第27話 君にとってのレモネード

 疎らな街灯の明かりが道を照らす夜の住宅街。歩道に伸びた白線の内側を歩いた私は、タワーマンションの入口の前で足を止めた。綾人くんから借りているカードキーを差し込んでオートロックを解錠し、エレベーターはあえて使わず階段で三階に上がる。


 これも綾人くんの影響だ。彼が階段を好むから、私も合わせて階段を使う。別に彼のすべてを真似したいというわけではないけれど、なんとなく綾人くんの痕跡を辿るように繋がりを求めて、私は拾い上げたビーズの一粒をころんと紐に通している。



(今日はちょっと遅くなるって連絡きてたから、何か疲れが取れるようなご飯作ってあげたいな)



 そうやって取り留めもない事を考えながら通路を歩み、部屋の扉を開く。


 直後──室内に足を踏み入れた私の耳は、繊細なアコースティックギターの音色と甘い歌声を拾い上げた。



「……え……」



 一瞬スピーカーで音楽でも流しているのかと思ったが、どうやら違う。流暢な英語で歌を紡ぐ声とギターの弦が刻む綺麗なメロディーを道しるべに、私はそっとリビングを覗き込んだ。するとそこでは、床に座り込んだ雷蔵くんがスマホのカメラで自分を映しながらギターを弾き語っていたのだった。


 昨晩の喧騒っぷりが嘘のような甘い声で、まるで別人みたいにバラード調の旋律を英歌詞で歌い上げていく彼。あまりのギャップに思わず硬直し、しばし彼の歌に聴き入ってしまう。


 それから数分──とうとう一曲を歌い終えた彼は、演奏を終えるとギターから指を離してにかっと笑った。



「──うぇい! というわけで、ライムライトRAIZOの即興弾き語り配信でしたぁ! チャンネル登録してくれたら、俺ちゃま嬉しくてラブ&ハグちゅっちゅ! リクエストもどしどしお待ちしとーよー! シーユーアゲイン!」



 カメラに向かって早口に告げた彼はいつも通りのハイテンションで決めポーズらしき謎のポーズを取り、動画の撮影を終える。今の動画はこのあとネットに上げたりするのかな……などと考えていれば、丁度こちらの気配に気が付いたらしく彼が笑顔で振り返った。



「あっ、檸檬ちゃん! やっほー! おかえりマサイ族!」


「えっ……! え、えっと、ただいマサイ族……!」


「わっは! ノリいいね! 褒めてつかわす!」


「あ、あはは……どうも」



 相変わらずの独特なノリに苦笑をこぼせば、「もしかして、俺の歌聴いとったん?」と期待に満ちた視線を向けられる。もしかしてまずかったかなと懸念しつつも控えめに頷くと、彼は嬉しそうに破顔した。



「びっくりした? 俺さー、ネットで歌の動画配信しとんよね。学生の頃はアヤヤも一緒に曲とか動画作っとったの。〝ライムライト〟っていうグループ名でさ」


「え、綾人くんも?」


「そー。まあ、アヤヤは歌へたっぴで音楽的センスはゼロっぽかったから、動画の撮影と作詞担当やったんけど」


「へたっぴ……」



 意外な情報に目をしばたたくと、「檸檬ちゃんの前ではまだ歌ってないんや~。無駄にプライド高いけんなあ、アヤヤ」と彼は肩をすくめる。そういえばカラオケに行った時も、歌は歌ってくれなかったな……と思い返しつつ、私は昨日から気になっていた事を彼に問いかけた。



「あの……ところで、その〝檸檬ちゃん〟って何なんですか?」


「んー? 君の事! 檸檬ちゃん!」


「いや、だから、なんでその名前……」


「あー、俺が勝手にそう呼んどったの! 四年ぐらい前かなあ、アヤヤが初めて書いた曲がでな! その時のMVがやたら印象に残っとってさ」



 ──初恋の歌。


 そんな色めく一言にとくりと胸が高鳴り、綾人くんへの期待感がまたも膨らむ。もしかしてその初恋の相手が私なのかも、なんて都合のいい妄想付きで。



「は、初恋……?」


「うん。アヤヤ、初恋の子の事がずっと好きやったんて。だからその子の事を考えながら歌詞にしたって言ってた」


「ええっ!?」



 まだその相手が自分だと決まったわけでもないのに、期待ばかりが加速して思わず声を上げてしまった。しかし私はかぶりを振り、余計な思考を制して本題を深掘りする。



「……っ、え、あ、でも……それが、何で檸檬ちゃんって呼び名になるんですか……?」


「んー? それは、あいつが作ったMVを実際見れば分かるんやない?」



 に、と悪戯に微笑んだ雷蔵くんはぱちりと片目を瞑り、続けてスマホを操作した。何らかの動画の画面を表示し、指先が『再生』のマークをタップする。



「学生の頃、二人で初めて作ったミュージックビデオでさ。卒業制作のつもりで作り始めたんけど、思ったより再生数が伸びて一時期ネットで話題になったんよね。一瞬だったけど」



 そう付け加えた彼が再生した動画は、確かに再生数が大きい数字を叩き出していた。その数字に目を見張っていれば、突として私の視界は檸檬の色に染まる。



 ──SUGARLESS LEMONed



 やがて黄色一色の画面に手描きでそんなタイトルが映し出され、実写の映像と共に曲のイントロが始まった。アコースティックギターの音色を耳で拾い上げつつ、私の視線はタイトルを追いかける。



「……シュガーレス、レモネード……?」



 直訳すると、甘くないレモネード。

 しかし、そのレモネードの綴りに違和感があった。


 普通、レモネードのスペルは「LEMONADE」。しかし画面に映し出されたスペルは「LEMONed」。


 何か特別な意味があるのだろうか。訝りつつ不思議なスペルで綴られた英語表記のタイトルを復唱した頃、イントロが終わって雷蔵くんの歌が流れ出す。



 『──僕は君に嘘をついた


 恋愛がわからないなんて


 そんなくだらない真っ赤な嘘をね』



 そんな歌い出しで始まり、画面には真っ赤な夕焼け色の廊下で向かい合う男女の姿が映る。どこか既視感のあるその光景に、私は息を詰まらせた。



 『──金木犀の花は風に揺れて


 今の季節を伝えるけれど


 僕はあの柑橘の香りしか


 もう思い出せない』



 続く歌声。ミュージックビデオの映像は、どうやら実写とアニメーションが混ざり合った構成になっているらしい。

 寂れた町を歩く足元や地下鉄のホームなど、どこかくすんだ印象を覚える実写映像の合間に、明るいビビッドカラーで描かれた対象的なエフェクトやアニメーションが度々差し込まれる。


 色はイエローがメインカラーらしく、ホワイトやオレンジ、スカイブルーも差し色として登場した。

 散らばる色が明るい淡さを表現する一方で、歌詞には「金木犀」など秋を連想させる言葉が含まれ、些か物憂げな印象も覚える。初恋、というテーマにしては、コード進行もやや寂しげに音を刻んでいた。



 『──暗い闇の中で 泣いていた僕を


 君が見つけてくれた 檸檬の色を添えて』



 ここで曲調はやや変わり、サビへと続くメロディーを奏で始める。


 その時ふと、どこか懐かしい風景が一瞬だけ映像の中に映り込んだ気がして私は目を見張った。ほんの一瞬映し出された体育館──それが、自分の母校である小学校の体育館に似ていたような気がしたのだ。


 けれどすぐに映像は切り替わり、曲はサビへと移行する。



 『──僕らの愛は未完成だろうか


 曖昧なだけの不良品だろうか


 誰かは僕らを無糖シュガーレスと呼んだね


 でも僕には君との時間が甘くて仕方なくて』



 ミュージックビデオ内の若い男女は、夕焼け色の非常階段の踊り場に座り込み、透明なビニール傘の下で見つめ合っている。その周りでは手描きで描画されたいくつもの飴玉が、まるで雨のように彼らに降り注いでいた。



『──置いてきた思いは戻らないのだろうか


 君になぜ伝えられなかったんだろうか


 交わした甘味の残り香が消えない


 もしも最後のあの日に戻れるのなら』



 階段の上に降り積もる、たくさんの檸檬色。やがて本物の飴玉を噛んだ傘の中の男女が互いに唇を近付け合ったところで、映像と音楽はフェードアウトする。



『──この恋を〝LEMONedレモネード〟と呼ばせて』



 サビのラストのフレーズがワンオクターブ低く紡がれて、『制作:ライムライト』の一文を最後に画面は暗くなった。


 やがて、雷蔵くんは「ほらね、檸檬ちゃんって呼びたくなるっしょ」と笑ってスマホをポケットにしまう。


 ──檸檬ちゃん。


 きっと映像に何度も映る檸檬の飴玉が印象的だったから、彼は私をそう呼ぶのだろう。


 私はとくとくと鼓動を刻む胸の音を感じながら、ちらりと雷蔵くんを見つめる。



「……あの……レモネード……」


「ん?」


「タイトルのレモネードの、英語の綴り……普通と違いますよね……。何か意味があるんですか?」



 問えば、雷蔵くんは「ああ、アレね」と目尻を緩めた。



「〝LEMON〟って、海外では『不良品』って意味のスラングがあんの。そこに過去形の〝ed動詞〟をくっつけて、〝LEMONedレモネード〟」


「……不良品……」


「そう。でも過去形だから、この場合の意味は〝元・不良品〟になる。つまり『この恋は不良品じゃない』って歌なんよ、アヤヤが書いたのは」



 ──もしも最後のあの日に戻れるのなら、この恋を〝LEMONedレモネード〟と呼ばせて。


 綾人くんが書いたという歌詞の最後の一文が脳裏を過ぎる。

 自分の恋を〝元・不良品レモネード〟と呼ばせて欲しいと、そう綴っているのだ、彼は。


 綾人くんの恋した〝檸檬ちゃん〟というのが、本当に私の事を示していると言うのなら──『最後のあの日』というのは、中学校の卒業式の日の事なのだろうか。



『俺、中学の時、実は……六藤さんに言いたかった事があって……』



 以前、綾人くんは私にそう言った。

 中学時代、私に言いたかった言葉があると。


 それって、たぶん、きっと──そういう事、だよね?



「……そ、そう……なんだ……」


「うわ、檸檬ちゃん! お顔が真っ赤っかやん! もはや林檎ちゃんやん! かーわいー!」


「……っ、だ、だって……!」


「わはは! 幸せそうで何より! アヤヤの事、よろしゅーな! 俺ちゃまのビッグフレンドやけ! アヤヤは!」



 嬉しそうに破顔する雷蔵くん。

 性格はことごとく真逆な二人だけれど、きっと仲は良いんだろうなとよく伝わる。つられて微笑みつつ「うん」とはにかめば、雷蔵くんは「いやー、檸檬ちゃんがいてくれれば安心やわ」としみじみ頷いた。



「ああ見えてアヤヤ、狭いとことか暗いとこに長時間いると過呼吸起こしたり、体調崩したりする繊細なヤツやけんさ〜。離れとる間も心配やったんよ、ずっと」


「……あ……狭いところ苦手なんですよね、確か」


「そうそう。でも、ホンマに良かったなあ~、長年こじらせとった初恋が実って。の初恋なんやろ? よう叶えたもんやわ」


「……。え?」



 ──小学生の頃?



 そんな雷蔵くんの何気ない一言で、私はたちまち硬直した。火照りきっていた頬からはすっと熱が引き、思考回路が一瞬凍結する。


 小学生の頃からの、初恋。


 今しがた放たれた発言を冷静に噛み砕き、やはり戸惑いが胸を満たした。だって、そんなはずはないのだから。



(……待って。どういう事? 私の通ってた小学校と、綾人くんの出身小学校は──)



 ──同じじゃ、ないよ……?



 ぱらり、ぱらぱら。

 繋げ続けた見えないビーズの結び目が解けて、足元に散らばる。


 記憶力は良い方だと思うし、あまり大きな小学校の出身ではない。だからこそ分かるのだ、私の通っていた小学校の同級生に『武藤 綾人』なんて名前の生徒はいなかったと。

 転校した同級生の記憶だって少しなら残っているが、その中にもやはり彼がいた記憶はなかった。


 私と彼が出会ったのは、中学三年の時。


 初めて同じクラスになって、出席番号順に並べられていた机が、『武藤』と『六藤』で隣同士だった──それが、私達二人の最初の接点。それまでは会話どころか、顔すらまともに合わせた事はない。


 彼の言う〝初恋の人〟が私であるという仮説が、積み上げたビーズの粒と一緒に少しずつ崩れていく。



「……本当に……?」


「え?」


「綾人くん……初恋は小学生の時だって……本当に、そう言ってたの……?」



 震えそうになる声をぎこちなく紡げば、雷蔵くんは不思議そうに瞳を丸める。やがて「うん、そう言っとったよ」と何の迷いもなく答えた。



「えーと、たしか〜、十歳の時やって言っとったような……? それから大人になるまで、その初恋をずーっと引きずっとんやて」


「……、今も……?」


「え、うん──って、やば! もうこんな時間やん! 俺、今からバイトの面接に行って飲み会も行かなあかんの! じゃーね檸檬ちゃん! 今夜遅くなるってアヤヤに伝えとって〜!」



 慌ただしくアコギをギターケースにしまった雷蔵くんは、それを背負うと「ほな! コップンカー!」とウインクしてばたばたと家を出て行った。


 残された私はぽつんとその場に立ち尽くし、自身の足元を見つめる。


 綾人くんの、初恋の人。

 小学生の頃から、ずっと好きな人。

 君にとっての『元・不良品レモネード』。


 それって──



「……本当に、私……?」



 あるはずもないビーズの残骸が、床一面に散らばっているような、そんな気がした。


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