睦月――中旬(End of chapter)

 執務室の壁掛けの時計が、九時を指している。


 部屋の中央にある大ぶりの黒みがかった茶色いテーブル。その周りにあるソファーのひとつに、総理大臣は深々と腰掛けていた。

 夜の会食で酒を少し入れたので、のぼせ気味ではあるが頭は、はっきりしている。夕刻まで感じていた疲れも、会食の出席者から贈られた色紙の束が、それを吹き飛ばしてくれた。その色紙には、シャラップ宣言に対する数々の賛辞が書かれていた。


 残り三つのソファーには、浅溝局長と雫森玲香、そして村越優也が腰かけている。浅溝とは頻繁にこの執務室で宣言のさまざまな状況報告を受け、指示もしてきたが、この四人が一堂に会するのは昨秋のあの日以来だった。


 あの秋の日、テーブルを取り囲んでいた分厚いパーテーションは、もう無い。テーブルもその機能を取り戻し、今はホチキスで留められた書類がぽつんと置かれている。

 書類の表紙には『第五次緊急事態宣言プラスとその発出及び施行について』と書かれていた。右肩には赤くマル秘の印が押されている。


 総理大臣は、書類を手に取って読みはじめた。数日前から浅溝局長と何度もメールをやり取りして、発出の内容については詰めてきた。この書類は素案などではなく最終決定なのである。既に内容は頭に入っており、あまり分量もないので、彼はすぐに読み終えた。


 ――これをやるのか、本当に。


 総理大臣は、ほかの三人を眺め渡した。みな不安げに彼を見つめている。総理は大きくため息をついて、禿げあがった額をパシッと強く叩いた。


 浅溝がメモを書き、おそるおそる見せた。

『いかが、ですか。総理。発出していただけますか』


 このシャラップ宣言プラスの重要性は、頭では充分に理解していた。これを実行しなければ、おそらく新型コロナウイルスをこの国から葬り去ることはできないだろう。いまだウイルスは、この国の誰かの体内にくすぶり続け、増殖の機会をうかがっているのである。


 しかし、これをやっても。総理は思う。成功するとは限らない。むしろ失敗する可能性の方が高い気がする。こんなリスクの高い方法をとって失敗したら間違いなく辞任問題に発展するだろう。いや、成功しても問題にはなるだろうな。今の私の支持率は上向きの六割だったか。このまま宣言を予定通り解除して、仮に感染者がまた増えたとしても、誰も私を咎めたりしないのではないか。……そんなことはないな。やっぱり辞任問題になるだろう。この国の民は、政治家の責任を追及するのが大好きだから。


 総理大臣は、顔をしかめて首を横に振った。彼はメモを書いた。

『ワクチンの開発は、どうなってるんだ』


 そのメモを受けて、雫森玲香が答える。

『昨年の秋に発生した我が国由来の変異株ワクチンの開発は、はかどってません。今までのものと極端にタイプが違うのです。また、都が行っている永久抗体型ワクチンの開発は、まだ研究段階です』


『そういえば抗体の状況は?』

 総理は、またメモを書いて雫森に見せた。

『検査対象が少なすぎて、はっきりと言える段階ではありません。ただ、今月の検査で昨年の春に接種を終えた9割以上の人の抗体が既に無かったという報告が来ています』


 ――ワクチンに頼ることは、できんか。


 ワクチンの接種は、今二まわり目の一回目が半ばに入っているが、この国ではワクチンを打ち続けるスピードより、抗体が消えるスピードの方が早いのであった。


『村越君の考えは、どうなんだ。わざわざ君が来たということは、私に引導を渡しに来たんだろ?』

 内部の者より外部の者のほうが言いやすい、いや書きやすいと浅溝局長は考えたのだろう、彼らしいな、総理は思った。


『総理大臣。僕は法律の専門家ではありませんが、この宣言プラスは明らかに憲法の基本的人権に抵触します。しかしそれが裁判になって是非を問われるのは、ずっと先のことです。それに、今までの宣言の内容だけでも、後々抵触していると言われかねない。喋っただけで、過料を課しているわけですから。どうせやるなら徹底してやるべきです』


 ――今さら後戻りは、できないというやつか。まいったな。辞任は前提だったか。


 総理は苦笑いした。またメモを書く。

『宣言プラスを実行しよう。月末の発出を目指して、策定局は根回しと段取りを頼む』


 総理は、メモを破って浅溝局長に渡した。浅溝は、それを大事そうにスーツの内ポケットにしまった。


『ところで、村越君。最初からプラスの内容を含んだ第五次にすれば良かったのでは?』

『感染者がここまで減った今でも、プラスの内容に賛同してもらえるか不透明です。始めから含めていたら、黙ってもらうことすら、拒否されたでしょう』


 三人は、立ち上がった。村越はメモをまた書いて、それを破り、裏返しにしてテーブルに置いた。三人は、深く礼をして執務室を出ていった。


 総理は、しばらく呆然としていたが、やがて村越のメモを取って、それを読んだ。

『社会学者の駆け出しの立場から言わせていただくと、世論の動きによっては総理の再登板も有り得るのではないかと思います』

 ――ふっ。慰めにもならん。


 総理はメモをテーブルに戻して、部屋の奥に歩いていき自身の肘掛け椅子に腰かけた。


 そういえば、あの村越君、この前よりも随分とこざっぱりしてたな、彼は思う。黒のスーツが、なかなかだったぞ。何かあったのか。……まてよ。あの雫森もかなり落ち着いてたな。藤色のスーツだった。あっ、村越君のネクタイは、たしか紫……ということは、あのふたりはつまり……どうでもいいことだったな。


 総理は、いつも机に置いてあるマカダミアナッツチョコレートの箱を手に取った。箱の中には一粒だけチョコが残っていた。それを大事そうにつまみ、ゆっくりと口に入れる。


 ――今までいろいろ頑張って、それこそ寝る間も惜しんで人のために働いて、総理大臣にまでなったが、結局新型コロナウイルスと刺し違えて終わるようだな。まあ、悪くない。新型コロナウイルスに打ち勝った総理として名前が残るのも。


 ナッツチョコが口の中でとろけて、総理大臣の苦々しい気持ちを癒した。

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