第8話 イコールじゃない

 佐伯くんの強引な誘導に従い、武藤くんまで巻き込んだ三人で入店したのは、ビル街の地下にあるこじんまりとしたイタリアンバルだった。


 若者で賑わう店内に足を踏み入れ、最奥の半個室席へと案内された私達。やがてミックスナッツと共に二千五百円のボトルワインを注文し、佐伯くんが中心となって乾杯の挨拶を交わしたのちに、それぞれがグラスに口を付けたのだが──。



「何で寝ちゃうのよ、佐伯くん……」


「ぐー」



 飲食開始から約三十分。ハイペースでワインを飲み進めていた佐伯くんは、最初こそクライアントの愚痴をマシンガンのごとく喋り倒していたのだが、その威勢も長くは続かず。


 ワインボトルの三分の二程度までを一人で飲み干し、テーブルに肘をついたところで、ついに佐伯くんのスイッチは切れてしまった。先程までの喧しさがどこへやら、今では幸せそうな顔で瞼を閉じて眠ってしまっている。


 私はほとほと呆れるばかりで、小皿のカシューナッツを口に運びながらワイングラスに口をつけた。あまり得意でない赤ワインをちびちびと喉に流し込み、同じく無言でグラスに口をつけている正面の武藤くんへと視線を移す。


 元々お喋りなイメージはないけれど、今日の武藤くんは殊更ことさら口数が少ない。無理矢理巻き込んだ形だったし、実は怒っているのかも。


 私はグラスを置き、おずおずと謝罪を口にする。



「あの……ごめん、武藤くん……強引に巻き込んだ挙句、愚痴聞かせて振り回しちゃって……本当に申し訳ないです……」


「別に。気にしてない。そいつの奢りだしいいんじゃん? タダ酒飲んで帰るわ」


「……う、うん」



 気にしてないとは言いつつも、どこか突き放すような口振り。私はたじろいで両手を握り合わせ、やっぱりちょっと機嫌よくないのかな……と視線を泳がせた。


 自身のグラスに注がれていたワインを飲み干した武藤くんは、ボトルを手に取ると再び自身のグラスにとぷとぷと中身を注ぎ入れる。顔色ひとつ変えずに飲み進める彼を一瞥し、お酒強いんだなあ、と密かに感心していた。



「……残り少ないけど、六藤さんも飲む?」



 ふと、目も合わさずに問い掛けられて我に返る。私は強引に笑顔を作り、首を横に振った。



「あっ……う、ううん! 私は大丈夫! あんまりワイン好きじゃないし、お酒自体もそんなに強くなくて……だから気にしな──」


「──じゃあ何で来たんだよ」



 ぴしゃり。刺すように放たれた冷ややかな一言が、私の胸を貫いて息を呑む。「え……」と硬直しながら声を絞り出す私に、彼は続けた。



「自分が酒弱いの分かってて、何でワイン飲みに来たのって聞いてんの。あのまま帰ればよかったじゃん」


「……あ……えっと……」


「つーか何、佐伯さんと付き合ってんの? この前打ち合わせに行った時も仲良さそうにしてたけど」


「え!? つ、付き合ってないよ!」


「じゃあ、一方的に佐伯さんの事好きとか? 恋愛はもう苦手じゃないんだったっけ、六藤さん。さすがです。デートの邪魔してごめんなさい、頑張ってね応援してる」



 小さな棘を孕んだ投げやりな言葉がちくちくと私の胸を刺し、握り込んだ両手に汗が滲む。武藤くんは視線を合わせず、ただ無表情にワインを飲み進めていた。


 彼の中で生まれている誤解が、なぜかすごく嫌だと感じる。そんな勘違いしないで欲しい。簡単に「応援してる」とか言わないで欲しい。

 だって私は──と何かを口走りそうになって、しかしその続きを紡ぐ事を躊躇った。


 結局、弱々しく口にしたのは何の面白みもない言葉。



「……違うよ……佐伯くんの事は、何とも思ってない……。二人きりで飲んだのも、今日が初めてだし……」


「ふーん」



 案の定、彼は興味なさげに相槌を打っただけだった。

 気まずさから俯く私を差し置いて、こくり、武藤くんはグラスの中身を嚥下する。


 すると彼は不意に立ち上がり、突として空いていた私の隣のソファ席へと腰掛けた。その表情は相変わらず動かないままで、感情が全く読み取れない。



「……? 武藤くん?」


「六藤さんってさ、学習能力ないの?」


「え……」


「ちょっと前に、二人きりで酒飲んで俺にホテル連れ込まれたの忘れた?」



 囁き、つうと彼の指先が私の太ももを撫でる。私は驚いて目を見張ったが、彼の言葉は止まらない。



佐伯コイツが俺と同じような考えしたクズだったらどうすんの? さっき俺と会ってなかったら今頃同じようにホテルに連れ込まれて裸になってたかもよ? このまま酔わされて抱かれるかもとか考えないわけ?」


「な……!? さ、佐伯くんはそんな事しないよ! ただの同期だし、私の事なんて何とも思ってないだろうし……っ」


「何とも思ってなくても抱けるんだよ、男は。性欲と恋愛感情は



 冷淡に告げ、武藤くんは私に迫る。

 性欲と恋愛感情はイコールじゃない──その発言に、胸が強く締め付けられた。


 それはつまり、この前武藤くんが私を抱いたのも、特に深い意味などないという事なのだろうか。


 そう分析している間にも武藤くんとの距離は詰まり、やがて顎に手を添えられる。くいっと顔を上向うわむかされたと同時に端正な顔が近付き、私はようやく彼の動向を理解した。



「……! む、武藤くん、待っ──」



 言い切る前に、塞がれた唇。いつもなら飴玉を噛んでからしか始まらないその口付け。

 あまりに唐突で完全に油断してしまっていた私は、まんまとそれを奪われて八つ当たりでもするかのように荒々しく貪られる。弱い背中も指の先でなぞられて、思わず高い声を発しそうになったが寸前で何とか飲み込んだ。


 奥まった半個室の席とは言え、ここは完全に仕切られた空間ではない。誰かが通れば間違いなく見られてしまう。

 それに、目の前では佐伯くんが眠っているのだ。もし目を覚ましたら、それこそ言い逃れなど出来るはずもない。


 どうしよう、やめさせなくちゃ──と、頭では分かっている。分かっているのだが、どうしても強く抵抗出来なかった。


 ぞくぞくとした痺れが、背筋にまとわりついて私から正常な思考を奪う。



「……何? 意外と乗り気? てっきり抵抗してくると思ったんだけど」



 下唇を食まれながら問いかけられ、私は何も言えずに視線を逸らした。視界に入った佐伯くんの瞳はまだ閉じられたままで、通路に人が通る気配もない。


 すると顎に添えられていた手に力が篭もり、再び唇が重なった。



「……!」


「アイツの事、チラチラ見んなよ」


「や……武藤く……っ」



 するりとシャツの中に手のひらが滑り込み、素肌の上を長い指が滑る。「アイツの事見たら、その度にもっと触るから」と意地の悪い言葉を吐く彼に漏れかけた声を飲み込んで、私は緊張を和らげようと握り締めた自身の両手に力を込めた。


 徐々に位置を上げて素肌に触れられ、武藤くんの唇も私の首や鎖骨に何度も口付け始める。どうしよう、私、さっき焼肉屋さんに居たから絶対煙くさいのに……と別の心配をし始めた頃、彼の吐息が耳にかかって体が震えた。



「あ……っ」


「……ねえ」


「……っ」


「このの続き、したい?」



 耳の輪郭を軽く食まれながら問いかけられ、私の心が揺れる。


 断るべきだ。それは分かってる。

 ただの〝練習〟という名目の口付けに絆されて、安易に体を重ねるべきではない。


 けれどここで断ったら、また何の連絡も来ずに彼のいない日々が過ぎていくのだろうか。ただの遊び相手のまま、全てが終わってしまうのだろうか。もう二度と、会う機会も、ないのだろうか。


 ──あの時みたいに。


 そう思うとなぜか目頭が熱くなって、私は揺らぐ胸の内を悟られぬよう目を伏せる。とくり、とくり、鼓動の音は早鐘を刻み、緊張を解すように自分の両手を握り合わせた。



「……武藤くん……」



 ああ、私は本当に、弱い女だ。



「……続き、して……」



 やがて小さく頷いて、からからに渇いた喉へと生唾を嚥下する。ポーカーフェイスを崩さぬまま、「分かった」とだけ短く答えた武藤くんは、私の手を引いて席を立ったのだった。


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