みんな杜子春

青山獣炭

序章

睦月

 二〇二✕年の幕明け。

 初日の出が終わり、青く澄んだ冬空に太陽が輝く頃、多くの人々は初詣に出掛けた。


 とある著名な寺では、お賽銭を投げ入れるまでに小一時間掛かる。人々は密になって長蛇の列を作り、その時をじっと待つ。寒くないように厚着して。


 振袖姿の若い女性や、スーツ姿の集団、体を密着させたカップル、白髪の老婆もいる。しかし彼らの中で、マスクをしている人は、ほとんどいない。

 その光景は、あの新型コロナウイルスが流行する前と、なんら変わりがなかった。


 ただ、一つのことを除いて。


 それは、人々がみな押し黙っているということだ。

 お賽銭を投げ入れる音、人々が足を運ぶ音、衣ずれの音などはしている。しかし、人の声はどこからも聞こえてこない。

 静寂が支配する初詣は、さながら厳かな空気に包まれた儀式のようになっていた。




 国の根幹を担っている、世界有数の都。

 新年を迎えた電車の中である。この電車は、東の住宅地域と都心を結んでいる地下鉄だ。


 車内の窓は締め切られ、暖房が効いていて暖かだ。去年の冬の頃、電車は窓を開けっ放しで走行し、それによる寒さと騒音に人々は悩まされたものだったが、今はそのようなことはなかった。


 外出する者が多いせいか、車内は混雑している。

 電車の進む音だけが、車内に響いていた。

 ここでもほとんどの人は、マスクをつけていない。そして、人の声もいっさいしない。


 徳山拓信は、妻と小さな息子三人で、車内の片隅の座席に腰掛けていた。

 彼らは都心から、だいぶ離れた西の郊外にある拓信の実家に向かっていた。新年の挨拶をするためである。


 息子――大樹は、顔にきつく食い込んだ不織布マスクをしていた。かなり痛いのか、瞳には涙が溜まっていて、今にも泣き出しそうだ。


 拓信は、手に持った真新しい緑色のメモ帳に、ボールペンで走り書きをして、大樹に見せた。

『マスク、いたいの?』

 父の書き言葉に、かえって緊張の糸が切れてしまったのか、大樹は泣き出してしまった。


 同じ車両にいた人々の視線が、一斉に徳山家族の方に向けられる。


 拓信は立ち上がって、その人たちに対して作り笑顔をしながら、深々と礼をした。

 そしてすぐにバッグから、携帯用のアルコールボトルと新しい子供用のマスクを取り出し、大樹の顔から服から、周りの空間にまで勢い良くアルコールを吹き付けた。

 大樹がびっくりして泣き止んだところで、マスクを交換する。


 徳山家族に向けられていた幾つもの視線は、徐々に外れてなくなった。


 妻――繁美は、持っていたオレンジのメモ帳に言葉を書いて、拓信に見せた。

『だから、こんなマスクなんて口封じにならないって、家から出る時書いたじゃない』

 それを読んだ拓信は、自分のメモ帳に書き込んで、繁美に見せる。こうして夫婦の筆談が、はじまった。


『ぺらぺらしゃべられるより、いいだろ。泣き声だけは、OKなんだから』

『かわいそうじゃない』

『それとも、おれが手で大樹の口を押さえながら、移動すればいいとでも?』

『その方が、よかったと思うわ』

『かんべんしてくれよ。おれの手が、つばだらけになって、最後かまれるのがオチだ。それだけでも危険なのに、あげくの果てには大声で叫んで、そのあと泣き出すさ。大樹はね。結果は同じでも過程が悪過ぎる』

『そうかな』


 まだ幼い息子は、このやり取りの間に、すやすやと寝入ってしまっていた。

 やれやれ。こんなことが今月の終わりまで続くのか、拓信は思う。


 彼は何気なく車内を見渡した。

 徳山夫婦と同じように、メモ帳で筆談をしている人が大勢いた。中には単語帳で言葉を交わしている者もいた。昨年の十一月からメモ帳がバカ売れした影響だろう。書くものが手に入らなかったのか、スマホに文字を打ち込んで筆談している人もいた。


 静かといえば、静かな空間。


 こんなことを続けて、本当に収束するのか――拓信は疑問だったが、とりあえず政府の対策に従うしかないとも思っていた。


 彼は、しばらくメモ帳を指でパラパラとめくっていたが、やがてコートの胸ポケットにしまうと、繁美の手を強く握った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る