第9話 嫌いだった檸檬味

 酔いつぶれた佐伯くんを叩き起してタクシーに詰め込み、武藤くんと共に夜の街を歩き出した私。


 てっきりそのままホテルへ向かうのだろうと思っていたのだが、予想に反して彼はコンビニに向かい、そこで購入したレモンサイダーとリンゴジュースを持って公園のベンチに腰を下ろした。


 きょとんとしている私にリンゴジュースを差し出した彼は、サイダーの飲み口に唇をつけて中身を喉に流し込む。しゅわしゅわ、弾ける炭酸の泡。特に何も言わない武藤くんの横で困惑しつつ、私もちびりとリンゴジュースに口をつけた。



「……あ、あの、武藤くん……続き、するんじゃ……?」


「そんなに早くセックスしたかった?」


「セッ!? ち、違う! 別にそういうんじゃない!」


「くくっ、反応があからさまでおもしろ」



 慌てて否定する私にくつくつと笑い、再びサイダーを嚥下する彼。あ、やっと笑った……と暫し惚けていれば、不意に武藤くんと視線が交わる。



「何? レモンサイダー飲む?」


「えっ……! あ、いや……大丈夫、リンゴで……」


「そうだよね。六藤さん、だったもんね。檸檬なんか」



 淡々とこぼれ落ちた言葉。私は「え……」と彼に視線を戻すが、今度は交わる前に逸らされてしまった。



「中学の時。嫌いだったでしょ」


「……!」


「でも、今は嫌いじゃないんだね。ハイボールにはカットレモン入れてたし、カラオケではレモンサワー頼んでたし」



 どこか投げやりな彼の言葉に、私はきゅっとリンゴジュースのペットボトルを握る。否定は、出来ない。彼の発言は概ね事実だったから。


 私は元々、檸檬の味が苦手だった。あの強い酸味がどうにも受け付けられなかったのだ。


 だから檸檬の飴玉も、その味が残る武藤くんの唇も、最初はあまり好きになれなくて。けれど、それを直接彼に伝えたような記憶はついぞない。


 武藤くん、どうして私が檸檬苦手だった事を知ってるんだろう。


 そう考えてふと、私の脳裏には中学生の頃の自分が発した言葉が蘇った。



『──私、檸檬なんか好きじゃないから……!』



 ……あれ?


 私、こんな事、どこで誰に言ったんだっけ?



「俺、結構ショックだった」


「!」


「あの時、檸檬なんか好きじゃないって言われて。別に俺が否定されたわけじゃないのに、めちゃくちゃ鈍器で頭ぶん殴られた感覚っつーか」



 遠くを見つめ、武藤くんはぽつぽつと語る。彼にそんな発言をした記憶は皆無だが、私が覚えていないだけで実は告げた事があるのかもしれない。


 なぜそんな事を今更蒸し返して来るのかも分からないけれど、私は慌てて「ご、ごめん!」と謝り、目を泳がせながら続けた。



「私、えっと、昔から酸っぱい食べ物、あんまり得意じゃなくて……! だからあの頃、檸檬もちょっと苦手だったの……」


「……」


「でも別に、武藤くんの事を否定したんじゃないよ! 武藤くんの事は嫌いとかじゃなかったから! ほんとに!」



 誤解されていては困ると危ぶみ、私は必死に弁明する。武藤くんは暫く黙り込んでいたが、ややあってその表情が曇った。目を合わせない彼は、程なくして再び口を開く。



「……嘘ばっか。全否定してただろ」


「……え……」


「あの時、全否定してたんだよ、六藤さん。なのに何で今さら嫌いじゃなかったとか言うの」


「む、武藤くん……?」


「……じゃあ俺は、あの時どうして──」



 彼が何かを言いかけたその時、ヴーーッ、と不意に私のスマホが震える。「あ、ごめん、電話……」と断りを入れて画面を見れば、相手は佐伯くんだった。


 すぐにスマホを耳に当て、彼の名を何気なく口にする。



「……もしもし、佐伯くん? どうしたの?」



 途端にぴくりと反応した武藤くんの視線は、ゆっくりと私へ注がれた。



『……ごめん六藤。いま家ついた』


「あ、良かった。ちゃんと帰れたんだ」


『うわーー、マジごめん、なんか色々迷惑かけた気がする……六藤、ちゃんと帰れた? 大丈夫?』


「ふふ、別にいいよ。私なら大丈──ひゃあっ!?」


『え?』



 直後。突としてシャツの中に滑り込んできた冷たい手が、私の素肌に触れる。

 思わず素っ頓狂な声を上げてしまい、佐伯くんは『どうした? 大丈夫?』と声をかけてきた。


 一方で、シャツの中に手を突っ込んでいる武藤くんは私にぴたりと密着し、その表情が見えない。



「……っ、ちょ、ちょっと……!」


『六藤? マジで大丈夫? 何かあったん?』


「え、あ、ううん! その……む、虫がいて、びっくりして……!」



 苦しい言い訳を並べ立てている間にも、服の中では武藤くんの手が動き続ける。不埒な指先はそろりと肌をなぞり、更には顔を首筋に埋めてきて押し付けられた唇が軽くリップ音を奏でた。


 夜の公園の人影は疎ら。遠くのベンチにカップルが一組座っていて、少し離れた別のベンチでは酔っ払ったオジサンが横たわっている。

 あとは公衆トイレの近くで青年がサッカーボールを巧みに操ってリフティングの練習をしている程度で、他に人影は見当たらない。


 幸い誰も武藤くんの行動に気が付いていないようだったが、いつバレてもおかしくない状況だ。現に、この場にいない佐伯くんは既に私の事を訝しんでいる。



「……っ、ご、ごめん、佐伯くん……ちょっと、虫の退治するから、切るね!」


『え? あ、うん……大丈夫か? 大変そうならお前ん家行くけど』


「え!? い、いや、ウチには来なくて大丈夫だよ! また来週、会社で! それじゃ!」



 ブツッ──。


 強引に捲し立てて画面をタップし、『通話終了』の表示を確認してから服の中でうごめく武藤くんの手を制した。「む、武藤くん! 何するのよ!」と叱咤しつつベンチの端へ逃げようとするが、彼の拘束は固く、なかなか離れてくれない。


 それどころか素肌を滑る指先は位置を上げ、「誰が虫だよ」と不服を告げる彼がまるで果物の皮でも剥くかのように容易く下着の布をずらしてしまう。布擦れの刺激に肩を震わせ、熱の篭った吐息を噛み殺した私は潤む瞳を彼へと向けた。



「……っ、武藤くん……!」


「……ねえ。佐伯さんって、六藤さん家に来た事あんの?」


「え……?」


「今、あの人に家まで来ようかって言われたんでしょ。六藤さんの家知ってるって事じゃん」



 低くこぼれる声が耳元で言葉を紡ぎ、赤く染まってしまっているであろう耳たぶに口付けられる。私はきゅうと両手を握り締め、ふるふると首を振った。



「違っ……車で、家の前まで送ってもらった事あるだけで……!」


「……中には入れた事ないの?」


「ないよ! ただの同僚だし……!」


「俺は?」



 耳元に寄せられていた顔は私の正面に移動し、至近距離でアーモンド色の瞳がじっと見つめる。私は息をのみ、視線を泳がせて口を噤んだ。



「……俺も、ただの他人?」



 続けて問われ、素肌の上を伝っていた手が離れる。握り込んでいた私の手を包み込み、「緊張しすぎ」という言葉と共に解かれたそれは、私の指先のひとつひとつに優しく触れた。


 そんな何気ない接触ですら、今の私には甘い毒でしかない。どきどきと心拍数は上がるばかりで、節くれだつ指先に触れられた箇所が熱を帯びる。



「……ねえ、六藤さん」


「……」


「俺、ちょっと酔いが回ってきたみたい」



 囁き、密着する体。風や空気は冷たいのに、火照りっぱなしの顔からは今にも火が出そうだ。



「……六藤さん家、連れて帰ってよ」



 消え去りそうな声で紡ぎ、頬をすり寄せた彼に息を呑む。


 どうせ、彼の目的は『練習』だ。都合のいい女だと思われているんだ。

 深い意味なんてきっとない。期待してはいけない。


 そう分かっているのに、絡んだ指先から伝わる熱にどこか安堵して、都合のいい想像を膨らませて──あるはずもない感情を、期待してしまう。


 私達の関係は無糖シュガーレスのまま、甘さなんて一切ないはずなのに。



(酔いが回ったなんて、嘘ばっかり……)



 透明なレモンサイダーの微炭酸は、彼の握るペットボトルの中で、ぱちぱちと静かに弾け続けていた。

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