第32話 檸檬の果実は実らない


『本日はご来園ありがとうございました。ウサギーランドはまもなく閉園します──』



 耳当たりの良い声が、先程から何度もそんなアナウンスを繰り返す。園内を駆け回る私は息を荒らげ、人波の流れに逆らってひたすら前に走っていた。


 陸上で鍛えていた頃のようにうまくは走れなくて、何度もつまずいて足がもつれる。だがそれでも止まる事なく足を踏み出し、閉園のアナウンスの誘導に逆らいながら今頃きっと一人で苦しんでいる彼の元へと急いだ。


 そしてついに立ち入り禁止の注意書きを踏み越えた私は、旧館のエリア内へと辿り着く。



「綾人くん!!」



 即座に声を張り上げて彼の名を呼びかけるが、反応はない。すでに閉鎖されて機能していないエリアなだけあって明かりも完全に消灯されており、周囲は闇に包まれていた。


 雷蔵くんから譲り受けた鍵をよく見れば、『第三倉庫』と小さく印字されている。私は息を乱しながら目を凝らし、倉庫を探した。



「……っ、あった!」



 やがて視界に『第三倉庫』というプレートが飛び込んでくる。すぐさま入口に駆け寄り、南京錠のかかる扉を叩いて「綾人くん!?」と呼びかけた。


 倉庫の中からは、微かに嗚咽をこぼす声が聞こえる。



「……! 綾人くん! いるの!?」


「……っ、ひ……ぐ、げほっ……ごほっ……!」


「そこにいるのね!? 待ってて、もう大丈夫だよ! すぐ出してあげるから……!」



 耳に届くのは、かひゅ、こひゅ、と不自然な音で繰り返される呼吸のリズム。苦しげに刻まれるその音の隙間で「ゆ、い……っ」と私の名前が紡がれるのを、確かに耳が拾い上げていた。


 どうやら過呼吸になっているらしい。私は「大丈夫、落ち着いて! すぐ行くからね!」と呼びかけ、南京錠の鍵を解いて扉を開ける。


 錆びた扉の向こうでは、闇に紛れる綾人くんが苦しそうに胸を押さえて蹲っていた。



「綾人くん!!」


「……はあっ、はあっ……! っげほ、ごほっ……ゆ、い……」


「綾人くん、大丈──」


「結衣っ……!!」



 駆け寄った瞬間に強くしがみつかれ、私はバランスを崩して倒れ込む。思わず悲鳴を上げかけたが、「結衣……結衣……っ」と震えて名前を連呼する綾人くんの様子に漏れかけた悲鳴も飲み込んでしまった。


 ガタガタと震えて子どものように嗚咽をこぼしている彼は、強く私に縋り付いて一向に離れようとしない。私はその背にそっと手を回し、「大丈夫だよ」と声をかける。



「綾人くん、落ち着いて。大丈夫。もう怖くないよ」


「はあっ……! う、あ……っ、げほっ、ごほっ……!」


「ほら、ゆっくり呼吸して。大丈夫だから」



 冷え切っているのに体は汗ばみ、綾人くんは取り乱した様子で不自然な呼吸を繰り返していた。それをどうにか落ち着かせようと優しい言葉を言い聞かせ、汗でぐっしょりと濡れた彼の背中を一定のリズムで叩く。



「結衣……っ、う……げほっ……」


「うん。大丈夫。ここにいるよ」


「……っ、ごめ、俺……っ、観覧車、乗るって……」


「いいの。いいんだよ、観覧車なんか乗らなくて。もっと頑張ったもんね。ごめんね、怖い思いさせて」



 幼い子どもに語りかけるように「迎えに来たよ」と囁けば、幾分か安堵したようで強張っていた綾人くんの体からはゆるゆると力が抜けた。


 耳元で繰り返されていた荒い息遣いは、彼を強く抱き締めているうちに少しずつ正常な動作を取り戻していく。震えてしゃくり上げていた嗚咽も次第に収まり、取り乱していた情緒はようやく落ち着き始めたらしい。



「……っ、ごめん……」



 やがて、ぽつりとこぼれ落ちた言葉。少し体を離して視線を交わらせると、彼は顔を逸らしてそっぽを向いてしまった。


 視界が闇に奪われる中、瞳に溜まった涙が頬を伝って地面に落ちるのが見える。



「頼りなくて……情けなくて……すみません……。何から、何まで……かっこ悪いよな……俺……」


「……」


「小学生の時も、そうだよ……体育館倉庫に閉じこめられた俺を、結衣が助けてくれて……でも、俺は泣きじゃくる事しか出来なくて……大事な言葉は、何も言えなかった……」



 今日も同じだ……と力なく嘆いた彼は、私と目を合わせずに地面を見つめた。対する私は暫く黙っていたが──ややあって、カバンの中からある物を取り出し、綾人くんの手を握る。



「……何も言えなくていいよ。情けなくていいし、かっこ悪くてもいいよ」


「……?」


「綾人くんの代わりに、私がいつでも言ってあげるから」



 握り込まれていた指をひとつずつ開き、今しがた取り出したそれを彼の手に握らせる。かさり、触れた透明な包装の中で、転がる黄色い飴玉。


 すっと息を吸い込んだ時、綾人くんは涙の膜が貼る両目を大きく見開いていた。私はその手を握ったまま、彼に微笑む。



「──大好きです、綾人くん」



 告げて、震える体をそっと両腕で包み込んだ。


 汗ばんで濡れた背中に手を回す。

 もう離れないように。

 君にちゃんと伝わるように。



「ずっと、自分の気持ちに気付けなくてごめんね。卒業式の日、傷付けてごめんね」


「……っ」


「私、君が好きだよ。……大好きだよ」



 ストレートな愛の告白を紡ぎ、彼の肩口に顔を埋めた。だいすき、とまた小さく繰り返せば、綾人くんは震える手で私の体を抱き締め返す。



「……俺が、先に、言いたかった……のに……」



 弱々しく呟かれ、私は微笑んで頬を擦り寄せた。



「……遅いよ、待ちくたびれちゃった」


「……そう、だよね……すみません」


「私、すごく不安だったんだから」


「……うん……ごめん……」


「でも、大好き」



 一度告げてしまえば、こんなにもすらすらと言葉を紡げるのだと少しだけ嬉しくなる。綾人くんは小さな声で控えめに笑い、私にもたれかかってきた。



「……うん……俺も……」


「……」


「俺、も……」



 ──しかし、その先の言葉が続く事はなく。


 ぐったりと力無くもたれかかってきた綾人くんの体からは徐々に力が抜け、何の言葉も発せられない。のしかかる体重を支えきれず、よたつきながら「綾人くん……?」と呼びかけるが、反応も返ってこなかった。


 不自然なその様子に眉をひそめた頃、濡れた背中に添えていた手が彼の首元から流れてくる液体に触れる。ぬる、と指先が滑り、私はふと疑念を抱いた。


 彼の背中は、本当にで濡れていたのだろうかと。



「……っ、あ、綾人くん……?」


「……」


「ねえ! 綾人くん、どうし──」



 ──ずる。


 言いさしたところで、ついに綾人くんの体は傾いて地面に倒れる。慌てて彼を支えようと手を伸ばしたが──その時初めて、私は自分の手を見て愕然と息を呑んだ。


 彼の背中に添えていた自分の手が、闇の中で、赤く染まっている。



「……え……?」



 途端に心拍数が上がり、嫌な現実が一気に降り掛かって来た。よくよく考えてみれば、真奈美さんとアイジという男は最初に言っていたのだ。


 ──『頭を殴った』と。


 まさか、と唇を噛んで倒れ込む彼の背中を確認する。

 意識のない綾人くんの後頭部からは血が滴り落ち、首から背中にかけて、真っ赤に染まっていた。



「──っ!! 綾人くんっ!!」



 悲鳴のような声を上げた瞬間、その場には足音が響いて何者かが駆け込んでくる。「アヤヤ!!」と怒鳴って扉を蹴り開けたのは、先程別れた雷蔵くんだった。


 ぐちゃぐちゃと乱れる思考。状況が把握しきれないまま、私はすぐさま彼に駆け寄ると胸元に掴みかかって「どうしよう、綾人くんが!!」と縋り付く。

 混乱して取り乱す私と倒れる綾人くんを交互に見比べた雷蔵くんは、すぐに事態を察したようで。程なくして苦虫を噛んだように表情を歪めた。



「……っ、嘘やろ、あいつ……!」


「ひっ、う、どうしよう、綾人くんが……っ、ごめんなさ、私、真っ暗で……! 全然気付かなくて……!!」


「そんなんええから、ひとまず止血せんと! 俺すぐ救急車呼ぶから、檸檬ちゃんはアイツの傷口を布かなんかで押さえとって!」



 鬼気迫る剣幕で捲し立て、雷蔵くんはすぐにスマホを取り出して耳に当てた。私は涙を落としてしゃくり上げたまま頷き、自身のカーディガンを脱いで彼の傷口に押し当てる。


 赤く染められていく、お気に入りのカーディガン。

 綾人くんは瞳を閉ざし、目を覚まさない。



「綾人くん……っ」


「……」


「綾人くん、嫌だよ……!」



 呼びかける私の声が、狭くて暗い倉庫の中に響いている。二人で実らせるはずだった初恋の果実は、まだその実を結ばない。



「──綾人くん……っ!」



 意識のない綾人くんは、私が手渡した檸檬色の飴玉だけを、いつまでも大事そうに握り締めていた。


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