第11話 うそつき

 ──十年前。


 私と武藤くんの『キスだけ』の関係は、中学の卒業と共に終わりを迎えた。しかし卒業式当日、私達が互いに言葉を交わす事は一度もなかったのだった。


 第二ボタンがどうだとか、好きな人の連絡先がどうだとか──涙と笑顔を浮かべて周囲が盛り上がる中、私は檸檬の香りをまとう彼を探したけれど、いつまで経っても見つからない。


 結局あの日、私と武藤くんの関係は「さようなら」の一言もなく終わったのだ。卒業後はそれぞれ別の高校に進学したため、それ以降は互いに顔を合わせる機会もぱったりとなくなってしまった。


 けれど、高校に入学してしばらく経ったある日。私は偶然にも、街の中で武藤くんの姿を発見する。



『……あ……』



 中学時代よりも背が伸び、大人びた横顔。人々が行き交う中で視線は勝手に彼を捉え、釘付けになったまま動かない。


 武藤くんだ、と理解した途端に中学時代の記憶が蘇り、無意識に足を止めていた。手元の携帯を見つめ、繋げたイヤホンで音楽を聴く立ち姿。久しぶりに見たその姿に胸が締め付けられ、時間が一瞬止まったような気がした。


 私の存在には気が付いていないらしく、声をかけるべきか些か躊躇う。しかしやがて私は意を決し、からからに渇いた喉から声を絞り出した。


 ぴりりと広がる、その檸檬色の感情の名前を、どうしても確かめたくて。



『……っ、む、武藤く──』


『──ごめん綾人くんっ! 待った?』



 だが、直後。私の発しかけた言葉を遮り、響いたのはソプラノの可愛らしい声。その場に現れた見知らぬ女の子は武藤くんの腕に絡み付き、密着して微笑む。


 私は口にしかけた彼の名前を飲み込み、踏み出し始めていた足を止めた。



『ううん。別に。待ってない』


『ほんと? じゃあ行こ! ねえねえ、今日ウチくる? 親いないから何してもいいよ?』


『あー……うん。いいよ』



 耳を塞ぎたくなるような会話を繰り返し、私に気付く様子もなく離れていく武藤くん。人混みの中ですれ違い、知らない女の子と共に遠ざかる背中。


 その後ろ姿を視界に捉えた瞬間、胸の奥の何かがすっと冷えて凍り付いていく感覚を覚えた。同時に、中学時代の彼の言葉が脳裏を過ぎる。



 ──俺さ、あんまり恋愛ってどんな感じなのか分かんなくて。


 ──人を好きになった事ないの、俺。だから好きって感覚がよくわかんない。



 未完成のまま色を失っていく檸檬色の何かを、私はくしゃりと握り潰した。



『……うそつき』



 どこか裏切られた気持ちが拭いきれず、声もかけずにその場を立ち去る。抱えた感情は不良品。このまま二度と色付かない。


 最初から、愛なんてなかった。

 名前だって必要なかった。

 私達の関係にも、あの檸檬色の感情にも。


 無糖同士の恋愛ごっこは苦いばかりで、いつまでもシュガーレス。甘い言葉や感情なんてこれっぽっちも存在していなかったんだ。


 それから数年、武藤くんとは一度も会う事はなく、私は恋愛そのものと向き合う事をやめた。成人式の同窓会だって、武藤くんに会うのが怖くて行くのをやめたぐらいだった。


 恋から目を背けて逃げたまま、過ぎ去る時間だけが刻々とその針を刻んでいき──そしてついに、あの日私達は、夜の街で望まぬ再会を果たしたのだ。




 * * *




 布擦れの音が耳に届き、私はくぐもった声と共に目を覚ました。さらりと髪を梳かす指先の感覚。「起きた?」と耳元で問われ、私は閉じていた瞼を持ち上げる。


 光を含み、風にそよぐ白いカーテン。見慣れた部屋の中だけれど、隣に寄り添うぬくもりだけがいつもと違う。


 あたたかいその人は私の頭を撫ぜ、腕の中に私を閉じ込めた状態で口を開いた。



「おはよ」


「……」


「まだ寝る? それとも起きる?」



 抱き寄せられ、霞む視界の中に映り込む端正な顔。私は寝ぼけた頭で状況の把握に努め、けれど触れる指先のぬくもりに安堵して無意識に頬を緩ませる。「何笑ってんの?」と問う声が楽しげに紡がれて、また強く抱き締められた。


 白いシーツは皺になり、密着する身体からは有り余るほど直接的な熱が伝わる。程なくして私の意識はようやく微睡まどろみの中から戻り始め、止まっていた思考も働き始めた。


 あれ、武藤くんの匂いがする。

 安心する声が聴こえる。

 ここにいるはずがないのに。



「……む、と……くん……」


「ん? 何?」


「……武藤くん……」



 つい恋しくて、ぬくもりに身を寄せながら名前を呼んだ。するとその呼びかけに応えるように唇が瞼に触れる。


 私、君に会いたかった。

 あの日、最後に君の声を聴きたかった。


 けれど、さようならも、また明日の言葉もないまま、君はいなくなってしまった。離れ離れになって、冷たく凍りついていく心だけを持て余して。


 不良品のまま捨てた感情が、再び僅かな色を帯びる。



「……置いて、いかないで……」



 無意識に声を紡ぎ出した、直後。

 ハッと我に返って徐々に冷静さを取り戻してきた頭がこの状況を飲み込み始めた。そして、頬はみるみると熱を帯びる。


 あれ? 私、今何て言った?


 ていうかそんな事より、私、いま武藤くんと一緒に寝て──。



「──ひっ……、きゃああああっ!?」


「いっ!?」



 ──ゴツッ!!


 驚いて上体を起こした刹那、鈍い音が響いたと同時に額には強烈な衝撃が走った。思わず頭を押さえて蹲るが、脳内はパニックでそれどころではない。


 昨晩、私達の間で何が起こったのか。

 一連の出来事がしっかりと理解出来る。今度こそは覚えている。


 夜の闇に飲まれた寝室の中、ベッドを軋ませながら沈み込んできた彼の熱も。優しく触れる指先も。甘いと錯覚するような口付けも。


 あ、だめだ。思い出すと心臓が爆発しそう。



「……っ、あ、う、む、武藤くん……っ」


「いってえ……いやいや、いきなり頭突きはなくない? タンコブ出来たかも」


「あ……っ、ご、ごめ……! でも、あの、昨日……っ」


「あれ……昨日の事、ちゃんと覚えてんだ? へー、良かった。また忘れたとか言われんのかと思ってた」



 悪戯に目尻を緩め、武藤くんは私を抱き締める。素肌同士で密着する身体はばくばくと心音を刻み続けており、触れ合うだけで全身から火が出そうだった。


 細いのに程よく引き締まった筋肉質な彼の腕が、私の身体を包み込んで引き寄せる。



「身体、きつくない? なんか色々と体勢変えたから、腰とか脚に負担かけたかも。ごめん」



 あ、待って。そんな事言わないで。思い出しちゃう。



「でも、すげー気持ちよさそうにしてたね、六藤さん。……可愛かった」



 あああ、本当にやめてください、お願いします! 恥ずかしさで死んじゃいそうなの! 本当に勘弁して!


 そう脳内で絶叫する私などお構い無しに、武藤くんは耳元で何度も甘い言葉を囁く。

 昨晩の記憶は次から次へと私の羞恥心を煽り、あられもない姿を彼に晒してしまった事に対して激しい後悔が胸の奥に渦巻いていた。


 ああ、どうしよう。

 ずっとされるがままだった気がする。

 ずっと気持ちよかった気がする。



「結衣」



 不意に名前を紡がれ、ただでさえうるさい心臓が大きく跳ねた。

 異性から下の名前で呼ばれた経験なんて今までほとんどない。慣れないむず痒さに、もはやどんな顔をするのが正解なのか分からなかった。



「こっち見て」


「……っ、む、無理だよ……恥ずかしくて……」


「こっち見ないとまた色々触るよ」


「ひゃ!?」



 腰に置かれていた手が肌の上を滑り、小ぶりな尻を包み込んで撫でる。もったいぶった手つきで焦れったく肌に触れられ、身じろいだ私を武藤くんは満足げに見下ろした。


 私は変な声が漏れないように唇を噛み、彼の胸を押し返す。



「ば、ばか! もう練習終わり! 離れて! 下の名前呼ぶのも禁止っ!」


「ケチだねー、六藤さん。いいじゃん、結衣って名前可愛くて好きなのに」


「か、からかわないでよ……!」


「からかってないけど……まあいいか。というわけで、次の〝練習〟の約束も取り付けていい?」



 くすりと微笑み、武藤くんは上機嫌に私の頬を撫でる。また体を重ねる予定を取り付けられるのだろうかと懸念しつつ顔を上げれば、彼は言葉を紡いだ。



「……今週か来週、一緒に出掛けよ」



 やがてそう口火を切った彼は、僅かに目尻を緩めて私の顔を覗き込む。「え……?」と思わず聞き返した私に、武藤くんは続けた。



「デートの練習。どうですか」


「……デート……?」


「そう、デート。俺と二人で出掛けるの嫌?」



 問い掛けられ、私はふるふると首を振る。「よかった」と安堵したように続けて、彼は私から目を逸らした。



「……六藤さんさ、俺がただのヤリモクでこの関係続けてると思ってるでしょ」


「……!」


「だから、俺に〝置いていかれる〟と思って、いつもビクビクしてんじゃないの」



 やや切なげに問い掛けた後、武藤くんは先ほど私が発した言葉に応えるかのように「置いていかないよ」と明言した。



「まあ、最初からスタートライン間違えた俺が何言っても説得力ないけど……絶対ヤリモクとかじゃない。これは本当。……それだけ、覚えといて」



 再び視線を私へ戻し、武藤くんは優しく頬に口付ける。そのままぎゅうっと私を抱き締めた彼は、「あー、仕事行きたくない……」と私の胸元に顔を埋めた。

 ぐりぐりと額を押し付け、まるで子供が甘えるみたいなその仕草があまりに意外で、私は一糸まとわぬ肌を毛布で隠しつつも黙って彼の行動を受け入れる。


 でも、武藤くんは嘘つきだ。

 私は遊ばれている。

 こんな事、他の女の子にだって言えるに決まってる。


 そう言い聞かせる胸の内で、「もしかして」と顔を出したのはあまりにもおこがましい期待。浮かんだ可能性をどんどん膨らませてしまうそれは、私の胸を踊らせて高鳴らせていくばかり。



「……ねえ、六藤さん」


「……」


「俺と、デート、行ってくれる?」



 どこか控えめに発せられたくぐもった声は、私に問いを投げ掛けた。とくり、とくり。鼓動はどんどん速まって、顔がみるみる熱くなる。


 変に期待しちゃいけない。分かっているのに、どうしても浮かんだ可能性が消えない。

 自惚れた勘違いをしそうになる心。絶対違う。違うのに。だってこの人は、私になんて興味がないのに。


 うそつき。うそつき。

 武藤くんのばか。ひどいひと。


 ……ねえ、でも、武藤くん。


 武藤くんって、本当は、もしかして──



(──私の事、好きだったり、する……?)



 チカチカ、光を含むカーテンの隙間から漏れる朝の日差し。

 君の檸檬色の髪の毛を撫でる優しい風が、絹糸さながらのそれをいつまでも煌めかせて、酷く眩しいと思った。

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