エピローグ「レモネード」


 ──カタカタッ、トン。


 エンターキーを軽く押し込み、「シャットダウン」の項目をクリックして、私は三時間の残業の末に本日の業務を終えた。

 一瞥した窓の外は暗く、街灯に照らされた淡雪が静かにチラついている。きっと寒いんだろうなあとうんざりしつつ、私はマフラーを巻いて帰宅の準備を進めた。


 その時ふと、背後から声がかけられる。



「おーう、六藤! お疲れ!」


「あ、佐伯くん」



 現れたのは、同じく残業中らしい佐伯くん。へらりと笑った彼は「珍しく残業してんじゃん」と近くの壁に背をもたれた。



「聞いたぞ、この前の企画会議、お前の案が通ったんだって? 来週そのプレゼンがあるんだってな」


「そうなの……おかげさまで資料作りに追われちゃって。こんな時間まで残業」


「はは、お疲れ! やったな六藤、これからはライバルだな! 気ぃ抜けねえわ俺も!」


「もう、大袈裟……。まだ採用されると決まったわけじゃないし」



 調子のいい佐伯くんに肩を竦めつつも、私は頬を緩ませて「ありがとね」と微笑んだ。彼はやはり人当たりのいい笑顔を浮かべ、「あ、そういやさ」と話題を切り替える。



「今夜、ライムライトがテレビ出るって知ってる?」


「……え!?」


「何だっけ……シュガーレスなんとかって曲歌うんだってよ。ほら、綾人さんの一件でまたあの曲バズったろ? それで出演の打診が来たみたいで……あれ? 綾人さんから何も聞いてねーの?」


「聞いてない!」



 衝撃的な事実に私は驚愕しながら首を振った。佐伯くんは「マジ? 言っちゃまずかったかな」と苦笑する。



「今日打ち合わせがあってさ、その時に綾人さんが教えてくれたんだよ。十時から放送されるって話だったけど……」


「えええ!? あと一時間もないじゃん! なんで教えてくれなかったのよ、綾人くんのばか……!」


「あー、恥ずかしかったんじゃねえ? まあ、実際テレビに出るのはRAIZOの方だけらしいから、わざわざ六藤には伝えなかったのかもな」



 私はむうと眉根を寄せ、時計を一瞥する。現在の時刻は二十一時十五分。今すぐ帰れば放送時間にギリギリ間に合いそうだが。



「うー……! 微妙……!」


「あー、そういやお前、家引っ越して職場からちょっと遠くなったんだったな。綾人さんと住んでんだろ? 録画してもらえば?」


リアタイリアルタイムで見たいの! 走れば間に合うかな……!」



 荷物を詰め込んだ鞄を慌ただしく背負えば、佐伯くんはニッと笑った。そしてトンと優しく背中を押す。



「間に合う間に合う! ほら、走れ六藤!」


「う、うん! 走る! お疲れ様でしたっ!」


「お疲れー」



 ちらほらと残っていた同僚に頭を下げ、私は足早にバス停へと向かった。

 雪の降る街を駆け、危うく逃しかけたバスをギリギリで捕まえた私は、なんとかそれに乗り込んで自宅への帰路を進む。


 本当は夕飯の材料を買って帰りたかったけれど、仕方がない。教えてくれなかった綾人くんが悪いのだ。今夜は昨日の残り物で我慢してもらおう。



(……綾人くん、もう帰ってきてるよね)



 そう考えてそわそわと気持ちが落ち着かないのは、最近ついに私達は同棲というものを始めたからだ。


 元々一緒に住んでいたようなものだが、改めて二人で新居へと引っ越したのである。それからはなんだか毎日がふわふわしていて、まるで空中にでも浮かんでいるかのような高揚感に日々が包まれている。


 雷蔵くんは雷蔵くんで、別の部屋を借りて私達の新居の近くに引っ越したらしい。が、先週連絡した時には既に「いまアメリカにおるんよ! ハローレモンチャン!」と笑っていたので、また当分は日本に帰ってこないのだろう。まさかテレビにまで出演していたとは思わなかったが。



(アメリカに行く前に収録したのかなあ……全然知らなかった。綾人くんも教えてくれたらいいのに)



 帰ったら一言文句を言わねば、と心に決め、のんびりと進むバスにもどかしさを感じながら窓の外を見つめる。


 かくして数十分後、ようやく私は自宅へと帰宅したのだった。時刻は二十一時五十分。ギリギリである。


 私は早足で寒い廊下を進み、突き当たりの部屋のドアノブを捻る。



「ただいま!」


「……あ。おかえり、結衣」



 慌ただしくリビングの扉を開ければ、既に風呂を済ませてソファで寛いでいた綾人くんが振り返って微笑んだ。私は鞄を椅子の上に降ろし、立ち上がって近付いてくる綾人くんに文句を言ってやろうと口を開く。


 しかし、私がそれを口にする前に、冷え切った体は彼の腕の中に閉じ込められた。



「ひゃ……!?」


「うわ、冷た。頭に雪ついてるし。外寒かったでしょ、遅くまでお疲れ様」


「え、あ……う、うん……お疲れ様……」



 きゅうっと胸が狭まり、寸前まで出かけていた文句もついつい飲み込んでしまう。風呂上がりでほかほかと火照っている綾人くんの体。私は素直に身を預け、じんわりと染みる彼の温度を肌に刻み込む。


 あれ、なんで私、さっきまで彼に文句を言おうとしてたんだっけ。なんかどうでもよくなっちゃった。



「……結衣、顔真っ赤。心臓ばくばくしてる」


「あ、えと……さ、寒かったせいだよ……」


「ふーん? 俺の事が好きだからじゃなくて? 俺は結衣が好きすぎて、同じぐらい心臓ばくばくしてるのに」



 にんまり、楽しげに綾人くんは口角を上げた。私は更に頬を火照らせ、彼の腕の中で身じろぐ。


 あの日、非常階段で、無事に記憶を取り戻した綾人くんと結ばれてから早数ヶ月。


 付き合い始めた事で何かが吹っ切れたらしい彼は、事ある毎に私への愛をストレートに囁くようになってしまっていた。

 それはもう、こちらの心臓が破裂しそうになるぐらい、毎日。



「……好き。ほんと可愛い、結衣」



 綾人くんはやがて私を壁際に押し付け、頬や首筋に口付けながらしつこく耳元で愛を紡ぐ。その度に頬が熱くなってしまうのをどうにかしたいのだが、まだしばらくは慣れそうにない。



「愛してるよ、結衣」


「……っ、あ、綾人くん……」


「結衣も言ってよ。いつも俺ばっか」



 こつりと額を押し当て、私を見つめる茶色い瞳。自分こそ以前は全然言ってくれなかったくせに、と脳内だけで反論しながら、私は汗ばむ両手を握り合わせた。



「す、好き……」


「……それだけ?」


「…………大好き」



 消え去りそうなほど小さな声で告げて、ほんの少しだけ反撃をしようとかかとを上げる。


 たった一瞬掠め取るつもりで、彼の唇に触れた私。しかしまるで待ち構えていたかのように、彼は私の頭を押さえ付けるとたちまち舌を割り入れて深く口付け始めてしまった。



「っ……ん……!」



 まんまとカウンターを食らい、弱い背中までなぞられて思わず上擦ったが漏れる。

 綾人くんは暫く私の唇を啄んで味わった後、楽しげに目尻を緩めながら私を抱き締めて耳元に唇を寄せる。



「……ベッド行こ、結衣」



 色香を含ませた声が囁き、早鐘を打つ心臓。私は視線を泳がせた。



「……ま、まだ、お風呂入ってない……」


「やだ、待てない。今すぐ結衣が欲しい」


「そ、そんな……」


「だめ……?」



 綾人くんは少し顔を離し、捨てられた子犬さながらの表情で見つめてくる。この顔にめっぽう弱い私は、うぐ……とたじろいで目を逸らした。


 程なくして触れるだけの口付けを再び繰り返され、「お願い」「ちゃんと気持ちよくするから」と強請ねだる彼の誘導に揺らぐ。



「結衣、好き。愛してる」


「……っ」


「……抱きたい」



 何度も唇を啄まれて、甘い言葉を囁かれて。

 とうとう追い詰められ、白旗を上げそうになった私だったが──その時。


 ふと、視界の端にテレビのリモコンが映り込んだ。


 刹那、私はハッと我に返って目を見張る。



「──だめ!!」


「……えっ?」



 すかさず声を張り上げ、綾人くんの胸を押し返した。おそらくこのまま確実にイケると思い込んでいたであろう彼は、途端に表情を引きつらせる。

 それでも私は緩まった彼の拘束を素早く脱し、テレビのリモコンを手に取るとすぐさま電源を入れた。


 チャンネルを操作して歌番組に切り替えれば、丁度いいタイミングで雷蔵くんの出番が訪れる。



「よ、よかった……間に合った……!」


「は!? ちょ、ちょっと待った!!」



 しかし、途端に綾人くんは焦った表情で私に掴みかかった。更にはリモコンまで奪われそうになり、私は「え!? ちょっと何するの!」と抗ってそれを死守する。



「や、やめてよ! 雷蔵くんが歌うんだよ!? ちゃんと見ないと……あ、録画もしとこ。えーと……」


「待って待ってほんとに勘弁して!! なんで雷蔵が出るの知ってんの!? 内緒にしてたのに!!」


「佐伯くんに教えて貰って……」


「うわ、アイツか……! くっそ、言うんじゃなかった……! あの、ほんとに待ってください……マジで聴かないで……これ、黒歴史なんだよ、俺の……」


「何で? 良い曲だったのに」


「は!? あれ聴いたの!?」



 顔を青ざめたり、赤らめたり。忙しない様子の綾人くんに首を傾げ、「うん、雷蔵くんが動画見せてくれて……」と正直に告げれば、ついに彼は顔を真っ赤に染めて頭を抱えた。



「……うそ……最っ悪……雷蔵のバカ……」


「あの曲の作詞、綾人くんなんでしょ? この前聴いた時はあんまり歌詞までゆっくり見れなかったから、今日は歌詞をじっくり見ようかなって」


「無理無理、ほんとに無理! やめてください、マジで絶対だめ! はい連行!」


「あっ! ちょっと何するのよ!」



 リモコンが奪えないならと強硬手段に出た彼は、私を抱き上げて寝室へと強引に運び始めてしまった。


 じたばたと暴れながら「降ろしてよー!」「綾人くんのばかー!」と叫ぶ私は、結局彼によってテレビの前から強制退場させられてしまったわけだが──付けっぱなしのテレビの中からは、番組MCと雷蔵くんが会話する声がなんとなく聞こえていた。



『──今夜ライムライトさんに披露していただく曲は、数年前に映像担当のAYATOさんが作詞されたんですよね。なんでも中学時代の初恋の人を思って歌詞を書いたとか』


『あー、そうなんすよ! 作詞のアヤヤがずーっと引きずってた、実らなかった初恋の事を〝不良品レモン〟 って言ってて。そこから着想を得て作った曲っすね』


『なるほど、実らなかった初恋ですか~。いいですね、青春! 甘酸っぱくてほろ苦い恋心を歌った一曲なんですね』


『そーです! まあ、今はもうアイツらは〝レモネード〟なんすけど……っと、そろそろ時間かいな。ってわけで、今夜はそんなラブソングを歌いまっす!』


『はい。それではRAIZOさん、スタンバイよろしくお願いします』


『はーい!』



 雷蔵くんの気さくな返事を耳が拾い上げた頃、綾人くんは私をベッドに押し倒して再び唇を塞いだ。よっぽど歌を聴かれたくないのか、他の事など考えられないほどに荒々しく貪られた。

 熱い吐息を繰り返す狭間で、私は握りっぱなしだったリモコンをついに手放す。


 ことん、真新しいカーペットの上に落ちたリモコン。

 ごめんね、雷蔵くん。どうやら君の勇姿は、恥ずかしがり屋な彼のせいで見てあげられそうにないや。


 そう密やかに謝りながら、綾人くんからの深い口付けに応えるように舌を絡ませ、私は彼の背中に腕を回す。


 付けっぱなしにしているリビングのテレビからは、程なくしてまた雷蔵くんの声が聞こえてきた。



『はじめまして、ライムライトRAIZOです! 今夜は、〝元・不良品〟の友人達に捧げる淡い初恋の曲を歌わせて頂きます。それでは聴いてください、ライムライトのテレビ初披露曲──』



『──シュガーレス・レモネード』



 部屋の片隅にある引き出しの中には、いつもの飴玉と檸檬色の第二ボタンが、大事に収められている。




 END.

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る