第19話 おそろい


「……大きい」



 数十分後。シャワーを浴び終えた私が彼のトレーナーに腕を通すと、思っていた以上に袖が余ってしまってあからさまにぶかぶかの着心地だった。


 トレーナーの裾は完全に太ももを覆っており、もはや見た目はオーバーサイズのワンピースさながらである。前方に屈むと襟元も大きく開いてしまって少し危ない。スウェットに至ってはしっかり紐を結ばなければずり落ちてしまう。


 最初から私の身長に見合わないサイズである事は分かっていたが、正直ここまで体格差があるとは思っていなかった。武藤くんって見た目が細いし、心のどこかではいけるだろうと思っていたんだけど──やっぱり男の子なんだなあ、としみじみ実感せざるを得ない。



「だ、大丈夫かな……変じゃないよね……?」



 鏡の前で何度も己の姿を確認しつつ、濡れた髪の水気をタオルで拭き取る。


 浴室にはシャンプーから洗顔まで、一応必要なソープ類は一式揃えられていた。が、さすがに男物のそれらしか見当たらなかった。

 生まれて初めて手に取る、メンソール系のシャンプー。ひんやりと頭皮が冷やされる感覚にいまいち慣れず、まるで頭に薄荷味の液体を染み込ませているような感覚だった。


 明日はコンビニでお泊まり用のシャンプーセット買ってこなくちゃ、と決意して脱衣所を出る。


 かくしてリビングまで戻ってきた私だったが──早速鉢合わせた武藤くんは、目が合うなり私の姿に息を呑んだ様子で固まってしまった。そのままじっと凝視する彼の視線に、私はぎくりと背筋を冷やす。



「へ、変かな!? やっぱり……!」


「……っ、あ、いや……。服のサイズ、ちょっと大きかったなって……」


「あ……うん。ちょっとダボダボだったみたい。武藤くんって大きいんだね、びっくりしちゃった」



 あはは、と笑って続ければ、彼は何か言いたげに口元をまごつかせながら目を逸らした。結局何も言わなかった彼に首を傾げるが、ふとテーブル上に食事が並べられている事に気が付いて私は瞳を瞬く。



「あ、ご飯……」


「……ああ……手っ取り早いかなと思ってデリバリーで頼んだ。あんま小洒落たヤツじゃないけど……牛丼」


「え、全然いいよ! 牛丼好き! ありがとう、お金いくら?」


「お金は大丈夫」


「えっ、だめだよ! ちゃんと払う!」


「ホントにいいから。それより六藤さん、髪ちゃんと拭かないと風邪引くよ」



 強引に話題を逸らされ、手を引かれてソファーへと誘導される。何かを言い返す隙もなく濡れた髪をわしゃわしゃとタオルで掻き混ぜられた私は、「冷めないうちに飯食お」といざなわれたソファーに大人しく腰掛けさせられた。

 同じく隣に腰を下ろした武藤くん。割り箸を私に手渡し、自分もぱきりとそれを割る。



「いただきます」


「……いただきます」



 腑に落ちないながらも同じ言葉を口にして、まだ暖かい牛丼の蓋を開けた。甘辛く味付けされた牛肉が敷き詰められたタレだくの白米と、端に添えられた真っ赤な紅しょうが。ふわりと嗅覚が拾い上げたその香りによって私のお腹は素直に音を立てる。


 あ、どうしよう。普通にお腹空いちゃった。



「うま、牛丼。久々食った」



 隣では早速、武藤くんが大きめの一口で牛肉と白米を合わせて食している。私も後に続くように牛丼をぱくりと口に運べば、想像通りでありながら期待を裏切らないその味が口内に広がった。



「うん、美味しい」


「ね。たまにはいいかも、牛丼」


「武藤くんって、いつもご飯どうしてるの? 自炊?」


「いや、外食ばっか。家で食う時はデリバリーとかテイクアウトのやつ買って食ってる。料理は滅多にしない」


「あー、そうなんだ……」



 相槌を打ち、キッチンを一瞥する。調理器具は一式揃っているものの、確かにあまり使われたような形跡はない。


 せっかく綺麗なカウンターキッチンなのになあ……と勿体なく思っていると、不意に武藤くんが立ち上がって「飲み物、お茶でいい?」と問いかけた。

 私は頷き、冷蔵庫へ向かう彼の背を見送る。その時ふと、私の視界には黒い灰皿が飛び込んできた。



(……あれ? 灰皿?)



 きょとん。目が点になる。


 武藤くんって、たしか煙草吸わないんじゃなかったっけ。前にカラオケでそう言ってた気がするけど。



「……ねえ、武藤くん。あの灰皿って──」


「……!」



 何気なく口にした、直後。冷蔵庫に手を伸ばしていた武藤くんはあからさまに肩を震わせた。

 刹那、瞬く間に身をひるがえし、その手が机の灰皿を一瞬で奪い取る。


 思わず「え……?」と声を漏らしたと同時に、彼は珍しく焦った様子で声を張った。



「──違う!」


「ひ!?」



 唐突な大声にびくんと肩が跳ね、縮こまる私。武藤くんはハッと我に返ったように見えたが、数回視線を泳がせると居心地悪そうに言葉を続けた。



「いや……ち、違くて……あの、ほんとに違うから。マジで違う。これ、俺のじゃなくて……」


「……」


「えーと、ほら、あれだよ。これは前に住んでた友達ので……」


「……」


「アイツが最後に吸って、そのまま忘れて出て行っちゃったっていうか……その……」


「……」


「…………、ごめん。嘘です。俺のです」



 しばらく弁明しようとしどろもどろに言葉を紡いでいた彼だったが──灰皿の中には電子タバコの残骸が数本残っていたため、言い逃れは出来ないと判断したらしい。やがて正直に自白し、武藤くんは気まずげな顔でおずおずと灰皿を机の上に戻した。


 ころり、短い吸殻が中で転がる。私は首を傾げ、彼に問いかけた。



「……? ど、どうして謝るの? 別にいいよ、煙草吸っても」


「……六藤さん、煙草嫌いかなって思って……」


「え……いや、確かに好きではないけど……何で知ってるの?」


「……最初、カラオケ入った時、煙草の匂い嫌がってたから……」



 ぼそぼそと告げ、彼は私をちらりと一瞥する。


 カラオケ──言われてみれば確かに、あの日武藤くんと一緒に入った個室は随分と煙の匂いに満ちていて、思わず顔を顰めた記憶があった。


 まさか、あの一瞬の表情を盗み見て『煙草は吸わない』とうそぶいたのだろうか。



「え、ええ? なんでわざわざ……いいよ、私に合わせなくても! 我慢するとストレス溜まるでしょ……?」


「……いい。吸わない。もうやめる」



 しかし武藤くんは頑なに言い張り、密かに隠し持っていたらしい電子タバコをポケットから取り出すと近くの引き出しを開けて灰皿と共にその奥へ押し込んだ。

 更には大きめの付箋にボールペンで『封』と書き記し、煙草をしまった引き出しの側面にぺたりとそれを貼り付ける。



「はい、封印」


「えええ……!」


「これでもう吸わない」



 さも当然のように言い放ち、ようやくお茶のペットボトルを冷蔵庫から取り出した彼は二人分のグラスを持ってこちらに戻ってくる。私は慌てて声をかけた。



「ちょっ……武藤くん、本当にいいの!? 煙草ってやめるの難しいんでしょ? 無理しなくていいんだよ?」



 あまりに申し訳なくて食い下がるが、彼の意見は覆らない。

 テーブルに置いたコップにお茶を注ぎ入れ、「うん、いいの」と顎を引いて私の隣に腰掛ける。



「別に、煙草ぐらい吸えなくたってどうって事ないし。六藤さんに嫌われるより百万倍マシ」


「え……」


「もう、マジで『嫌い』とか言われんの嫌なの、俺。アレほんとにすげーキツいからやめて……六藤さん知らないでしょ、思春期の男子中学生があの一言でどんだけ傷付いたか……」



 弱々しく告げ、武藤くんは私の肩に寄りかかった。対する私は唐突な接近に身を強張らせ、頬がたちまち熱を持つ。



「ちょ、ちょっと……!」


「……嫌わないで」


「き、嫌いなんて言ったことないよ!」


「あるよ。覚えてる」



 拗ねたような口振りで告げた武藤くんは、力なく肩に寄りかかったまま私の手に指を絡めた。「六藤さん、手ちっちゃ……」と呟く声にも胸が早鐘を刻み、声が震える。



「む、武藤くん、近い……!」


「……今さら何言ってんの、俺たちヤる事ヤッてんだよ?」


「で、でも、こういうの、慣れてなくて……」


「……ふーん。じゃ、慣れるために練習して。俺で」



 耳元で囁いた彼は、私の腰を引き寄せると更に密着した。「……六藤さん、俺と同じ匂いする」と呟かれる声に、うるさいほど音を刻む心臓。



「……さ、さっき……シャンプー、借りたから……」


「なんか、なんだろ……いつもの六藤さんの匂いの方が好きなんだけど、これはこれでアリかも。〝俺の〟って感じする」


「な、何言ってるの……!」


「嫌?」



 じっと上目遣いに見上げ、問い掛ける彼。私は答えに迷いながらも、「そ、そんなの知らないよ……」と彼を押し返した。



「ね、武藤くん、ご飯食べよ……? 冷めちゃうし……」


「……綾人」


「え」


「俺の名前。綾人」



 ──ちゃんと呼んでくれたら離れてあげる。


 そう口にして再び身柄を確保され、私は今度こそたじろいだ。目を泳がせ、躊躇う私の頬は今頃きっと真っ赤に染まっているに違いない。


 武藤くんは私の耳元に唇を寄せ、「ねえ、呼んでよ」と再び甘く強請ねだってくる。



「……あ……」


「ん?」


「……綾人、くん……離れて……」



 ややあって、消え去りそうな声で口にした名前。たったこれだけの事にこんなにも勇気を振り絞らなければならないなんて、本当に意味がわからない。


 絡まる手には汗が滲み、顔どころか全身が熱くて火が出そうだった。ただ名前を呼んだだけなのに。

 すると武藤くんは私の胸に耳を当て、ふっと微かな笑みをこぼす。



「……すご。めっちゃドキドキ言ってる」


「……あ、あの……」


「俺とおそろい」



 絡んだ手をもたげ、自身の胸に誘導する武藤くん。彼の左胸に触れた手のひらからは、私と同等に早鐘を打ち鳴らす鼓動の感覚が伝わってきた。


 武藤くんも、私と同じぐらいドキドキしてる──そう考えた頃、彼は先程の宣言通りに私から離れる。



「牛丼、卵かけたらうまいかも。六藤さんもいる?」


「……っ、あ……私は、大丈夫……」


「そう? じゃ、俺だけ持ってこよ」



 涼しい表情で席を立ち、キッチンへ歩いていく彼。その時ようやくまともに酸素を肺に取り込めたような気がして、私は深く息を吸い込んだ。


 ああ、どうしよう。顔がすごく熱い。



(私、これからしばらく……こんなに毎日ドキドキしながら、武藤くんと一緒に過ごさないといけないの……!?)



 そんなの耐えられる気がしないよ……と弱々しくこぼして縮こまり、私は落ち着かない胸の鼓動をなんとか静めて、少し冷めた牛丼を口に運んだのだった。

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