第28話 ささくれとペパーミント


 夜の九時を過ぎた頃、綾人くんは家に帰ってきた。疲弊した様子で帰宅した彼に「おかえり」と控えめに返せば、その表情は些か安堵したように緩まる。



「……ただいま」


「ご飯食べる? お風呂が先でもいいけど」


「え……ご飯? 作ってくれたの?」


「あ、うん……簡単にだけど……。手羽元の煮込みとお味噌汁。好き?」


「……好き。食べる」



 照れたようにはにかみ、綾人くんは「なんか、奥さんみたいだね、六藤さん……」と呟く。普段ならばきっと手放しで喜べたはずのその一言も、今はどこか素直に受け入れられないまま私は瞳を静かに瞬いて笑顔を作った。



「そうかな……ありがと。座ってて、すぐ用意するから」


「……? 六藤さん、なんかあった?」


「え? なんで? 何もないよ、普通」


「ほんと? ……なんか、元気なくない?」



 こちらに訝しげな視線を送る彼と目を合わせないようにしながら、「そんな事ないってば〜」と努めて明るく返答する。

 別に、何も嘘はついていない。落ち込むような事なんてないのだから。綾人くんの初恋の人が自分じゃないのかもしれない、とか、そんなちっぽけな理由で落ち込むほど子供じゃないもの。


 そう言い聞かせる私だったけれど、やっぱり胸は落ち着かなくて。まるで体の真ん中に小さなささくれができたみたいだ。

 ぴりぴりと染みるから早く剥がしてしまいたいのに、大きな痛みが怖くて最初の一歩がなかなか踏み出せない。


 結果的に、中途半端な宙ぶらりんのまま、曖昧な感情を持て余す。



「……はい! 綾人くんの、大盛りにしといたよ!」



 にこりと明るく微笑み、多めに盛り付けた白いご飯と温め直したお味噌汁、そして手羽元の煮込みをトレイに並べてテーブルへと運んだ。

 手羽元は二時間ほど昆布だしで煮込んだおかげか、軟骨までほろりと柔らかく仕上がって味もしっかりと染み込んでいる。お味噌汁の具はかぼちゃと玉ねぎとお豆腐の、ちょっぴり甘めな優しい味付け。ついでにあらかじめ作っておいた半熟煮卵を二等分にして、ぷかりとふたつ汁の中に浮かべた。


 綾人くんは感嘆の息をつき、本日の夕食を見つめる。



「うわ、すげ……うまそう」


「あんまり大したものじゃないけど……」


「いや、めっちゃすごいじゃん! 俺、味噌汁に半熟卵浮かんでるの初めて見た」



 嬉しそうに目尻を緩め、綾人くんは「いただきます」と告げて早速味噌汁のお椀に口をつける。かぼちゃの溶けたスープを飲み込み、半熟卵も口に運んで「おいしい」と微笑む表情にひとまず安堵した私だったが、心はまだ分厚い雲に覆われていた。



「……ねえ」


「ん?」



 ふと呼びかければ、白米の上でバウンドさせた手羽元を口に運ぶ綾人くんが顔をもたげる。「なに?」と問う彼と視線を交え、私は一瞬唇を開いた。


 ──初恋の人って、誰だったの?


 そう問いかけようとして、きゅっと喉が狭まる。



「……っ」


「……六藤さん?」


「て、手羽元、味染みてる?」



 やがて口から飛び出したのは別の言葉だった。

 綾人くんは瞳を数回しばたたき、「うん。すごいおいしい」と素直に頷く。その言葉にぎこちない笑みを描きながら、密やかにこぼす溜息。


 自分の弱い心には、心底辟易してしまう。



(……聞くの、やっぱり怖いや……)



 小さなささくれを剥がす勇気すら、私は持ち合わせていなかった。




 * * *




「明日、何時に出る?」



 夜も更け、互いに入浴も済ませたあと。不意に問いかけた綾人くんの言葉によってぼんやりしていた頭が急に現実へと引き戻される。



「え?」


「いや、え? じゃなくて……」



 思わず聞き返した私に、綾人くんは呆れ顔。続いて『ウサギーランド』というロゴの入ったオンラインチケットの画面が彼のスマホに映し出された。



「!」


「これ。行くでしょ?」


「……」


「……もしかして忘れてた?」



 じと、と目を細められ、「そ、そういうわけじゃないよ!」と慌ててかぶりを振る。綾人くんは疑わしげだったが、嘘は言っていない。忘れていたわけではないのだ、決して。


 ただ、こんな微妙な心境でデートなんか楽しめる気がしない──というだけで。



「……楽しみだね。何時にしよっか」



 複雑な胸の内を悟られぬよう笑顔を貼り付け、口先ばかりの言葉を付け加える。


 彼と同じベッドに入り、枕元のリモコンを操作すればオレンジ色の豆電球に薄ぼんやりと部屋の中が照らされた。本当は真っ暗にしたいところなのだが、そうすると綾人くんが嫌がるため、いつも就寝の際は豆電球を灯したまま眠っている。



「……六藤さんさ、やっぱなんかあったでしょ」



 毛布にくるまったところで、不意に綾人くんはそう口火を切った。私はどきりと胸を跳ねさせるが、すぐに誤魔化そうと数回瞳を瞬いて目尻を緩める。しかし途端に「ほら、それ」と鋭く指摘されて息を詰めた。



「六藤さんね、無理してる時に笑うんだよ。でもまばたきがいつもより多いの。昔から」


「……え」


「中三の時……多分、最後の中体連の直前かな。練習中にハードルに引っかかって転んで、怪我で大会に出られなかった事あったでしょ? あの時も六藤さん、ずっと笑ってたけど、不自然にまばたきばっかり繰り返してた」



 ぎし、とベッドが軋み、綾人くんが身を乗り出す。茶色みがかったその瞳に囚われて、私は硬直したまま身動きが取れない。


 中体連──中学の総体の事だ。運動部にとっては、一年の間で一番大きな大会。三年生は例年、夏に開催される中体連を最後に部活動から引退する。


 暑さの厳しい中三の夏休み、中体連直前の最後の追い込みの時期であるにも関わらず、陸上部だった私はハードルを飛び越えきれずに転んで足首を負傷した。幸いにも骨折のような大きな怪我ではなかったが、大事をとって残り数日に迫っていた大会のメンバーからは外されてしまったのだ。


 あの時、本当は悔しくて仕方がなかった。骨折や肉離れのように大きな怪我なら諦めもついたのかもしれない。けれどあんなに小さな怪我で、最後の大会の出場権を逃したという事実がとにかく辛くて、悲しかった。


 泣くのを必死に堪えて、気遣う後輩や部員には大丈夫だよと強引に笑ったのを覚えている。


 その姿を、彼は見ていたのだろうか。

 まだあの頃、私との〝キスだけ〟の関係は築いていなかったはずなのに。



「……校庭の隅で、六藤さんが毎日一生懸命タイム縮める練習してたの、俺は知ってた。俺は当時バスケ部だったけど、外で走り込みする時よく陸上部のこと見てたの。だから、六藤さんが無理に笑ってるのもすぐ分かった」


「……」


「本当は声かけたかったけど、あの頃の六藤さん、『シュガーレス夫婦』って周りにからかわれるの気にして俺を避けてたでしょ。だから何も言えなくて……そもそも、俺も勇気出なくて……」



 視線をそっと外し、彼は私を優しく引き寄せる。後頭部を撫でる手の動きはどこかぎこちなくて、胸がきゅっと狭まった。



「でも、今ならちゃんと、弱音も本音も聞いてあげられる。ちゃんとこうやって話せる。……六藤さんはさ、人に甘えるのが下手なんだよ。もっと甘えていいと思う……っていうか、甘えてよ。たまには」


「……」


「嫌な事あった? 会社の人になんか言われた? それとも、俺が何かした? ……もし、そうなら、ごめん……」



 不器用に頭を撫ぜながら呟く彼に、私はつんと目頭が熱くなる。

 どうしてそうやって、すぐに優しい言葉をくれるの。どうしてそうやって、自分でも知らなかった私の癖を君が見抜いているの。


 ぱちぱち、また瞳を数回瞬いて涙に耐えた。すると彼は唐突に、無意識に噛み締めていた私の唇を一瞬だけ掠め取る。



「……っ」


「……何か我慢した時に、唇噛むのも悪い癖。この前もそれで怪我したんだろ」


「あ、綾人く……」


「練習しよっか、六藤さん。我慢しない練習。俺に弱いとこ見せてよ」


「ん……っ」



 二人分の体重を支えるベッドが軋み、また唇が重なった。今度はしつこく表面を啄まれ、やがて隙間から舌が割り入れられる。

 歯列をなぞる長い舌。先程互いに歯を磨いたばかりだから、熱のこもった吐息の隙間を薄荷ミントの残り香が何度も行き交う。


 決して甘くはないはずの口付けは、がんじがらめに結び付けた私の意地を優しく解いていくようだった。交わるペパーミントの辛みすら、どうしようもないほどに甘さを含んで口内へ注ぎ込まれているような錯覚に陥る。


 気がつけば、閉じた瞼の隙間からこぼれた冷たい雫が肌の上を伝っていた。一度境界を超えたそれは、次々とこめかみに向かって流れていく。



「……綾人くんの、ばか」



 どちらからともなく唇が離れて、滲んだ視界に彼を映しながら精一杯の悪態をついた。

 ぐらぐら、揺れる世界の中で君がぼやける。綾人くんは微笑み、また優しく口付けを落とした。



「ばかって言った方がばか」


「……子どもみたい」


「子どもだよ、ずっと。体ばっかでかくなって、中身は何年も止まったまま」


「……」


「……特に六藤さんの事になると、全然大人っぽい振る舞い方なんて出来ない。今だって、めちゃくちゃ緊張してるの伝わるでしょ」



 苦笑する彼は自らの胸を軽く押さえる。私は嗚咽を飲み込み、その胸にそっと身を寄せた。綾人くんは途端に身を強張らせたが、私は鼻を啜りながら彼の胸元に顔を押し付けて抱きつく。



「……綾人くん……好きな人、いるの……?」



 震える声で問いかければ、彼は黙り込んで動きを止めた。じわり、引っ張ったささくれの根元に血が滲む。



「……え? 何、急に」


「答えてよ……」



 些か拗ねたような口振りで、素っ気なく声を紡いだ。そんな自分があまりに可愛くなくて、また泣きそうになった頃──綾人くんは沈黙を破る。



「……いるよ」



 やがて返ってきたのは肯定の言葉。たちまち視界は狭まり、また涙が浮かんでぼやぼやと滲む。不安と期待が入り交じり、私は彼の胸に顔を埋めてくぐもった声を紡いだ。



「……ずっと、前から……?」


「……うん。ずっと前から」


「恋愛なんて、分からないんじゃなかったの……」


「ごめん。嘘ついた」


「……ずっと、嘘ついてたの……?」


「うん。……ずっと、嘘ついてた」



 嘘だとはっきり告げられて、私の胸が圧倒的な不安に占拠される。嫌な想像で頭の中が埋め尽くされる中、「……本当は、誰のこと、好きだったの……?」と問えば、彼は小さく笑った。



「分かんないの?」


「……分かんないよ……」


「俺の初恋の人だよ」


「……だから、分かんないってば……」


「それが誰か分かんないから、泣いてんの?」



 どことなく楽しげに紡がれる声。私はむっと眉根を寄せ、熱を帯びた目尻からまたひとつ涙を落として「……そうだよ、ばか……」と投げやりに答えた。すると、不意に顎を掴まれて強引に上向うわむかされる。


 はっと息を呑んだ瞬間、私の唇は彼のそれに再び掠め取られていた。



「……っ」


「……何それ。可愛い」


「あ、綾人く……」


「俺、今めちゃくちゃ舞い上がってるんだけど? どうしてくれんの、六藤さんのせいだよ」


「ん……」



 目尻を緩めた綾人くんの顔が迫り、優しい口付けが何度も落とされる。いつのまにか握り取られていた手のひらをきゅっと自分も握り返し、されるがままに彼の口付けを受け入れているとやがて耳元では微かな声が紡がれた。



「じゃあ、教えてあげる。俺の好きな人」


「え……」


「……でも、明日ね」



 意地の悪い言葉を耳に告げて、ちゅ、と瞼に最後の口付け。悪戯に微笑んだ彼に「おやすみ」と強く抱き寄せられて、またあたたかな腕の中に閉じ込められる。


 涙はもう出なかったが、代わりに眠気までどこかに消えてしまっていた。私はもぞりと身じろぎ、綾人くんの長い睫毛を睨む。



「……ばか」


「ばかって言った方がばか。ほら、早く寝て」


「……寝れないよ……」


「それでも寝るの。おやすみ、結衣」



 とん、とん、と一定のリズムで背中を叩かれ、不意打ちで呼ばれた名前にきゅんと胸が狭まった。


 ああ、ずるいな。

 ずるいよ、綾人くんは。


 そんな不服はついぞ言葉に出来ず、彼の腕の中で大人しく目を閉じる。


 すると不思議と安堵してしまって、背を叩く手のひらと同じように一定のリズムを刻む彼の胸に頬を寄せたまま──私はいつのまにか、夢の世界へと深く微睡んでいったのであった。



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