第10話 溺れるみたいな夜の月

 公園を出てバスを乗り継ぎ、歩き慣れた帰路を進む。普段一人で歩くこの道を誰かと並んで歩くなんて、なんだか変な感覚だ。


 やがて辿り着いたアパートの階段を上がり、ドアに鍵を差し込めば「え、オートロックじゃないの?」と隣の彼に眉を顰められた。



「一人暮らしでしょ? この辺の道暗いし、アパートの一階でオートロックも無しとか……危なくない? わりとガチで」


「え、危ないかな……安いからここでいいやと思って、バタバタ引っ越したから深く考えてなかったけど……」


「……俺的にはちょっと心配」



 表情を曇らせ、武藤くんは私に身を寄せる。「六藤さんって、変な男に好かれそうだし」と付け加えた彼に苦笑しつつ、私は鍵を解錠した。おそらく先日の合コンで絡まれていたからそう思ったのだろう。



「それ、この前だけだよ。普段は絡まれたりしないし……私の事なんて誰も気にしないもん」


「……」


「あ、どうぞ。我が家です。あんまり何もない部屋だけど……」



 玄関の扉を開け、武藤くんを部屋に招き入れる。電気を付ければ、やはりいつもと変わらない私の部屋が出迎えてくれた。

 シューズボックスの上に置かれたカゴに鍵をしまい、パンプスを脱いでスリッパに足を通す。続いて、武藤くんも「お邪魔します」とスニーカーを脱いだ。



「リビングのソファに座ってて。私、ちょっとシャワー浴びて着替えたくて……その、焼肉行ったから……」


「……ああ、焼肉だったんだ。なんか煙っぽい匂いするなと思ってた」


「う……っ! て、テレビとか、好きに見てていいから! ちょっと待っててね!」



 改めて「煙くさかった」と告げられると羞恥心が増し、私はそそくさと着替えを用意して脱衣所へ逃げ込んだ。

 これまでにも何度か自分の部屋で異性と二人きりになる機会はあったが、武藤くんが部屋にいると考えると今までになく緊張してしまう。


 服を脱ぎ、浴室でシャワーの蛇口を捻る。サッと飛び出してきたお湯を頭から被り、お酒と煙の匂いがする体を洗い流して曇り始めた鏡を見つめれば、頬を染める自分と目が合った。


 ……今から、武藤くんと、しちゃうんだよね。


 そう考えて視線が泳ぐ。



(私、流されやすすぎ……)



 あれよあれよと理由をこじつけて、結局家まで連れてきてしまった。きゅう、と無意識に握り込んだ両手。心臓はどくどくと早鐘を打つ。


 ああ、私、今からまた武藤くんとそういう事をするんだ。彼と淫らな関係になる事をあれほど拒んでいたはずなのに、分かっていながら家に入れてしまった。


 都合のいい自分に嫌気が差しつつ、ボディーソープを適量泡立てていつもより入念に体を洗う。


 まとった泡のシトラスの香り。

 どこか私を咎めているような気さえするそれは、やがてお湯と共に排水口へと流れていった。




 * * *




 シャワーを浴び、着替えも終えた私は軽く深呼吸を繰り返し、出来うる限り平常心を装って脱衣所を出る。リビングの扉を恐る恐ると開ければ、ソファに腰掛けた武藤くんがスマホで動画を見ながら私を待っていた。



「おかえり。長かったね」


「あ……ご、ごめん! 待ちくたびれた……?」


「いや、別に」



 表情もなく告げた彼はスマホを伏せ、私の顔をじっと見つめる。「六藤さん、すっぴんだ」と続けた彼に、私は恥ずかしくなって顔を逸らした。



「……あんまり見ないで」


「何で? 別に違和感なくない? 元々そんなに化粧濃くなかったし」


「で、でも、やっぱり気になるというか……」


「あー、でも、確かにすっぴんの方が少し幼く見えるね。しかも中学ん時のジャージでしょ、それ。下に履いてるやつ」



 ──なんか、あの頃の六藤さん見てるみたい。


 そう続けられ、きゅっと胸の奥が狭くなる。

 正直、少し狙ってこれを履いた。共通の思い出は中学までで止まっているから、少しは話題のきっかけになればいいなと思って。


 だが、そんなこと口が裂けても言えない。



「わ、私、あの頃とあんまり体型変わらないから……今でも履いてるの」


「あー、そうなんだ。俺、高校でだいぶ身長伸びたからもう履けなくなった」


「あ……中学の時、武藤くん小さかったもんね」


「……は? 小さくないし」



 顔を顰めて拗ねたようにこぼし、武藤くんは背もたれに体重を預けて不服げに首元を掻く。その反応がなんだか新鮮で、彼の横に腰を下ろした私は小さく微笑みながら言葉を続けた。



「私と身長同じぐらいだったのにね、武藤くん」


「……そーだっけ? もっとデカくなかった?」


「ふふ、大きくはなかったと思うなあ。手の大きさも私と同じぐらいで、身長も高くなくて、顔も童顔で……どちらかと言うと可愛かったよね。覚えてる」


「……可愛いって言われても、なんか複雑なんだけど」



 思わずくすりと笑ったと同時に腰を抱かれ、ぐっ、と強く引き寄せられる。一瞬で息を呑めば、「こんな本能剥き出しの男、どこが可愛いわけ」と彼は不満げに囁き、私の肩口に唇を押し付けた。


 続けて腰元に回されていた手が肌の上を滑り、胸元へと上がってくる。服の上から膨らみを捉え、やんわりと包み込まれて肩が震えた。



「……っ」


「……六藤さんこそ、体型変わってないとか言ってるけどそんな事ないよ。明らかに成長したでしょ、ここ」


「む、武藤くん……手……!」


「脚とかは、昔からすごい綺麗だったよね。陸上部だったのにそんなに筋肉質じゃなくて、スラッと長くてさ。短い髪の後ろからチラチラ見えるうなじとか、水飲んでる時に水滴が唇からこぼれて喉元に流れていくのとか……ずっとエロいなと思いながら見てた。そんなもんだよ、男子中学生って」



 ──ほら、全然可愛くないじゃん?


 囁き、片手でやんわりと胸を揉みしだく武藤くん。続いて空いた手が上着のファスナーを下ろしていく。

 やがてファスナーを全て開け放った彼は、私をソファに押し倒すと着ていたシャツを捲り始めた。



「ま、待って……!」


「やだ。もう何年も待った」


「あ……!」


「俺が今まで、どんな思いで六藤さんのこと引きずってたと思ってんの。……もう待てねえよ」



 やや粗暴に吐き捨て、背中に回された彼の手が下着の留め具を容易く外す。私は困惑し、揺らぐ視界の中に彼を映した。


 引きずってた? 何年も待った?

 待って、どういう事?



「……っ、武藤、くん……」


「何」


「これ、ただの……練習、なんだよね……?」



 首元に口付けられ、素肌の上を伝う指先。甘い痺れが背筋を波立たせて吐息に熱が籠る中、問いかけた私に顔をもたげた武藤くんが目を細める。



「そうだよ、練習」


「……」


、ね」



 色香を帯びた声が紡がれ、つうと背中に指が這った。思わず上擦った声がこぼれた私の耳元では何らかの包装を噛み破る音が響き、潤んだ瞳を薄く開けば黄色い飴玉を口に咥えた武藤くんと視線が交わる。


 ころり、口内に消えた飴玉。すぐに噛み砕かれ、同時に唇が重なる。

 舌に広がる檸檬味を嚥下して、無骨な指先が胸や背中に触れて。ぞくりと肌が粟立つ感覚に、細めた瞳を覆う睫毛まつげが震えた。


 息を吸っても、吐いても。君の檸檬の香りが、ずっと鼻腔にまとわりついて離れない。

 消える証明、軋むソファ。揺らめくカーテンの隙間からは中途半端に丸みを帯びた半月はんげつの明かりが漏れている。


 ああ──まるで深い酸味の中に溺れるみたいだ。



「……顔、真っ赤。手もすごい握り込んでるし……緊張してる?」


「……す、こし、だけ……」


「大丈夫、優しくするから。少し力抜いてて」



 ──結衣。


 下の名前を耳元で囁かれ、節くれだつ手が次々と衣服を剥ぎ取る。


 素肌に直接触れられて、檸檬の残り香が鼻先を掠めた頃──しなう背中に回された手は、溺死しそうな私の身体を優しく掬い上げた。

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