最終話 私と恋愛の練習しない?


 病室で目を覚ました綾人くんは、本当に私の事を一切覚えていなかった。


 運動能力や健康面は至って問題ないと診断されたものの、頭を強く殴られた衝撃と閉所に閉じ込められていた恐怖による精神的ショックで、記憶が一部失われてしまった可能性が高いという。



「全ての記憶がなくなっているわけではないので、おそらく一時的な記憶障害だと思います。ただ、明確な治療法はないので様子を見るしかありません。すぐに記憶を思い出すかもしれないし……あるいは、一生思い出さないかもしれない」



 ──気長に経過を見守りましょう。



 そう医師から告げられたのが、約三日前。


 他に体の異常は見られないため、今日で綾人くんは入院生活を終えて退院する。「きっと長く一緒にいたら思い出すから!」という雷蔵くんの勧めもあり、私は有給を貰って朝から彼の病室に足を運んでいたのだった。



「……武藤くん、体調どう? 気分とか悪くない?」



 ぼんやりと窓の外を見ている彼に問いかければ、表情もなく視線を逸らされる。やがて「……別に」と素っ気なく返され、私は「そっか」と苦く微笑んだ。


 私の事を、一切覚えていないという彼。


 最初はあまりにショックで呆然と立ち尽くすばかりだった私だが、しばらく経った後になんとか表情筋を動かし、「はじめまして、六藤 結衣といいます」「中学時代の同級生です」と無理矢理笑って自己紹介を告げた。


 綾人くん、と呼ぶと怪訝な顔をされたため、呼び方も以前のように「武藤くん」に戻している。彼は見知らぬ私の事を警戒しているのか、ほとんど口も聞かないどころか目すら合わせてくれなかった。


 それがちくりと胸を刺す。けれど素知らぬふりで瞬きを繰り返し、笑う事しか私には出来ない。



「ねえ、武藤くんってシチュー好きでしょ? 私、帰ったらクリームシチュー作るね。病院食も飽きただろうし……」


「……は? あんた、家にまでついてくんの」



 あからさまに嫌そうな顔をされて、私の背筋がサッと冷えた。そうだ、彼にとって私は、『よく知らない中学時代の同級生』でしかない。家に入れるのは抵抗があるのだろう。



「あ……そ、そっか、嫌だよね! よく知らない人が、家に来たら……」


「……うん。出来れば来ないで」


「……そう、だよね……」



『──俺ん家……来ない? しばらくの間だけでも』



 数週間前、彼は緊張した面持ちで私にそう提案した。

 私の事を抱き締めて、ぴたりと寄り添った隙間のない距離感で、同じような波形を描く鼓動を刻みながら。


 それが今では、こんなにも遠い。



「……ごめんね。私、訳あって、ちょっと武藤くんの家に荷物置いてたんだけど……それ、今日中にまとめてすぐ出ていくね。心配しなくて大丈夫だから」


「……」


「だから、あの……今日だけ、家に入れてくれる……?」



 私の申し出に、綾人くんはしばらく黙った後で渋々と頷いた。まるで別人のようなその態度にやはり胸が痛むが、気取られぬよう微笑みを浮かべる。



「ありがとう、武藤くん」


「……さっさと出て行ってね」



 吐き捨てられる冷たい言葉。私はまた何度か瞳を瞬いて「うん」と笑った。ちゃんと笑えていたのかどうかは、よく分からない。


 何気なくゴミ箱に目を向ければ、雷蔵くんが渡したままだった檸檬の飴玉が食べられる事なく捨てられている。


 寂しげな檸檬色。

 一瞬視線を外した私だったが、どうにもやり切れなくなって。


 彼に悟られないよう密やかに、捨てられていた檸檬色のそれを、手の中に拾い上げた。




 * * *




 午後四時を過ぎた頃、無事に病院を出た私達は言葉少なに歩きながら三十分ほどかけて綾人くんのマンションへと帰宅した。いつも通りにカードキーを差し込んでロビーに入り、階段へと続く扉を開ける。


 当然のように階段を使おうとする私に、彼は眉根を寄せて口を開いた。



「……あのさ、あんた普通にエレベーター使っていいよ。俺に気を遣わなくても」



 ぽつりと告げられた言葉。私はすぐにかぶりを振る。



「ううん、大丈夫! 私、階段好きだから!」


「……は? 階段に好き嫌いとかあんの?」


「あるよ! 武藤くんも、前に階段好きって言ってたし」


「え……そうだっけ」



 彼は眉間に皺を寄せて首を傾げたが、私ははっきりと覚えていた。この階段を初めて一緒に上がった時、綾人くんが頬を赤く染めながら「六藤さんの事思い出すから、階段が好き」と口にしていた事を。


 きっと覚えていないのだろう。そう考えると切なさに胸が締め付けられ、三階へと続く踊り場を曲がりながら私はぴたりと足を止める。



「……? 何?」


「……何も、思い出さない?」


「は? 何が?」


「階段、見て……誰かを思い出したり、しない?」



 一縷いちるの望みに縋って、彼に問いかけた。だが綾人くんの表情は一貫して訝しげなままで、「いや……」と素っ気ない答えが返されるだけ。



『──ねえ、六藤さん』


『階段に二人きりって、懐かしいと思わない?』



 いつかの君に告げられた言葉が、脳裏に蘇っては泡沫のように弾ける。



「……そっ、か……」



 強引に笑って、私はまた足元を見つめた。



『……階段、好きなの?』


『……俺も好き。階段』


『六藤さんの事思い出すから』



 頭の中でしつこく再生されるのは、彼が今まで私に与えた言葉ばかり。



(嘘つき。思い出してくれないじゃん)



 唇を噛んで涙に耐え、階段を足早に上がると通い慣れた部屋の扉を開ける。


 特に会話もなく明かりを灯し、私は雷蔵くんの部屋に置いていたキャリーバッグに自分の荷物を詰め始めた。元々物を多く持ち込んでいたわけではないから、これもすぐに片付いてしまうのだろう。


 その現実が歯痒くて、切ない。



「……あれ……どこ行った……?」



 その時ふと、リビングからは綾人くんの声が届いた。キョロキョロとテーブル周辺を見渡し、何かを探している。



「……どうしたの?」



 控えめに問えば、彼は眉根を寄せて私を一瞥した。はあ、と溜息混じりに「……タバコ」と呟く。


 タバコ──その所在を、私は知っていた。

 彼が「六藤さんに嫌われるの嫌だから」と、棚の中にしまい込んだのを覚えている。



『……いい。吸わない。もうやめる』


『はい、封印。これでもう吸わない』



 また彼の言葉が蘇って、『封』と記された付箋の貼られた棚の引き出しを見つめた。

 牛丼を食べる途中で私の肩に寄りかかり、ぽつりと呟いた君の姿を思い出す。



『もう、マジで嫌いとか言われんの嫌なの、俺。アレほんとにすげーキツいからやめて……』


『六藤さん知らないでしょ、思春期の男子中学生があの一言でどんだけ傷付いたか……』



 ごめんね、綾人くん。


 今なら分かるよ。



『──私、檸檬なんか好きじゃないから……!』


『──俺、檸檬なんか好きじゃないし』



 そっくりそのまま返されて、胸が痛くて張り裂けそうで。別に私が否定されたわけじゃないのに、真の意味で拒絶されたような気がした。


 逆の立場になって初めて、あの日自分がどれだけ君を傷付けたのか分かったの。



「……私、知ってるよ。タバコ、どこにあるか」



 立ち上がり、私は訝しげな綾人くんの横を通り抜けて引き出しを指さす。貼り付けられた付箋に綾人くんは目を細め、「何これ……?」と容易く『封』の字を剥がしてしまった。


 そのまま引き出しを開けば、やはりあの日しまい込んだ電子タバコと灰皿が現れる。



「何で、こんなとこに入れてんの……」



 綾人くんは意味がわからないとでも言いたげに呟き、タバコと灰皿を取り出した。その際、ころりと何かがもう一つそこからこぼれ落ちる。


 自然と目で追った先に転がっていたのは──ひと粒の、小さなボタン。



「……え……」



 まさか、と私はそれを拾い上げた。しかしすぐに綾人くんが「おい、触んな!!」と怒号を上げて私の手からボタンを奪う。


 思わず肩を震わせると、鋭い彼の瞳と視線が交わった。



「……それに、勝手に触んなよ」



 まるで人に懐かない野良猫のように威嚇し、こちらを睨み付ける彼の双眸そうぼう


 私はぐらりと視界を滲ませ、やがて小さな声で問いかけた。



「……それ、もしかして、第二ボタン……?」



 指をさせば、一層警戒したように綾人くんの声が低くなる。



「……だったら何」


「大事なの……?」


「は? ……そうだけど」


「なんで……?」



 次々と問う中で、ついに綾人くんは言葉を詰まらせた。目を泳がせながら「なんで、って……」と呟いた彼は、困惑した表情で眉根を寄せる。



「……? 俺、これが大事で……昔、誰かに……渡そうとして……」


「……うん」


「でも、渡せなかった……。捨てようとしたけど、ずっと、捨てきれなくて……誰かが、忘れられなくて……」


「うん」


「……っ! そうだよ、俺……忘れたいのに、忘れられない人がいて……!」



 そこまで続けた彼は、表情を歪めて私を見た。寸前まで記憶の蓋が開きかけたようだが、完全には思い出せていない。



「でも、それって誰だ……?」


「……」


「知ってるのに、思い出せない……何だよ、これ……!」



 困惑した様子で頭を押さえ、彼はその場にしゃがみ込む。「武藤くん……」と呼び掛けて手を伸ばせば、怯えたような目をした彼に「触んな!!」とその手を振り払われた。



「む、武藤く……」


「お前っ……お前が一番分かんねえんだよ!! ずっと俺に付きまとって何なんだ……誰だよお前!! 寄るんじゃねえよ!!」


「……っ」


「お前見てると、なんか変なんだよ……! ずっと、胸がざわざわして……知らない誰かの記憶が、ずっと、頭の中にチラついて……っ」



 ──もう、勘弁してくれ……。


 息を荒らげ、取り乱した様子で怒鳴った後、綾人くんは第二ボタンを握り締めて弱々しく縮こまる。


 今の彼にとって、私はただの見知らぬ他人。

 自分に付きまとって家にまで上がり込んできた、得体の知れないただの女。


 きっと私が怯えさせている。拒絶されているのだと嫌でも理解してしまい、迫り上がる涙に耐えてぐっと両手を握り込んだ。



『──俺、卒業式の日、六藤さんに全部伝えて告白しようと思った。ベタだけど、第二ボタンだけでも貰ってもらいたくて……』



 君がそれを渡したかった相手は、きっと目の前にいるのに。



『……俺と、あの観覧車、乗って欲しい』


『もし、俺が弱音吐かずに最後まで乗れたらさ……』


『俺の初恋、実らせてくれませんか』



 忘れられなかった君の初恋は、本当はもう実っているはずなのに。



「……怖がらせてごめんね。私、もう、出ていくね」



 本音を飲み込み、苦く笑った。ぴくりと肩を震わせた綾人くんから私は目を逸らし、雷蔵くんの部屋に戻ってキャリーバッグを掴むとすぐさま身をひるがえす。


 パンプスに足を通し、ドアノブに手を掛けて、最後に一度だけ振り向いた。綾人くんは何も言わず立ち上がり、少し離れた場所から私を見ている。


 十年前、無糖で曖昧で未完成な不良品だった私達の関係は『さようなら』の一言もなく終わりを告げた。


 こうして終わりの言葉を伝えられるだけ、もしかしたら、今の私は幸福なのかもしれない。



「……綾人くん」



 まばたきを無意識に繰り返し、いつのまにか呼び慣れてしまっていた君の名前を紡いで精一杯の笑顔を取り繕う。


 玄関の扉を開けると、通路の小窓から入り込んだ夕陽の赤が廊下に差し込んだ。中学時代、君と私が最初に向かい合った廊下も、こんな風に夕暮れの赤に染まっていたね。



 ──俺と、恋愛の練習しない?



 吹き込んだ冷たい冬の風。君と描いた檸檬色の思い出を連れて、私のそばを離れていく。



「……大好き。さようなら」



 記憶の中の君にそれだけ伝えて、私は彼の部屋を出た。


 足早に通路を進んで非常階段の扉を開ければ、眩しい西陽の赤がさす。風は頬を撫で、冬の匂いが鼻を掠めた。もう金木犀の花は散ってしまったのだろう。


 とん、とん、とん。

 一歩ずつ非常階段を降りて、また立ち止まって、踊り場で夕焼けの空を仰ぐ。


 ポケットに手を入れ、かさりと指に触れた飴玉の包装。それをそっと取り出し、手の中に転がった檸檬の飴玉に目を細めた。



 過去に、一度は捨てた檸檬色。


 またそれを拾い上げて、持て余して。


 けれど今度こそ捨ててしまおうと、私は飴玉を強く握り込んで大きく振りかぶった。



 しかし、それを放り投げる寸前で、背後から伸びた別の手が私の手首を握り取る。



「──ちょっと待って!」


「……!」



 突として耳に届いた声。私はぴたりと動きを止めた。


 ぎこちなく振り返った先には、表情を歪めながら悲痛な面持ちでこちらを見つめる綾人くんが立っていて──私は睫毛を震わせる。



「武藤、くん……?」


「……それ、捨てないで」


「……なん、で……」


「分かんない……分かんないけど、捨てさせちゃダメな気がする。……あんたを、このまま帰しちゃいけない気がする……」



 握り込む手に汗が浮かぶ。微かに期待したが、困惑した表情で私を引き止めた彼は、どうやら記憶が戻ったわけではない。


 それでも彼は私を離さず、言葉を続けた。



「あんたを見てると変なんだよ。懐かしいような、眩しいような……とにかく色んな感情が飛び交って、息が苦しくなる……」



 苦く表情を歪める彼を見上げ、私は瞳を数回瞬いて目尻を緩めた。すると彼は「ほら、それ」と鋭く私を指さす。



「その、まばたきしながら笑うの何なの? それやめろよ……その顔見るのが、なんか一番苦しい……」


「……」


「なあ、あんた、誰なの……? 俺の、何なの……」



 力無く問い掛ける彼に、私は視線を落としてまたまばたきを繰り返した。頬を緩め、足元を見つめて、「何だったんだろうね……」と曖昧に答える。



「私も、分からないの。中学時代は、友達でもないし、恋人でもない……ただの、恋愛の練習相手だった」


「……恋愛の、練習……?」


「そうだよ。……こうやって、檸檬の飴玉を噛むと始まるの」



 ぷつり。飴玉の包装を切り、檸檬色のそれを口に運ぶ。


 夕焼けの赤に染まる非常階段の踊り場で、嗅ぎ慣れた柑橘の香りが互いの鼻を掠めた。


 口内に転がるそれを強引に奥歯で噛み砕けば、綾人くんはたちまち目を見開く。



「……ねえ、武藤くん。あのさ、」



 また強い風が二人の間を吹き抜けて、互いの髪が揺れる。


 十年前の放課後も、私達は非常階段にいた。

 誰も知らない世界の真ん中に座り込んで、見つめ合って、短い髪を風に揺らしていた。



『ねえ、六藤さん。あのさ──』



 脳裏に蘇るのは、あの日の君の言葉。



『俺と──』





「──私と、恋愛の練習しない?」



 緩めた目尻から涙が一粒滑り落ち、同時に私はかかとを高く上げる。檸檬の香りが残る唇を重ねた瞬間、綾人くんは今度こそ大きく瞳を見開いて体を強張らせた。


 ちく、たく、ちく。決して止まる事などないはずの秒針も、おそらくその一瞬だけは世界の時を止めたのだろう。一秒にも満たないほんの僅かな口付けの時間が、私にはまるで永遠のように長く感じたのだから。


 時が止まった世界の中。檸檬色の口付けを終え、私はゆっくりと唇を離す。自身の頬を伝う涙がぱたりと床に落ちた音で、秒針は再び時を刻み始めたのだと知った。


 視線を交える彼は、あの日と同じ人物であるはずなのに、今はもう別の人。



(私の知ってる綾人くんは、もういないんだね)



 広がる苦味に表情を歪める。──しかし、その直後。


 離れようとした私の体は、突如彼に引き寄せられて再び唇を塞がれてしまった。



「……っ!?」



 今度は私が息を呑み、体を強張らせて硬直する。何かの間違いかと思ったが、綾人くんは私を離さない。むしろ壁に背中を押し付けて舌を捩じ込み、更に深く唇を貪り始める。


 戸惑う私は想定外の事態に困惑し、荒々しい口付けの隙間でくぐもった声を紡いだ。



「……っ、は……っ、あ、綾人、く……」


「嫌だ……」


「……え……?」



 嫌だ、と。鮮明に放たれた言葉。閉じた瞼を持ち上げ、私は綾人くんの顔を視界に捉える。


 視線が交わった彼は、その瞳に涙を浮かべ──まっすぐと、私を見つめていた。



「──練習なんて、もう嫌だ……結衣……っ」



 私の名前をはっきりと紡いで、彼は私を抱き締めながら膝を折る。ふらふらとその場に座り込んだ私達を見守っているのは、沈む夕陽が染めた赤い空と、長く伸びる飛行機雲だけ。



「……覚え、てるの……?」



 震える声で問えば、私の肩口で嗚咽を噛む綾人くんが力無く頷いた。



「……覚え、てる……っ覚えてるよ、全部……っ」


「私の、事も……?」


「当たり前だろ……っ、忘れられるわけないだろ!! 俺がどんな思いで、十年も引きずったと思ってんだよ!! あんなヤツらに、結衣を……俺の中から、奪われてたまるかよ……」



 肩口が彼の涙で濡れ、私の視界も次々と溢れる涙でぼやぼやと滲んで狭まっていく。「ほん、とに……覚えてるの……?」と涙声で問い掛けながら抱き返せば、綾人くんは嗚咽を繰り返しながら何度も頷いた。



「……っ、覚えてる……! ごめん、結衣……傷付けて、不安にさせて……っ待たせてしまって、本当に、すみません……っ」


「……っ」


「俺、ずっと……っ、ずっとずっと、結衣に、言いたい事があった……。今から、言うから……聞いてよ……」



 非常階段に差していた夕陽の赤は、徐々に薄まって夜の闇を連れてくる。綾人くんはポケットに手を突っ込み、「結衣……」と呼び掛けながら何かを取り出して、私の手にそれを握らせた。


 真っ直ぐと見つめ合う私達。

 立ち並ぶビルの向こうへ、夕陽が沈む。



「──好きです」



 夜のとばりが降り始めた、一番星がぽつんと輝く空の下で──私はついに、その言葉を受け取った。



「君が、好きです……。ずっと、ずっと前から……君だけが、好きでした……っ」


「……っ、う……っ」


「情けなくてすみません……恋愛が分からないって嘘ついて、練習って言い訳して、ずっと、言えなくて……すみません……」


「う……っ、あ……」



 目尻から涙が溢れ、握っていた手のひらを少しずつ開く。彼がその手に握らせたものは──十年前に私が受け取れなかった、制服の第二ボタンだった。



「結衣が、好きです……」


「……っ、ひ、ぐす……っ」


「君が……っ、俺の、初恋の人です……っ」



 少し錆び付いて、塗装が剥げて。

 十年越しに触れたそれが、手のひらの中で転がる。


 まるで檸檬の飴玉みたいな黄色いボタンを握り締め、ぎゅっと瞳を閉じて、私は彼に寄り添った。



「……っ、ひっく……わた、しも……っ」



 泣きじゃくりながら、綾人くんの背中に腕を回す。

 寄り添ったぬくもり。誰も知らない二人だけの世界の真ん中が、夕焼けの色を失って夜の影に飲まれていく。


 ようやく紡いだ言葉が、流れる涙と共に、長く水を与えすぎた鉢植えの中に注がれた。



「私も、綾人くんが、初恋の人です……っ」



 燻り続けた感情の種は、ようやく芽吹いてその実を結ぶ。直後に重ねられた唇。濡れたそれは涙の味がしたけれど、不思議と舌の上には優しい甘さを感じていた。



 ──君が、好きです。大好きです。



 たったこれだけの言葉を伝え合うのに、一体何年かかったんだろう。一体どれだけの遠回りをしたんだろう。


 甘いだけの口付けを終えて見つめ合い、やがてどちらからともなく、私達は泣きっ面のまま微笑んだ。



「……俺と、本当の恋愛しない?」



 涙声で問われ、受け取った第二ボタンの上で重なる手のひら。


 不器用なまま引きずり続けた〝無糖シュガーレス〟同士のこの恋を、私達はようやく、〝元・不良品レモネード〟と呼ぶ事が出来るのでしょう。



「……はい。喜んで」




 放課後、部活動に励む後輩達の活気ある声、空に伸びる飛行機雲。


 オレンジ色に染まる非常階段の踊り場で、檸檬の香りをくゆらす君と私だけが世界から切り離された誰も知らない空間に座り込んで短い髪を揺らしていた、あの日から──十年。



 淡い色の日々に溶けていた強い酸味の残り香は、今でもまだ、私の舌と心を甘く痺れさせている。



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