は反射的に首を激しく振った。しかし、村越の手はゆるまなかった。
「これ以上は、まずい。とにかく黙ってくれ」
耳元でささやかれ、玲香は動きを止めた。
――そうだった。宣言プラスは、まだ機密事項だった。
声を出したことはもちろんまずいが、機密の漏洩はもっとまずいことになる。
玲香は、身を挺して声を出してまで止めてくれた村越に感謝した。
「あやまる。僕が悪かった。僕の社会学者としての認識の甘さが、こんなを事態を招いた。認めるよ。どうすれば許してくれる?」
玲香は、村越の左腕をつかみ口もとから手を、そっと外した。
「……もういいわ。もともとゆるゆるの精神ではじめたことだし。あなたの計画自体もゆるゆるだったてことよね」
村越は苦笑いした。玲香の目の前には、口角のあがった唇があった。
――そういえば、最初はこの唇の形が気になったのよね。今見ても、なんて形のいい唇なんだろ。触れてみたいな。指とかじゃなくて。
ふたりは、見つめあった。
玲香の唇が、村越の唇に近づいてゆく。彼女は目を閉じた。しかし。
――だめだ。わたしから、こんなことをしては。
玲香は目を開けた。村越のとまどっている顔が目に入った。気恥ずかしくなって、彼女は村越の腕をほどいて、少し離れた。持っていたスマホにメモを打ち込む。
『また会おうね。ゆるゆるだめだめ学者さん』
びっくりしている村越を、軽く突き飛ばし、玲香は公園の出入り口に向かって走り出した。
公園にいる人々の間では、ふたりの会話をもとにした密告ゲームが、たけなわになっていた。
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