霜降月(End of chapter)

 朝の通勤時間。超満員の地下鉄。

 徳山拓信はドア近くの吊革につかまり、人の波に揉まれながらスーツの内ポケットにあるスマホを何とか取り出そうとしていた。


 一週間前の出勤日では、スマホを見るくらいのスペースぐらいは余裕で確保できたのに、今朝の混雑ぶりは、コロナ禍の前までとはいえないものの、それに近いものにまで戻っていた。


 車内のスピーカーから、女性のやわらかい声でアナウンスが流れてきた。

〈ガッ。シャラップ宣言に基づきましたぁ、新型コロナウイルスの感染予防対策としてぇ、車内の会話は禁止とさせていただきましたぁ。どうぞ、みなさま声を出さずにぃ、到着駅までお過ごしください。ガッ〉


 たしか先週までは(マスクを着用していただき、会話はお控えください)じゃなかったかな、徳山は思う。シャラップ宣言で変わったのか。喋らなければ、マスクはしなくてもいいみたいだな。そういえば、マスクしてない人もけっこういるぞ。


 シャラップ宣言とは、第五次緊急事態宣言のことを指していた。テレビの朝のワイドショーの中で、コメンテーターのお笑い芸人が、ぽつりと言ったことが急速にひろまり、いまや流行語と云っても、おかしくない浸透ぶりだった。


 通勤する者が増えたことには、明らかな理由があった。今月の下旬に入って大企業が、従業員の在宅勤務の大半を取りやめると、次々に発表したからである。シャラップ宣言で示されたトレーニング期間に反応して、大企業は会社内の環境を迅速に整えた。その結果、出社する従業員を何も減らす必要はないだろうという結論に達したのであった。今はその波が、中小企業にまで及んでいる。


 経済は、確実に回り始めていた。


 徳山は結局、スマホを取り出すことができず、窓の外で過ぎゆく灰色の壁や、まわりの乗客、中吊り広告などを見ただけで、会社近くの駅のホームに降り立った。


 二人分ぐらいの幅しかない狭い階段を通って、地上に出る。

 徳山の会社は、そこから十分くらいのところにあった。


 ビジネス街は往来する人が増え、活況を取り戻しつつあるように、徳山には思えた。

 マスクを外して黙々と歩く人が増えた気がする。片手に、ペンを挟んだ手帳やメモ帳を持っている人を見かけるのも、珍しいことではなくなっていた。


 徳山は、一階にレストラン街が併設された十三階建てのビルに入ってゆく。そこの八階に彼が勤める警備会社があるのであった。エレベーターに乗る。


 彼の会社は、支店と子会社で全国にネットワークを持つ巨大な警備会社グループの親法人であった。先だってシャラップ宣言に基づいた国との契約が成立したばかりだ。業績の予想は上向いていた。警備会社にとっては、新たな設備投資もなく、通常の監視業務に若干の注意力を付加するだけなので、まあおいしい仕事と云えるのであった。


 エレベーターの扉が開くと、受付カウンターの下に、でかでかとしたポスターが貼ってあった。

『弊社はゼロシキに書かれた生活様式に対応した、経営を行っております』


 ゼロシキというのは《感染者ゼロを目指す新たな生活様式》の略称である。これはSNSから火がつき、急速に浸透したものであった。


 ポスターの字の背景には、ゼロシキのパンフレットの表紙に描かれていたのと同じイラスト。さまざまな人が、密になってバンザイをしている。

 このイラストは転載可と一般に周知されているので、広報部が時間と予算の都合から使用したのだろうと、徳山は推測した。


 いい絵だよな、これ。彼は思う。ぜひともがんばって、描かれている世界を実現しようって気持ちになる。誰が書いたんだろう。有名なイラストレーターかな。なんで作者を公表しないんだろう?


 フロアーに入る。ひろびろとしたワンフロアーに整然と机が並んでいた。人の数は、意外にも先週と変わっていなかった。徳山の会社では、従業員の自宅とのリモート体制が、とうに確立されており、在宅勤務は変わらず継続されていたのである。


 ひとつ先週と大きく変わっていることがあった。それは、机上の電話が全て取り外されていたことであった。

 彼の会社は、内部の組織、外部の取引先を問わず一切の電話連絡を、止めてしまったのである。もちろん来年の一月までという期限付きではあったが。


 机の上にある穴からは、相手のいないコードが死んだ生き物のように伸びていた。


 徳山が、フロアーの奥の経理課の席に座るまで、会話はまったく聞こえてこなかった。始業前だからではない。ダマットレが既に、はじまっているのであった。


 彼が執務をしている経理課は十人で構成されているが、机の並びに行ってみると、出社しているのは、徳山を除いて課長と雑務をこなす若手の新人だけだった。


 彼は挨拶は交わさずに、ただ黙って二人に礼をした。二人も黙って礼を返した。三人ともマスクは、したままだ。ゼロシキではマスクは外してもかまわないことになっていたが、まだその新しい生活様式に彼らは慣れていないのであった。


 徳山は、机のノートパソコンを開き、始業時間を待たずに仕事を開始した。

 在宅期間中に発行された社内報を読み、窓際でこちら側を向いて座っている課長とのチャットの準備をする。

 始業時間になったところで、徳山はチャットを使って課長へ、在宅勤務中の報告をした。それが終わると、書類が置かれている倉庫に行き、大きなダンボール箱と数冊のファイルを持ってきた。


 ダンボール箱の中には、ひもでしばられた書類の束。子会社の先月のエビデンスが現実のルートでも届いていた。

 それを会社ごとに並べ、ひもをほどいてファイルに綴っていく。ときおり、パソコンの送られてきたデータと違っていないか照合する。エビデンスをいじくって、不正をする者がごく稀にいるためだ。


 今日は中間決算の公告日とあって、パソコンのメールボックスには、子会社からの質問メールが、ぽつぽつと入った。徳山は、それに返信しながら、書類の整理を続けた。


 はあ。コーヒーでも飲むか、徳山は思う。

 彼は休息室に行き、自動販売機でミルクと砂糖がたっぷり入ったカフェオレの缶コーヒーを買って、その場で飲んだ。もう暖かいものに切り替わっていた。


 声が無くても、仕事の内容はたいして変わらないな、徳山は思う。むしろ、いろんな部署から電話が掛かってこないぶん、集中できて能率はアップしてるかも。だけどなあ。もともと無味乾燥な仕事だけど、さらに味気ないよな、これじゃ。


 徳山はコーヒーを飲み終えると、缶を専用のダストボックスに入れ、気の乗らない仕事へと戻っていった。

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