シュガーレス・レモネード
umekob.(梅野小吹)
第1話 君と夜の逃避行
放課後、部活動に励む後輩達の活気ある声、空に伸びる飛行機雲。
オレンジ色に染まる非常階段の踊り場で、檸檬の香りを
もう何年も前の事なのに、どうしてだろう。
あの日々に溶けていた強い酸味の残り香は、今でもまだ、私の舌と心を痺れさせている。
「──ねえねえ、
「……あ、あはは……どうでしょうね……」
ガヤガヤ、喧騒ひしめく居酒屋ビルの二階。
パスタが美味しいと評判のこの店でご飯でもどうかと同僚に誘われ、何も考えずに付いてきてしまった数時間前の浅はかな自分を恨みながら、私──
心ばかりに添えられたカットレモンの酸味や炭酸すらも水に溶け、ウイスキーの存在など全くもって感じられないハイボール。小さくなる氷の水分で薄まった酒のジョッキをテーブルに置けば、再び隣の男が私の腰を引き寄せて「ねえ、彼氏いないの?」「実はいるっしょ? いないんだったら俺立候補するよ?」とあからさまな口説き文句を紡ぎ始める始末で私は心の底から辟易した。
ああ、ものすごく苦手なタイプだ。
パスタとかどうでもいいから早く帰りたい。
頼むからどこかへ行ってくれと切に願い、返事も程々に塩対応に徹する。しかし今回見事に私を騙し、こんな合コン紛いの飲み会に陥れてくれた同僚が、放っておいて欲しい私の願いも無視して余計な事を口走った。
「六藤さんは、今フリーよぉ。つい最近彼氏にフラれたばっかりだもんね! つまり狙い時!」
「えっ、マジ!? じゃあ傷心中? 俺が癒してあげよっか」
「……いえ~。今はそういうのいいんで~」
にこり。ハリボテの笑顔を浮かべて男から距離を取る。だが簡単には逃がしてくれず、男は私に恋人が居ないと知るやいなや先程までよりも一層ぐいぐい迫ってきた。
ああ、もう、余計な事を。
悪気があるのか無意識なのか、私をどんどん窮地に追い込んでいく同僚の顔面に心の中だけで特大パンチをお見舞いしつつ、私はその場に立ち上がる。「ごめんなさい、ちょっとお手洗いに」とにこやかに告げてバッグを持ったまま逃げ出した私は、トイレへと真っ直ぐ駆け込むと鏡の前で盛大に頭を抱えた。
もう、ほんとにやだ。
男なんて面倒くさい。恋愛なんて懲り懲り。
「……帰りたい……」
呟き、溜息を吐きこぼす。ほんのり茶色みがかった中途半端な長さのミディアムヘア、眉下で切りそろえられた重たげな前髪。実年齢より少し幼く見られがちな日本人特有の
そんな鏡の中の自分をじとりと睨み、私は薄い唇にリップを塗り直すと肩を落としてトイレを出た。
恋愛は、苦手。こういう合コンの場も苦手。
しかし男性が苦手なのかと言うと、そういうわけではない。
彼氏が居た事ないというわけではないし、それなりに経験もある。二十五歳という年齢にしては少ない方なのかもしれないけれど、デートだって何度かした事はある。
でも、私の恋はいつだって受け身。
それが〝恋〟だったのか、ちゃんと相手を〝愛〟せていたのか、どうしても分からない。こうなった原因はハッキリと分かりきっているのに。
ふわり、記憶の片隅で檸檬の香りが揺らぐ。
「──六藤ちゃん」
ふと、物思いに耽っていたところを不意に呼び止められ、私は肩を震わせた。
振り向けば、先程までしつこく絡んできていた男が不敵な笑みを描いてそこに立っている。彼は強い香水の香りを纏う体を近付け、私の腕を掴んだ。
どうやらトイレの前で待ち構えていたらしい。私はたじろぎ、手のひらに浮かんだ汗を握り込む。
「ねえ、六藤ちゃんさ、帰りたがってるでしょ」
「え? ……あ、あはは……何の話ですか? そんな事……」
「いいって、無理しなくて。実は俺もダルくてさ~。二人で抜け出さない? こっそり」
耳元で囁かれ、ゾッと背筋に悪寒が走る。私は無理矢理笑顔を繕って彼をいなそうとするが、執拗に迫られてしまいとうとう壁際へと追い込まれた。
他の飲食店と共同で使用しているらしいこの店のトイレは、店外の奥まった通路の先にある。そのため他に人影はない。逃げ場を失って両手を握り取られた私は、ずいと迫る男に息を呑んだ。
「あれ? もしかして怯えてる? そんなに怖いかな~、俺」
「……い、いえ、そんなんじゃ……」
「だったらいいじゃん、一緒に抜け出そ」
「あ、あはは~……だ、だめですよ、同僚に悪いし……それに、あの……私、この後用事が……」
出来るだけ穏便に済ませようと、適当な理由をこじつけて迫る体を押し返す。しかし彼は強く手首を掴み、その力の強さに思わず「痛っ……!」と声を発してしまった。すると、その瞬間。
ガンッ! と男性用トイレの扉が突然乱暴に開き、私に迫っていた男へと勢いよくぶつかる。
「いっ!?」
「……!?」
ごんっ! ──その場に響いた鈍い音。扉は男の横っ面を直撃し、同時に密着していた体も離れた。
私は何が起きたのか一瞬分からず、愕然と見開いた瞳を瞬くばかり。しかし硬直して言葉を失う私の腕は、すぐに別の手に掴み取られた。
よたつく体を支え、キャップを被った金の髪が視界で揺れる。まるで檸檬みたいなその色に、胸の奥で震えたのは強い既視感。
「走って。早く」
低い声が囁き、返事を紡ぐ間もなく強引に腕を引かれた。無意識のうちに動いていた足は細い通路を走り抜け、階段を駆け下り、夜の繁華街の人波に飲み込まれる。
私はわけも分からないまま、手を引く青年の背中をひたすら追いかけた。
ああ、今日、ヒールのないパンプス履いてて良かったな──そんな緊張感のない事を頭の隅で考えながら、私と彼は夜の街を駆け抜け、光で満ちる路地の奥へと消えたのだった。
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