第33話 甘いと錯覚していただけ


 遊園地で綾人くんが襲われた、あの日。

 雷蔵くんが呼んだ警察と救急車はすぐに現場へ駆け付けて、意識のない綾人くんを病院まで搬送してくれた。


 私は警察で聴取を受ける事になり、もちろん加害者であるアイジという男は取り調べの末に勾留される事に。


 後に警察から聞いて知ったのだが、彼は過去にも女性に対する暴行で捕まっていた前科があり、学生時代にも暴力事件を起こして少年院に入っていたという。二年前に出所してからも度々問題を起こしていたそうで、それを聞いてゾッと背筋が凍りついた。


 どうやら真奈美さんもその件は知らなかったらしく、「私は無関係よ! あの男が勝手にやったの!」と聴取の際に彼との関与を否認してヒステリックに喚いていたとの事だ。しかし『六藤 結衣を痛い目に遭わせてほしい』といった趣旨のメッセージを彼女がアイジ宛に送ったという証拠が露呈され、今度は逆ギレして「私じゃない! 別人が成りすまして勝手に送ったのよ!」といつもの妄言を叫びながら大騒ぎしていたらしい。


 結果、私は被害者の一人としてすぐに解放され、今では仕事にも無事に復帰出来ている。真奈美さんの悪事は瞬く間に社内で広まり、同僚からは「大変だったね」「困ってるなら相談してよ〜」と上辺だけのねぎらいの言葉を何度もかけられた。


 それらに苦笑いを返す事にもとうに慣れ、あの日から五日が経過した今。


 まだ、真奈美さんは会社に戻ってきていない。おそらく戻ってきても居場所などどこにもないだろう。

 彼女はきっとそれなりの制裁を受けるに違いないが、ざまあみろと思う気力も湧いてこない。それどころか、いつか私への報復があるのではないだろうかと幾ばくかの恐怖すら抱いている。


 先の未来に光を見いだせず、口からこぼれ出るのは溜息と弱音ばかりだった。



「……会社、辞めようかな……」


「え、辞めちまうの? 六藤」



 休憩室でぽつりと呟いた言葉。しかしひょっこりとやってきた佐伯くんがそれを不意に拾い上げた。


 思わず「ひゃあっ!?」と飛び上がれば、彼は缶コーヒーのプルタブを開けながら私の隣に腰を下ろす。



「さ、佐伯くん……!」


「六藤が辞めたら結構ショックだなあ、俺」


「……ま、まだ、決まったわけじゃ……」


「……まあ、俺に止める権利もねーし、辞めたい理由もすげー分かるけどさ」



 コーヒーに口をつけ、佐伯くんは遠くを見つめる。


「まさか、綾人さんがこんな形でまた世間に注目浴びるとは思わねーよな」


 そう呟いた彼に、私はそっと視線を落とした。



 ──ライムライトAYATO、遊園地で襲われ意識不明。



 例の事件は、そんなタイトルでネットニュースに取り上げられた。その場に雷蔵くんも居合わせていたという事もあり、世間には再び『ライムライトのRAIZOとAYATO』という名前が広まったのだ。


 ネット上では同情の声と共に、彼らの代表曲である『シュガーレス・レモネード』の動画のリンクが飛び交った。もちろん楽曲のダウンロード数や動画の再生数は更に増えたが、雷蔵くんは「こんな事で再生数伸びても嬉しくねー……」と肩を落とし、曲作りも今は中断しているという。



「……綾人さん、容態はどうなの」



 ややあって聞きにくそうに尋ねた佐伯くんに、私は小さくかぶりを振る。



「……まだ、目が覚めない」


「……」


「後頭部を木材で強く殴られてたみたいで、出血も多かったから……目を覚ましても、もしかしたら、何らかの後遺症が残るかもって……」



 俯き、両手を握り合わせて力を篭める。熱を帯びた目尻を誤魔化すように瞬きを繰り返して、私は強引に口角を上げようとした。けれど、うまくいかない。



「……私が、あの時……綾人くんの怪我が酷い事にもっと早く気付いて、すぐに救急車を呼んであげてたら……こんな事にならなかった……」


「……今更そんな事言っても、どうしようもねえだろ」


「でも……」


「六藤は悪くない。悪いのは殴ったヤツだけだ。綾人さんは絶対目ぇ覚ますよ。こんないい女放っといて、いつまでも呑気に寝てられるわけねーじゃん」



 な、と微笑み、くしゃりと髪を撫ぜる手。途端に涙が溢れそうになったが、込み上げたそれは意地で耐えて弱音と共に飲み込んでしまった。


 こくり、顎を引いて唇を噛む。



「……うん」


「元気出せよ。綾人さんが起きた時、そんな顔してたら逆に心配されんぞ」


「うん、そうだよね……」



 またひとつ頷いて、顔を上げた。私が辛い現実から逃げてしまいたくなる時、優しく受け止めて背中を押してくれるのはいつも佐伯くんだ。



「あのね、私……佐伯くんが同期でよかったなって、今すごく思う」



 その目を見てはっきりと伝えれば、彼はいつもと変わらない笑顔を浮かべる。悪戯を企てる少年みたいな、どこか憎めない見慣れた笑顔。



「んだよ、ようやく気付いたか。良かったな、イケメンで優しい同期がいて」


「……相変わらず、調子いいんだから……。でも、ほんとにそうだね。ありがとう」



 ふにゃりと自然に頬が緩んで、佐伯くんに笑顔を向けた。彼は安堵したように笑い返し、缶コーヒーの中身をまた嚥下する。


 その時ふと、私のスマホが着信を報せた。



「あ……ごめん、電話」


「ん」



 一言断りを入れてスマホの画面に視線を落とせば、そこには先日連絡先を交換したばかりの雷蔵くんの名前が表示されている。


 とはいえ、彼から着信がくるのは初めての事だ。

 一体どうしたんだろうか。まさか、綾人くんの身に何かあったんじゃ──?


 悪い未来ばかりを考えながら些か身構え、生唾を飲んで通話ボタンをタップした。


 しかし、私が「もしもし」と口火を切る前に彼の声が鼓膜を震わせる。



『檸檬ちゃん!! 大変や!!』


「……っ、え!? 何──」


『──目ェ覚めた!! アヤヤ!!』



 大声で叫ばれ、きんと強い耳鳴りに襲われた。が、それ以上に告げられた言葉の衝撃と歓喜が胸を震わせる。



「ええっ!?」


『はよぃ! 普通に元気やでコイツ!』



 思わず声を張り上げた私は、涙声で鼻をすする彼にこくこくと何度も頷いた。



「わ、分かった! すぐ行きます!」



 電話を切り、すぐさま佐伯くんに「綾人くんが起きたって!」と報告する。すると彼もぱっと表情を綻ばせ、「おおお!」と声を上げた。



「マジか! ほら見ろ、早速起きたじゃん! 早く顔見せに行ってやれよ!」


「うん! 部長に早退するって伝えてくる!」



 満面の笑みで立ち上がり、空き缶をゴミ箱に捨てた私は迷いなく走り出す。


 たった五日間、一週間にも満たない短い間、彼と会話をしていないというだけなのに。まるで何年も離れ離れだった恋人に再会するかのような強い高揚感が胸を満たしていた。


 私はすぐに会社を早退し、電車に乗り込んで病院へと向かう。もう何度もお見舞いに訪れた通路を早足で進んで、逸る気持ちを抑えながら、やがてついに病室の扉を開けた。



「──綾人くんっ!」


「あ、来た! 檸檬ちゃん!」



 先程連絡をくれた雷蔵くんと病院の先生がまず私を出迎え、次にきょとんと瞳をしばたたいている綾人くんの姿を視界が捉える。しっかりと起き上がって意識があるその様子に、私はどっと安堵してその場に力なくしゃがみ込んだ。



「……っ……はあ~……! 良かったぁぁ~……っ」


「わはは! 俺と同じよーな反応しとるな!」


「だって、ほんとに……心配だったんだもん……!」



 思わず涙声になる中、雷蔵くんも赤くなった目尻を緩めて「ほんと、心配させたわりにコイツの第一声何やったと思う? 『水飲みたい』やで」と肩を竦めながらも安堵した表情を浮かべていた。


 どうやら意識はハッキリしているらしく、筋肉の動きや健康面の異常も見当たらず、言語障害なども特にないようで。医師いわく「順調に快方に向かっていますね」との事だった。その言葉にますます胸を撫で下ろす。



「本当に……良かった……」


「な〜! ほんま人騒がせな……アヤヤ、お前ちゃんと謝れよ! 檸檬ちゃんが一番心配しとったんやぞ!」


「そうだよ、本当に心配だったんだから……!」



 立ち上がり、彼を正面から見つめる。

 しかし綾人くんからの反応は思ったよりも薄く、「え? ああ、うん……」と実に素っ気ないものだった。


 困惑した表情で不思議そうにこちらを見つめるその様子に、私は妙な胸騒ぎを覚える。



「……? 綾人くん……?」



 呼びかけるが、やはり反応は微妙。ややあって綾人くんは怪訝そうに眉根を寄せ、「……なあ、雷蔵」と雷蔵くんに視線を移した。


 私を一瞥するその目は、まるで不審なものでも眺めているかのようで。やはり嫌な胸騒ぎがして、私は息を詰める。



「……この人さ……」


「……?」



「──誰……?」



 そうして告げられた一言は、あまりにも強い衝撃となって私の頭を殴打した。見開いた瞳。血の気が引いて、生唾を飲み込む音までも鮮明に己の耳に届く。


 その場の全員がたちまち言葉を詰まらせ、しん、と静寂に包まれた病室。最初にその沈黙を破ったのは雷蔵くんで、彼は頬を引きつらせながら「……は? お、お前、何言っとん? 冗談きついわ〜」と強引に破顔した。



「いつまでも寝ぼけとんなよ、ほーらよく見ろ! どう見ても檸檬ちゃんやん、檸檬ちゃん! お前の初恋の人やろ?」


「……? れもん……? 初恋……?」


「わはは、なーにオモロない小ボケかましとんねん! ほら、六藤 結衣ちゃんやって! お前、ずっと好きやったんやろ? 小学生の頃からずっと!」


「……むとう、ゆい……」



 私の名前を不思議そうに復唱する綾人くん。しかしそれでも彼の瞳の奥は困惑を色濃く浮かべ、ぐらりと戸惑いに揺らいでいる。


 しばらくして「誰、それ……」と再び紡がれた言葉が、私の心に小さくヒビを入れた。



「全然、分かんない……俺、女とかあんまり興味ないし……」


「は……はあ!? いい加減にせえよお前! 六藤 結衣やぞ!? お前が学生の時、ずっと好きやって言いよった初恋の──」


「ごめん雷蔵、さっきからずっと何言ってんの? ……俺、好きな人とかいた事ないけど」



 ぱきん、と。今度こそ胸の奥には大きな亀裂が入る。


 散らばる見えないビーズの粒が、踏み砕かれて粒子のように消えていく。


 雷蔵くんは絶句し、目を見開いて私の顔を見つめた。やがて「は? 嘘やん……」と呟いた彼は、病室の机に置かれていた檸檬の飴玉を咄嗟に手に取って綾人くんに握らせる。



「……これ! これやで!? お前、気ぃ失っても大事にこの飴玉だけは握り締めとったやろ!! しょーもない冗談やめぇや!!」


「……? 何これ……檸檬の飴……?」


「そうや! お前がずーっと前から、『初恋の人から貰ったお守り』や言うて肌身離さず持っとったヤツやぞ! 毎日家でこれ食っとったやろ!」


「は? 何で? そんなわけなくない? だって、俺──」



 ころり、彼の手の中から飴玉が落ちる。

 白いシーツの上に転がった、まあるい檸檬色。

 私と君を十年以上も繋いでいた唯一のもの。


 けれど甘いと思い込んでいた恋心は、色味を無くして無糖に戻る。


 恋愛がわからないとうそぶいて私と口付けを繰り返していた君は、あの飴玉の痺れる酸味を、甘いと錯覚していただけなのだ。



「──檸檬なんか、好きじゃないし」



 私が過去に彼の胸を貫いたその言葉は、十年の時を経て、そっくりそのまま私の心を深く抉り抜いた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る