睦月――下旬(End of chapter)

 近松豊治は、ひとつ小さく咳をした後、本格的に咳き込んで革張りのソファーから転げ落ちた。


 この老人の自宅の一室。演歌の名盤が集っている自慢のコレクションが置かれた視聴覚室。


 豊治は、だるい体を動かしてソファーに戻ってアルパカの毛布にくるまった。悪寒はしないものの、微熱が昨日から続いていた。


 部屋の中では、昭和の大歌手と云われる女性の曲が流れていた。ときおり豊治は、その歌手とデュエットしているような気分で、がなり声を出して歌う。


 声を収集するアプリが入ったスマホを、この広い邸宅のどこかに電源を入れたまま置いておけば、何の問題もなく唯一の趣味を楽しむことができることに、老人は月の半ばを過ぎてから、ようやく気づいた。


 ――我ながら、アホだったな。もうろくしたもんだ、まったく。


 今テーブルに乗っているのは、仕事の連絡用に使っている別のスマホだった。体の具合が悪いとはいえ、いつ重要なメールを受信するか分からないので、門は開いておく必要があった。


 五日前、慰労パーティーに出席していたある店長から、新型コロナウイルスに感染したと連絡が入った。その後、間をおいて他の店長からも続々と感染報告のメールが入ってきた。


 慰労パーティーでクラスターが発生したのだった。


 パーティーを行ったことは、あらかじめ各店長に緘口令を敷いておいたので、その事実は伏せられるはずだった。しかし、密告の情報と一分ほどではあるが音声ファイルを管理局は握っており、豊治の会社は任意ではあったが音声管理局と保健所合同の調査を受けることとなった。

 その調査が三日前。結果が出て保健所から豊治が濃厚接触者となったことを告げるメールがプライベートのスマホに届いたのが今日。メールは他にも、パーティーの主催者である豊治に対して、責任を問う叱責文が届いたが、それは読み飛ばした。


 豊治は、保健所から文章で叱責されたことより、音声管理局の調査結果が出て、これから課されるであろう多額の過料の方が気になっていた。管理局が握っている証拠の分析から何人の者が違反者として認定されることになるのか。もし出席者全員が認定されたら、五千万円近くになるはずだった。仮に時間をおいて喋っている者がいたとすると、さらに金額は上がっていくことになる。

 法律的には過料は社員個人に課されることになるので、なにも会社が負担する必要はないのだが、社長の心情としては、社員たちに支払わせる気にはなれなかった。


 ――資金繰りの予定の外のことだ。銀行から特別に借り入れするしかないべ。


 豊治は、また咳をした。明日はPCR検査に行かなければならない。ワクチンは打っているものの、重症化しない保証はないのだ。この国で発生した変異ウイルスに従来のワクチンは効かないと、彼は聞いていた。


 昭和の大歌手の名盤は、いつの間にか演奏を終えていた。もうすぐ午後六時になる。


 豊治はリモコンを手に取って、大型テレビのスイッチを入れた。

 総理大臣の記者会見が始まるのであった。


 本来なら会見を、この邸宅のメインリビングで、妻と長男夫婦そして三人の孫と大型プロジェクターで見るはずだった。だが、豊治は妻から家庭内強制隔離命令を言い渡されるという憂き目にあい、独りこの部屋にいるのであった。


 豊治は、この会見が解除宣言になると考えていたが、この昼下がりに措置法がまた改正されたらしいというネットニュースを読んで、不思議に思っていた。解除に措置法の改正は必要ないからである。


 総理大臣がテレビの画面に登場した。演説台に向かってゆく。その台に今日はマイクが置かれていない。後ろの壁には、大きなスクリーンが設置されている。総理大臣が演説台に立った。


『まずは、国民の皆様方に第五次緊急事態宣言に対する、並々ならぬ御賛意、御協力を感謝致します。そして、その御労苦、御忍耐について敬意を表させていただきます』

 総理の声はない。スクリーンでテロップの文字が上から下に流れていくだけだ。


『国民の皆様方の御尽力により、新型コロナウイルスの新規感染者数は、一日当たり全国で二桁まで激減し、お亡くなりになった方は、ここのところいらっしゃらない日が続いております。また、入院している方も数日後には、退院できると聞いております。誠にありがとうございます』

 総理はテロップの流れに合わせて、深々と礼をした。

 ――解除だな。来るぞ。


『しかしながら』

 ――えっ?


『新規感染者数がゼロになったわけではありません。我々政府はここで新規感染者数をゼロにしなければ、解除してもまた同じことを繰り返すという過去の事実に鑑み、宣言の期間を延長することといたしました。期間はとりあえず一箇月。その後は、ゼロになるまで延長し続けることと致します。第五次緊急事態宣言は一箇月というお約束が、こんなことになってしまい、誠に申し訳ございません。心よりお詫び申し上げます』

 そこでテロップの流れが止まり、総理は演説台を離れて横に移動し、膝を折って土下座した。


 ――何をやってるんだ。このじいさん。土下座すればすむ問題でないぞ。なんだ。実質的なシャラップ宣言の無期限延長って。ほとんど収束してる状況でないか。


 テロップが再び流れはじめた。総理は土下座したままだ。

『そして、我々政府は今までの生活様式ではゼロにはならないという考えに至り、国民の皆様にさらなる御負担をしていただくことにしました。本日、その内容の実行について必要な法律は改正させていただきました。ここに第五次緊急事態宣言プラスを発出させていただきます』


 またテロップが止まり、総理はいったん顔を上げたあと、今度は禿げあがった額を擦り付けるように土下座した。テロップが流れる。


『国民の皆様方に、新たなる御負担をしていただく生活様式は、ただひとつです。それは唾液交換型接触の禁止です』

 ――唾液交換型接触?

『この接触の定義は、深い口づけ、及びそれ以上の親密な行為を含むものとします』

「なんだとおおお!」

 豊治はソファーから思わず立ち上がっていた。彼の商売に影響を及ぼすことは必至だった。


『ただ、我々政府は、この禁止に対する違反者を、すぐに見つける手立てはありません。仮に口づけをしている状況を捕らえたとしても、唾液まで交換しているかどうかは分からないからです。

 従って、この禁止事項に対する特別な政策は一切行わないこととします』

「休業補償もしないっていうのか? 誰も来ないラブホテルを営業させるつもりか?」

『ただし、それでは法律として抑止力がないと我々政府は考え、来月の後半以降、新たに感染した方の感染経路を徹底的に調べ上げ、もし唾液交換型接触による感染と判明した場合は、一千万円の過料を課すことと致しました。以上です。ありがとうございました。本日は質問を受け付けません』


 豊治は、ソファーにすとんと腰を下ろした。政府の度を越した奇策に腰が抜けたのであった。


 テレビでは画面が切り替わり、記者たちが急いで会見場を出ていくさまが映し出されている。


 しばらくその映像が流れたあと、画面が再び演説台に切り替わった時には、既に総理の姿は無かった。


 ――とりあえず、酒だ。体の具合は最悪だが、飲まないとやってられん。


 豊治は、夜も詰めているお手伝いさんにメールをして、二十年もののモルトウイスキーと寒鱈の乾きものを持ってくるよう頼んだ。送信したあとアルパカの毛布を引き寄せて、横になった。


 頭の中では、閑古鳥が鳴く《素敵な二人》のラブホテル群が渦巻き状になって、ぐるぐると回っていた。


 これは感染者が早くゼロになってもらわないと俺は破産だ、豊治は思う。一代で築き上げた俺の会社も、息子に譲る前に終わりか。とりあえず明日から店は休業だな。一千万円のリスクを背負って、わざわざ客が来るとは思えん。せっかく作った《聞かざる君》も用なしというわけだ。それにしても手が空いてしまう従業員はどうするんだ。遊ばせとくのか……。そうだ。キャンペーンでもさせるか。宣言プラスとかいうのに、賛同するキャンペーンを従業員にさせるんだ。そうすれば、少しは感染者がゼロになる日も近くなるべ。もう政府にたてつくのは、疲れた……。


 視聴覚室の扉をノックする音がした。

「はい、どーぞお」

 豊治は、気の抜けた返事をした。


 扉が開いて、お手伝いさんが入ってくる。彼女は、サージカルマスクに防護服、ぴったりしったビニール手袋というまるでコロナ病棟の看護師のような重装備で、酒とつまみの乗ったお盆を持って、近松豊治に近づいてきた。





 こうして、しぶとく残った新型コロナウイルスを殲滅するために、人々は生物として最も根源的な愛情行為を抑制するという、この国において前例のない挑戦を開始したのだった。


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