第1章

神無月(Part1)

 二〇二✕マイナス一年。夏の暑さが去り、心地よい涼しさが感じられる頃。

 官公庁の建物が立ち並ぶ街。

 その街の一角に、ひときわ高くそびえる中央合同庁舎がある。


 庁舎の中には多くの会議室があるが、その中でも広い部類に入る第七会議室。

 そこでは、感染症対策の有識者たちが集う会議が行われていた。テーブルと椅子が巨大な口の字形式で配置され、内閣総理大臣ほか、経済再生担当大臣、厚生労働大臣など新型コロナウイルス関連の閣僚の姿もあった。もちろん出席者全員、マスクをしている。ソーシャルディスタンスということで、席にはかなりの間隔が空けられていた。


 議題は《現在の感染状況と今後の見通し及び新規の感染予防対策について》。


 このような議題になったのは、八月からスタートした第四次緊急事態宣言の効果が、かなり芳しくないことになっているからだった。


 現在の感染状況と今後の見通しについては、既に報告と議論が終わっていた。


 新たな感染者は梅雨の時期に、いったん収束し全国で一日当たり二千名を下回るようになり、政府は第三次緊急事態宣言を解除した。


 しかし夏の到来とともに、新たな感染者はまたも急激に増え始め、七月末には全国で一日当たり一万名を超えることとなった。


 政府は慌てて、第四次緊急事態宣言を策定し、八月十日に施行した。

 前回と寸分たがわない、この宣言に対する国民の反応は鈍かった。施行されたのが、お盆休み直前とあって、国民の動きは止まらなかった。予定していた旅行を中止してホテルのキャンセルをした者は、ほとんどなく、午後八時までの時短営業に協力した飲食店は僅かだった。とりわけ大手の飲食店チェーンは皆無であった。


 マスクの着用率も下がっていった。街中では、マスクをしないまま闊歩する人が、明らかに増えた。年齢を問わず、老若男女一様に。例年よりも厳しい暑さという理由だけではない。国民の感染症と闘うモチベーション自体が下がっていたのである。


 アルコール消毒液の消費量も、少しだが減っていた。国民は、手を消毒するという簡易な行動すら、虚しさを覚えつつあった。


 さらに頼みのワクチンも感染そのものを防ぐものではないため、感染の拡がりに対してどの程度の効果があるのか測定できないでいた。ワクチン接種によって集団抗体を作る計画も、今は頓挫していた。接種者の中から、変異株由来の感染が複数確認されたためである。


 結果、感染者数は日によって一万名を下回ることがあるものの、現在まで概ね一万名から二万名の間の高い水準で推移していた。


 内閣は追い詰められていた。支持率は二十パーセントを割り込み、その存続が危ぶまれていた。従来の対策では、もはや感染拡大が抑えられないことは、大臣たちの共通認識になっていた。


 会議は次の議題である新規の感染予防対策に移っていた。

 議論は低調を超えて全く行われていないと、云ってよかった。

 この国でトップレベルの有識者たちが席に座っているにも関わらず、新規の感染対策の提案が出てくることはなかった。


 ただただ沈黙が空気を支配し、時だけが流れてゆく――。


 総理大臣の隣の席にいる白髪頭の議長は、時計を見ると、諦めたようにガクッと頭を落とした。

「それでは、これで会議を終わります。次回は――」

 議長が言葉を発した、その時だった。


 会議室の扉から一番近い席の男が、ゆっくりと手を上げた。男は、議長を見つめた。

「あっ……はい……ええと……村越君」

 議長は、テーブルに置いてある資料に目を落としながら言った。

 村越は、申し訳なさそうに立ち上がった。椅子を引きずる音が、あたりに響いた。


 三十を過ぎたか過ぎないかの風貌。ひょろりとして背高い彼の頭は小さく、いかにも自信なさげに見えた。しかし彼は、最近書いた『スペイン風邪と大正社会』という修士論文が注目され、若くして社会学の助教授に抜擢された逸材なのであった。この会議に参加するのは、今日が初めてだ。


 村越は回ってきたマイクを受け取り、会議室を眺め渡した。

「あの……思い付きのようなもので、すいませんが」

「何だね」

 議長は顔を、しかめながら言った。


「国民の皆様に黙っていただく、というのはどうでしょう」


 会議室内が、一斉にざわめいた。


「そもそも」

 そう言った村越の眼光は、急に鋭いものに変わった。

「我々は最初から感染対策の方向性を誤っていたのではないでしょうか。空間と時間を制限して感染を抑えるという方法は、一見有効のように思えますが、ウイルスは空間と時間に偏在しているわけではありません。午後八時以降の飲食店の営業を止めても、ランチを食べながら大声で話をしたり、酒をいずこから調達して昼間からうっぷん晴らしの宴会をする人たちには無意味です。映画館や劇場、ライブハウスは、鑑賞が問題なのではない。その前後で、久々に会ったお友達や恋人と、おしゃべりとか会食をするのが問題なのです」


 村越は、ここでいったん言葉を切って、ため息をついた。さらに続ける。


「国民は常に感染の危機にさらされています。それは時間とか場所は関係ありません。我々は感染対策を状況から考えていくべきだったのです。たとえマスクをしていたとしても、対面で会話するのは危険だし、いくら換気と消毒を徹底しても、床に沈んだウイルス入りのエアロゾルを百パーセント取り除くことはできません。ですから――」


「もういい」

 突然、総理大臣が立ち上がって言った。

「そんなことは私だって、とうに分かっていたさ。でっ。村越君はどうやって国民から声を取り上げるつもりなの?」


 急に名指しされた村越は、恫喝のような口調にたじろぎ、言葉を返すことなく、へなへなと椅子に座ってしまった。


「……まあ、いいよ。私は村越君の思い付きを検討してみる。どんなバカげた提案でも、ひとつもないよりはマシだ。ありがとう。有意義な会議だった。コストには見合わないがね」

 そう言って、総理大臣は足早に会議室を去った。


 後には重苦しい雰囲気が立ち込めたが、やがて会議に出席した面々も、荷物を取りまとめると、次のスケジュールに臨んでいった。

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