神無月(Part4)


 徳山拓信は、リビングでノートパソコンを見つめ続けていた。次々チェックをしては、完了のマークを入れてゆく。ある程度溜まったらそれを、総勘定元帳のシステムにアップする。そういった作業を、彼はもう何時間も続けていた。


 そうしている間にも、伝票とエビデンスが添付されたメールは、続々とボックスに届く。未読のメールは、百件を超えていた。しばらくは増える一方だろう。月初めの、機械的な辟易するような作業。しかしそれで、拓信は収入を得ているのである。作業を止めるわけには、いかなかった。


 はあ。コーヒーでも飲むか、拓信は思う。彼はキッチンに行き冷蔵庫の中から、ミルクと砂糖がたっぷり入ったカフェオレのペットボトルを取り出した。リビングに戻り、それをちびちびと飲む。甘い物を摂ると集中力が戻ってくるような気がした。


 ふとテーブルの下に置いてある、充電中のスマホから音が鳴った。SNSの新着メッセージの着信音だった。


 やれやれ。今は新着ってのに、うんざりしてるんだけどな。彼はそう思いながら、スマホを手に持つと、メッセージを確認した。


 繁美からだった。彼女は、徳山家の近くの弁当工場に午後四時までパートに行っている。


【ランチ、いっしょにどう? もちろんあなたのおごりで。おこづかい余って、困ってるんじゃない? あのイタリアンの前で、十二時十五分に待ってる。時間厳守ね。昼休みが終わっちゃうとたいへんだから】


 たしかに小遣いは、最近余裕があった。小遣いの大半を費やす上司や同僚との飲み会は、いつやったか思い出せないほど随分前に会社から禁止にされていた。それに、これといって欲しいものがないので、買い物もあまりしない。せいぜい、ずっと読んでる漫画の続きが出た時に、通販で買うくらいだった。


 拓信の在宅勤務の日の昼飯は、冷蔵庫にある残り物や、繁美が作り置きしてある冷たいおかずを温めて、簡単に済ますことが多かった。


 たまには外食したいな、俺のおごりだけど。そう思いながら、拓信はスマホに了解のメッセージを書いた。





 雫森玲香と村越優也は、湾岸の商業地域にある、スパニッシュバーに来ていた。《プロスペラ》と名付けられたこの店には、室内の他にテラスが設けられていて、そこに二人はいた。


 白い波が確認できるくらいの距離で、海が望めるオープンテラス。

 簡単なつくりのパーテーションを設置したテーブルが、ずらっと並んでいる。それは、その店の設計者が意図した雰囲気を、すっかりだいなしにしていた。


 二人はソーシャルディスタンスの長さよりもさらに距離を取って、客席にそれぞれ座り、海の方に顔を向けている。マスクをつけたまま。


 すらっとした背高い女性が、トレイにアイスレモンティーを二つ乗せて、テラスに入ってきた。もちろんマスクをしている。


 女性は、村越のテーブルにその飲み物を一つ置くと、続いて玲香のテーブルにやって来た。


「いいのに。飲み物とか」

 玲香は顔を上げて、女性に話し掛けた。

「だって、お金もらっちゃうとね」

「そのぐらいさせてよ。会議室料のつもりだったんだから」

「たしかに、電話でいきなり呼び出されたわけだから、少しぐらいはもらわなきゃなって、思うけど……」

「取っといて。また使わせてもらうかもしれないし。次はお金出さないかも」

「まあ、ひどい。今度は、もっともらうわ」

 女性はテラスから出て行った。


「あの……」

 村越は、かぼそい声で玲香に話しかけた。

「なに」

「この店はどうしてランチとかデリバリーを、やらないんですかね。流行りそうですけど」

「それをやるには、昼間から働いてくれる腕のいい料理人と切り盛りができる従業員が必要なの。この店には、どっちもいないだけ」

 そう言って、玲香はショッキングピンクのマスクを片方だけ耳から外して、紅茶を飲んだ。氷のぶつかる音がした。


 ふと、彼女は強い視線を感じた。村越を見ると、ちょっと驚いたような顔をして玲香を見つめている。思わず彼女は、ひとつ咳ばらいをした。


 村越は、その音に我に返ったように玲香への視線を逸らし、あわててマスクを取って、紅茶を飲んだ。


「い、いい会議室ですよね。人もいないし。これだったら感染の心配はない」

「そんなことどうでもいいから、そろそろ始めるわよ。時間がないんだから」

「はい」

 村越は、マスクを再度つけた。


「総理からあなたの提案を聞いて、わたし直感で思ったんだけど、日常で制限されるのは会話だけで、あとは普通に生活できるのよね。経済活動もフルで再開できる。このお店だって、感染対策のアルコールボトルやパーテーションすら取っぱらって、営業も深夜までできる」

「そうだね。マスクもいらなくなる。誰も喋らなくなるわけだから」


「で。あなたは、この国で四六時中、発せられている声を、どうやって封じ込めるつもりなの。アイディアを聞かせて。だいたい予想はつくけど」


 村越の背筋が伸びて、眼光が鋭いものに変わった。

「特別措置法を改正して、罰金刑を導入する。声を出したら罰金を課すんだ」

「いきなり、憲法学者が聞いたら卒倒しそうな提案ね。基本的人権はどうなるの」

「そもそも外出自粛要請だって、基本的人権の保護に抵触していると僕は思う。行動の自由をある程度束縛しているわけだからね。外出禁止命令とか、もし出したら憲法違反だと云われかねない。でも、もうそこまで強い束縛を人にしないと、感染爆発しかねないところまで来ている」

「そうね。否定はしないわ」

「憲法違反だとか言ってられないんだよ。同じ強い束縛をするなら、外出をやめろよりも声を出すなの方が、僕はいいと思う」


「分かったわ。法律を改正することは可能ということにして、議論を進めましょう。罰金刑は課すとして……そこまではわたしも考えていたけど。問題はどうやって違反者を見つけるかね」


「まず、スマホに二十四時間、声を感知し続けるアプリを入れる」

「なるほど。アプリは開発可能ね。似たようなものが既に有るし。スマホを持っていない人はどうするの?」

「それは、アプリだけ入れたものを子供に至るまで全員に配布するしかないと思う」

「貸し出しだわ。コロナ禍が終わったら返してもらう約束ね。そうしないと、持っている人との不公平が生じてしまう。料金の問題もあるし。実際は貸し出したままになると思うけど」

「アプリは、人間の声にだけ反応するようにプログラムを組む。そしてそれを感知したら、管理局かなんかのサーバーにその声を送り込む。人間の声だけのデータが出来上がるわけだ」

「なるほどね。できそうな気がしてきた。めったに誰も喋らないのが前提だけど。でないと、サーバーがパンクしてしまいそう」


「それから」

「へえ、まだあるんだ」

「監視カメラを持ってる者に協力してもらう」

「どういうこと」

「街なかや建物、屋内、今やあらゆる場所に設置されているカメラを全て使って、誰か喋っている人がいないか監視するんだ」

「協力してくれるかしら」

「義務付けないと難しいだろうね。それも措置法の改正が必要になるかもしれない」

「ふう。監視社会の到来ね」

「そうかもしれないけど。僕は、構築されている既存のシステムを使ったらどうかと言ってるだけだよ。そういう意味では、もう僕たちは監視社会の中にいるんだ。個人情報がひとつのところに集中していないだけで、僕たちの行動はあらゆるところに筒抜けになってる」


 村越の言う通りなのかもしれない、玲香は思った。今こうしている間にも、個人データは、この国のどこかのサーバーに休むことなく蓄積され続けている。


「最後に」

「えっ。まだあるの」

「密告制度を作る。言葉を発している人を見かけたら、密告してもらうんだ。何時何分何秒にどこそこで喋っている人がいましたって感じで」

「それこそ監視社会じゃないの」

「そうだね。でもこの国の人たちには同調圧力という文化がある。今までだって、休業要請に応じない飲食店に嫌がらせしたり、営業し続けるパチンコ店の名前を公表したり、マスクをしていない人の前で大騒ぎする人がいたり、いろいろあっただろ。監視社会の中にいるんだよ、もう。僕は、この同調圧力と云う国民性を利用して制度化した方が、むしろくだらない騒ぎがおさまるとさえ、思っている」


 なんか言いくるめられているみたい、玲香は思う。この違反者を見つけるための三つの提案は、どれも実現できそうな話だ。けれど。ここまでしても、すぐに消えてしまう声を捕捉するのは無理な気がした。


「ねえ。家族とかどうするの。家の中の監視がスマホだけって、心細い気がするんだけど。だいち、スマホだって電源切られたらお終いだわ」

「電源が切れたら、喋ったとみなして即罰金だろうね。でも、そこまで厳しくしなくても、家庭内感染は外からウイルスが持ち込まれない限り、二週間もすれば消え去る」


「一理あるけど。なんか心配。あと、くしゃみや咳とか。出ちゃうときは、出ちゃうし」

「そういう時は、やっぱりマスクをするか手で覆ってもらうしかないね。たしか第四次の宣言で、徹底した新しい生活様式として提示されてた気がするんだけど。くしゃみや咳をした後は、マスクをすぐに捨てるか洗う。手も何かに触る前に、ていねいに洗う。今はコロナ禍なんだ。全てが元通りというわけにはいかない。そして、そういう具合の悪い人は、積極的に家で寝る。それはみんなが守るべき最低限のマナーだと思う」

「そうだったわね。徹底している人は、ごく少数だけど」


「僕は提示した時、携帯用の小さなアルコールボトルを、全員に配布すべきだったと思う。そうすれば、もう少し徹底する人は増えたんじゃないかな」

「……そうね。そうすべきだった。今度はそうさせてもらうわ」

 玲香はそう言ってから、しばらく考えていたが、また口を開いた。


「赤ちゃんとかどうするの。喋っている口をふさぐの? 泣き出したら誰にも止められないわよ」

「あのさ。頭の固い公務員さんは、完璧を求めているみたいだけど、これってゆるゆるでいいと思うんだ」

「頭の固い――」

「言い過ぎたか。まあ、聞いて。肝心なのは、これが感染の抑止になるってことだ。形のない声をつかまえることが目的じゃない。人々を黙らせることが目的なんだ。人々の口の中から唾液が少しでも飛ばなくなれば、感染は確実に減ってゆく」

「……分かったわ。あなたの考えをぜんぶ採用して、素案をつくってみる」


 村越は、ほっとしたように息をついてマスクを外し、アイスティーをゆっくりと飲んだ。さっきまで鋭かった彼のまなざしは、急に穏やかで静かなものに変わった。


「ねえ。どうして学者君――じゃなかった、ええと、村越……助教授は、総理からのアドバイザーの依頼を断ろうとしたの」

「だって、僕は感染症の専門家ではないし、助教授になったばかりだし。政府の人が、僕の話を、こんなに真面目に聞いてくれるなんて思わなかったから」

「自信持った方が、いいんじゃない。今日は、ありがとうございました」

「……どういたしまして」


「ゆっくりしてってね。さっきの店長、なかなか魅力的でしょ。お話ししてみたら」

「僕には、そんなこと……」


 玲香は、足早にテラスを出て、フロアのカウンターの中にいる店長に一礼した。

「またね、なぎさ。とにかく、がんばって」

「ありがと。夕方もたまには来てちょうだい」

「かなり、むずかしいけど。この絵、見たくなったらまた来るわ。おしごと抜け出してもね」


 なぎさの後ろの壁には、大作の絵画が飾られていた。いまだ工事中のはずの高い塔のような建物がすっかり完成しているように感じられ、その建物を中心にして、にぎやかな街並みが描かれている。南国の明るい光が強調された、やわらかいタッチだった。なぎさが海外留学した折りに、描いたものだった。


 玲香は《プロスペラ》をあとにした。いちばん近くにある、湾岸を周回する無人電車の駅に向かって歩いていく。


 歩きながら玲香は、ぼんやりと思う。あの助教授、マスクを外した時、なんか味のある顔してたな。ちょっと唇が大きめだけど、形がきれいだった。まっすぐで、少しも歪んでない。……あっ、ランチどこで食べよう。また庁舎の食堂でいいか。これからパソコンと格闘だ。一変する生活の細かいところまで詰めないと。声を出さないで、コミュニケーションをどうやってするかが問題ね。新新生活様式……名前はまだどうでもいいか。やっぱり徹夜だわ。


 彼女は無人電車に乗り込み、都心にある内閣府の庁舎に向かった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る