第2話 俺と恋愛の練習しない?
合コンから逃げ出し、夜の街へ溶けた私達。背後を気にしながら入り組んだ細道をしばらく駆け抜け、やがてカラオケの一室へと辿り着いた。
飛び込みで入ったために、通されたのはおそらく一人用だと思われる窮屈な個室。煙草の匂いで満ちた空間に眉を顰め、私はソファに腰を下ろす。
久しぶりの全力疾走によって乱れた呼吸を整えながら火照った頬を手で扇いでいれば、部屋の入口付近でエアコンの電源を入れた青年が口火を切った。
「飲み物、ワンドリンク頼まないといけないんだって。ビールでいい?」
「あっ……! あの、じゃあ……レモンサワーで……」
「了解」
顎を引いた彼はテキパキとエアコンの温度を調整し、電話の受話器を手に取ると「ビールとレモンサワー。お願いします」とフロントに注文を通した。
私は両手を落ち着きなく握り合わせ、徐々に冷静さを取り戻してきた頭で現在の状況に焦燥感を抱き始める。
助けてくれたのは感謝しているけれど──現状としては、年頃の男女が狭い密室に二人きり。
知らない男の人といきなり二人になるなんて、よく考えたら危ないような……と目を泳がせた頃、電話を終えた彼がフードメニューを手に取って振り向いた。
「……狭い個室で知らない男と二人っきりになって、大丈夫かなあ──とか思ってる? 六藤さん」
呼びかけられた名前。まるで私の心の中を読み上げたかのように、青年は言葉を紡いだ。
驚いて顔を上げ、「え……」と声を漏らせばフードメニューに視線を落とす彼がくすりと笑う。
「ウケる、何キョトンとしてんの。それにしても、急に走ったのにあんまり呼吸乱れてないのさすがだね。元陸部だし当然なのかな、高校とか大学でも陸上やってた?」
「……え? あ……う、ううん……。陸上は中学までで……あとは、趣味で近所のジョギングするぐらい……」
「あー、なるほど。でも、それは変わってないね。不安になったり緊張した時に、ずっと両手握り合わせる癖」
彼はメニューを見つめたまま顎をしゃくり、私の癖を指摘する。ハッと目を見張って手を膝の上へと戻した私に小さく笑った彼は、ずっと
さらり、流れる金の髪。すっと鼻筋の通った甘い顔立ちに、くっきり二重の茶色みがかった瞳。
視線が交わった瞬間、閉ざされていた私の記憶の蓋を檸檬の香りがこじ開ける。
「……っ!」
「久しぶり。中学卒業以来かな、ちゃんと会うの」
「
蘇った記憶の中でこちらを見つめる黒髪の少年の面影が、目の前の彼と綺麗に重なる。私が震える声で自分と同じ『ムトウ』の名を紡げば、彼──
「そ。全然気付かなかった? 俺はすぐ気付いたけど」
「あ……っ、ご、ごめん! 髪色明るいし、キャップ被ってたから、全然……」
「へー、そっか。六藤さんはあんま変わってないからすぐ分かったよ。変な男に言い寄られて大変そうだったから勢いで連れ出したけど、大丈夫だった? ごめんねいきなり走って。何か歌う? せっかくカラオケ来たし」
「え!? あ、いえ……! お気になさらず……」
手渡されたマイクとタブレットを断り、私はどきどきと忙しなく脈を刻み始めた胸をそっと押さえる。
武藤 綾人──中学三年の時、同じクラスだった同級生。
私の心の中を、今も痺れる酸味で縛り付けている人。
(どうしよう……こんなの想定してなかった……。どうして、よりによって武藤くんが……)
唇をきゅっと結び、膝の上で密かに両手を握った。同時に部屋の扉が叩かれ、注文していたお酒が運ばれてくる。
それらを「どーも」と受け取った武藤くんはレモンサワーを私の近くに置き、店員が出て行ったタイミングで自身もビールのジョッキを掴んだ。
「ま、とりあえず乾杯しよ。再会記念って事で」
「……っ、あ、う、うん……そうだね……」
予期せぬ人との再会に少なからず動揺した私だったが、へらりと笑ってごまかし、ジョッキグラスを控えめに彼のそれへと押し当てる。そのままこくこくと多めのレモンサワーを喉に流し込めば、あまりアルコールに強くない体がたちまち熱を帯びて火照った。
何か話題を作らないと、と強引に頭の中の引き出しをこじ開けて探り、私は笑顔と共に口を開く。
「あの……武藤くん、煙草は? 吸ったりする?」
「ううん。吸わない、大丈夫」
「そ、そっか!」
ぷつん。あっという間に途切れた会話。
やばい、何か話題を……と焦りが募る私とは対照的に、武藤くんは涼しげな表情でビールを嚥下している。
その横顔は中学時代よりも更に大人びて、元々整っていた容姿も一段とかっこよくなっていて。ついドキドキと心臓が早鐘を打ち鳴らし、私はまたお酒を多めに喉へと流し込む。
中学時代、同じ「ムトウ」という名前のせいで出席番号が同じだった私と武藤くん。日直やグループ分けの際など何かと接点が多く、先生やクラスメイトからはセットで認識されていて「ムトウコンビ」と呼ばれていた。
最初はただの〝コンビ〟の総称でしかなかった呼び名は、やがて「
付き合っているわけでもないのに『夫婦』というアダ名でからかわれる事が、当時中学生だった私にはあまりにも恥ずかしく、武藤くんにも申し訳なく思えていた。
だからわざと遠ざけて、出来る限り関わらないようにしていたのに。
中学時代の彼は、それを許してくれなかったのだ。
『ねえ、六藤さん。あのさ──』
西陽の差し込む廊下で向かい合ったあの日の言葉が、脳裏で鮮明にその色を取り戻し始める。
「──ねえ、六藤さん。聞いてる?」
と、その時。不意に近くで声がかけられ、私の意識を現実へと引き戻す。
ハッと顔を上げれば、至近距離にまで武藤くんの端正な顔が迫っていた。
私は思わず息を詰まらせ、「は、はい!!」と背筋を伸ばす。すると彼は呆れ顔で目を細めた。
「聞いてなかったでしょ」
「あ……ご、ごめん! ちょっと、ぼーっとして……」
「大丈夫? あんま酒強くないんじゃないの。さっきから随分ハイペースでそれ飲んでるけど、めちゃくちゃ顔赤くなってるし」
「あ、あはは……うーん、ちょっと酔ってるのかも……。でも、大丈夫だよ。これくらい」
にこりと笑い、再びレモンサワーに口をつける。すると武藤くんは一瞬黙り込み、「俺さ、」と口火を切った。
「さっき、六藤さんの事変わってないって言ったけど、やっぱ訂正するわ。……六藤さん、変わったよ」
「……え? そ、そう?」
「うん。俺の知ってる六藤さんは、そんなの好んで飲む人じゃなかった」
そう言い、武藤くんは私の手からグラスを奪う。積まれた氷がからんと崩れた音で、私は彼の言葉の意味を理解して息を呑んだ。
彼の言う『そんなの』が示しているものというのは、きっとお酒の事ではない。
彼の髪と同じ色の、痺れる酸味。
「……嫌いって言ってたじゃん。あの時」
「あ……む、武藤く……」
「じゃあコレも、今なら好きなわけ?」
矢継ぎ早に問い掛け、私へと迫った武藤くんが透明な包み紙にくるまれた飴玉を取り出して見せ付ける。私は今度こそ熱を帯びた頬を紅潮させ、視線を泳がせながら声を詰まらせた。
彼が取り出したのは、檸檬味の飴玉が入った包み紙。それをゆっくりと開いた武藤くんが自身の口内へと飴玉を放り込めば、ふわりと懐かしい香りが鼻先をくすぐる。
思い出すのは、中学時代の放課後。
部活動に励む後輩達の声が耳に届く中、夕焼けのオレンジに染まっていく、誰もいない非常階段。
檸檬の香りが鼻腔に入り込み、互いの
君が檸檬の飴玉を噛み砕いたら、それが始まる合図だという事も。
「……また、俺とキスする? 六藤さん」
問いかける声に、まともな返事は出来なかった。否定も肯定もせず黙り込んでいる間に、彼は奥歯で飴玉を噛み砕く。
あまり得意ではないアルコール。喉から流し込んだそれは、頭の中を濁らせて、掠めて歪めて滲ませて、少しずつ融解した思考が私の理性を奪っていく。
気が付けば、柔い唇が私のそれを塞いでいた。ゆっくりと慎重に
『ねえ、六藤さん。あのさ──』
十年前。中学三年の秋。
武藤くんは西陽の差し込む放課後の廊下で、私をまっすぐと見つめてこんな言葉を告げた。
『──俺と、恋愛の練習しない?』
同じクラス。同じ十五歳。同じ名前。
シュガーレス夫婦とからかわれた〝
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