神無月(Part2)
都心から少し離れた住宅街。
その街の中心に地下鉄の駅がある。駅から歩くこと十数分。そこに、徳山拓信の家族が住む賃貸マンションがあった。二LDKだけの三階建てのマンションだ。
拓信は、リビングのテーブルにノートパソコンを置き、仕事をしている。
彼の仕事は経理事務だ。拓信が勤めている会社の子会社のうち、経理部門を持たない四社の経理事務を一手に請け負っている。
今は月末の締めで、けっこう忙しい。彼は、各社からメールの添付文書で送られてくる請求書や納品書、領収証などのエビデンスと伝票に違いがないか、朝からずっとチェックをしていた。
玄関の方で、扉を開ける音がした。繁美と大樹が帰ってきたらしい。幼稚園に通っている大樹を、繁美が迎えに行っていたのである。
もうこんな時間かと思い、拓信はパソコン画面の右下にある時計を見た。勤務時間が終わる十八時を少し回っていた。
拓信はパソコンを閉じて、大きく伸びをした。
夕めしの後に、もう少しやらないと今日の分は終わらないな、彼は思う。サービス残業か。やんなっちゃうな。
繁美と大樹がリビングに入ってきた。
「おかえり」
「ただいま。大樹、先に手を洗ってらっしゃい」
子供用ながら顔半分が隠れるほどの不織布マスクをした大樹は、黙ってうなづくと、洗面所の方に歩いて行った。
繁美は不織布マスクを外すと、リビングの片隅に置いてあるマスク専用の小さなゴミ箱に入れた。
「このマンションで、また出たらしいわよ。こんどは三階ですって。二階でなくて良かった」
徳山家族は二階に住んでいるのである。
「また? この前、一階で出たばかりじゃないか。いったい何をやったら、うつるのかねえ」
「それが分からないから、みんな苦労してるんじゃない」
玄関の方で、来訪を告げるチャイムが鳴った。
「はーい。何かしら」
繁美は、テレビの隣りにある壁掛けのボードの方に、そそくさと歩いて行った。
そこには、彼女が作った布マスクが三つぶら下がっている。黒と、花柄のオレンジと、小さな蛍光色の黄。繁美は、オレンジ色の布マスクを取ると玄関の方に走って行った。
家の中でもマスクをすることは、政府から要請されている。しかし彼らは、そこまでする気にならず、外から人が来た時だけ布マスクをするようにしていた。
大樹が手を洗い終わって、リビングに戻ってきた。
「パパァ、ちゃんと、てをあらったよ」
大樹は、拓信に手を差し出した。拓信は大樹の手を取り、撫でながら見つめた。
「きれいに洗えたねえ」
「きょうは、うがいもしたよ」
「ほう。えらいじゃないか」
拓信は、大樹の頭も撫でてやった。
繁美がリビングに戻ってきた。細長い箱を抱えている。
「だいぶ前、ふるさと納税で買った――」
「寄付しただろ」
「そう、寄付して買ったタラバガニ、届いたわよ」
「なんか違うけど、まあいいいや。買い置きのビール、まだ有るよね」
「さあ。冷蔵庫の中、のぞいてみたら」
「無かったら、スーパー行ってくる」
仕事は明日がんばればいいや、拓信は思う。
「大樹、おいしいんだよ、これ」
繁美はそう言って、息子を呼んだ。拓信も二人の側に行った。
三人は寄り添って、顔に笑みを浮かべながらタラバガニの箱を開け始めた。
総理大臣は自身の執務室にいた。
大きくてやわらかな肘掛け椅子に座って、正面を見据えている。
はた目からは、呆然としているように見えるかもしれない。だが、彼は真剣に考え続けていた。もう二時間以上に渡って。夜の会食にも出掛けずに。
仮に感染予防対策の要請の条件を上げたとしても恐らく駄目だろう、総理は考える。
飲食店舗は全ての営業を自粛させテイクアウトに限ることとし、スーパーやドラッグストアを除いた他の業種についても同じように休業を促す。学校は休みとし、自らの住む地域外への移動を控えさせる――第一次緊急事態宣言のようなレベルのことを行ったとしても、もはや国民が要請に応じるかどうか疑わしかった。
それに、第一次の時のような潤沢な財源も、既に無かった。要請に応じる見返りがなければ、人は従わない。今の宣言下の状況をみれば明らかだった。
第四次緊急事態宣言は、施行してからだらだらと三ヶ月目に入っていた。さすがに旅行や大規模な宴会を催す者は少数だったが、その他のこと――買い物や会食、映画に観劇など、国民は普通に外出を楽しむ生活を満喫していた。マスクをしながら。それがまるで免罪符であるかのように。
では、このまま現在の状況を放置したらどうか。それは許されなかった。医療の現場は、いよいよ逼迫していた。重症患者用のベッドの空きは探すのに苦労するほど無くなり、軽症患者が入院するホテルは、満杯になっては新しいホテルを借り、満杯になっては新しいホテルを借りるということを繰り返していた。最も問題なのは、自宅療養中に死亡する者が増えているということだった。最近の自宅療養中の死亡者数は、概ね全国で一日当たり二桁の後半で推移していた。百人を超える日も珍しくなくなっていた。もう医療崩壊は始まっていると云えるのかもしれなかった。
総理大臣は前髪が完全に無くなった額を、パシッと強く叩いた。ものを考える時に、よくやる癖だった。
――いよいよ次の段階に入るしかないな、総理は思った。
それは本格的なロックアウトの導入である。外国のほとんどが行っている制度であった。要請を命令にし、従わない者には罰金を課す。罰金刑より軽い、行政罰の過料という制度は既に導入されてはいるが、それは飲食店や入院を拒否する感染者に限られていた。対象の範囲を広くし、罰金刑に変えた特別措置法を改正すれば、可能なことだった。
しかしながら。
外国の例をみても、その制度がドラスティックに成果を出すとは、彼はどうしても思えなかった。確かに多少の効果は期待できるかもしれない。だがそれを、マスコミや世論の反対を押し切ってまで施行する必要があるのか。それで新型コロナウイルを撲滅できるのか。世界の中で撲滅に成功した国など、まだ無いというのに。
総理大臣は、また額を強く叩いた。こうして彼の思考は、また振り出しに戻った。
彼は、机の上にいつも置いている菓子の箱を手に取った。マカダミアナッツのチョコレートだった。一個つまんで、口に入れる。しゃりっとした噛みごたえとともに、甘みが穏やかにひろがった。
(国民の皆様に黙っていただく、というのはどうでしょう)
突然、昼間の会議の終わりで聞いた若い学者の言葉が蘇った。
ばかばかしい、そんなことできるわけないだろう、彼は首を振った。まあ、検討だけでもしてみるか。怒りにまかせて、つい会議で言ってしまったしな。
総理は、国民を無言にさせるとどうなるか、新しい検討に入った。
しばらくすると、絶望に沈んでいた彼の表情が、少しずつ変わり、やがて輝きが射した。
――いけるかもしれない。
そう思って、内閣総理大臣は机の上にある電話の受話器を取り、プッシュボタンを押した。
「あっ。明日でいい。明日でいいから、朝一番で私の執務室に来てくれないか。私も朝までじっくり考えたいんでね。あと、若くてイキのいいのも一人頼む。今回は新鮮な頭脳の方がいいと思うんだ」
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