第5話 無糖が好き
──こん、こん、こん。
控えめに扉をノックして、私は妙な緊張感に苛まれたまま会議室へと足を踏み入れる。
トレイの上にはコーヒーカップが二つ、そしてミルクと角砂糖が一つずつ。どこか気まずさを抱えたままテーブルの上にトレイを置けば、先に佐伯くんが口を開いた。
「いやあ〜! まさか、六藤とAYATOさんが中学時代の同級生同士だったとは……妙な偶然ってあるもんっすねえ!」
「ええ、僕もびっくりしましたよ。この前も街で偶然会ったばかりだったので。……ね、六藤さん」
含みを持った視線を投げかけられ、私は内心たじろぎながら「あ、あは……そうだね……」と笑顔を取り繕う。
偶然会ったどころか酔った勢いで色々ありましたけどね……と密やかに汗を滲ませるが、彼は素知らぬ顔で私に笑みを向けていた。
そんな私達の事情など知る由もない佐伯くんは、いつものように軽いノリで口を開く。
「せっかくだしさー、六藤も座れば? 一応案件にも関わってたんだから」
「え!? い、いや、私は大丈夫!」
「はは、冗談だよ。コーヒーどーも」
佐伯くんは悪戯っぽく笑い、トレイからコーヒーカップを奪い取る。「六藤の淹れるコーヒー、うまいんすよ」と告げてカップに口を付けた彼に対し、武藤くんは「へえ、それは楽しみ」と微笑んだ。
やめてよ、それインスタントなんだから! と私は内心悲鳴をあげて佐伯くんに耳打ちする。
「ちょっと、佐伯くん……! そうやってハードル上げるのやめてよ……!」
「何言ってんだよ、ホントの事だろ? まあ、実際インスタントの粉にお湯淹れるだけなんだけど……ところがどっこい、六藤が淹れると美味しくなるんすよ! 期待して下さい、AYATOさん!」
「もう! やめてったら!」
「いや、冗談抜きで! 六藤って、一つ一つの動作がいつも丁寧だもんな。嫁にしたら料理とか心込めて作ってくれそう」
「はあ!? ば、ばかじゃないの……!」
まさかの角度から褒められ、頬はふつふつと熱を帯びる。軽いノリで何でも口に出すんだから、と佐伯くんを密かに睨み、私は武藤くんの前にコーヒーカップを置いた。
続けて別皿に用意した角砂糖とミルクも手に取ったが、武藤くんは片手でそれを制す。
「ああ、それは大丈夫。いらない」
「え? ……あ……そう?」
「うん。俺、
──ムトウが好き。
不意打ちでそう宣言され、視線が交わった私は思わずどきりと胸を高鳴らせた。
しかしすぐに冷静さを取り戻し、いやいや、今のはどう考えても〝
その時不意に、脳裏を過ぎったのは『
そして再び蘇る、今の発言。
『──俺、無糖が好きだし』
……いやいや、そんなわけない。
「あ……そ、それじゃ、私はこれで……失礼します」
「あれ、六藤。こんだけ俺がプレゼンしたってのにコーヒーの感想聞かなくていいのかよ」
「だ、大丈夫! 仕事残ってるから、戻るね!」
佐伯くんの言葉にかぶりを振って一礼し、私は逃げるように会議室を出た。最後にちらりと武藤くんを一瞥すればまた視線が交わってしまって、それがより気まずさを増幅させる。
私はすぐに顔を逸らし、会議室の扉を閉めて足早にデスクへと戻った。なぜか胸がドキドキと落ち着かないのは、きっと佐伯くんが変な事を言ったせいだ。
私はもう、武藤くんに振り回されて心を揺さぶられたりなんかしない。
そう何度も自身に言い聞かせ、きゅっと唇を噛んで、残っている仕事に打ち込み始めた。
* * *
「お疲れー、六藤! さっきはコーヒーありがとな!」
「……あ、佐伯くん」
一時間ほど経ち、ノートパソコンを片手に持った佐伯くんが打ち合わせを終えて戻ってきた。彼は仕事に集中していた私の頭をぽんと叩き、明るく声をかけて破顔する。
かけていた仕事用の眼鏡を外すと、佐伯くんはどこか恍惚とした表情で顎に手を当てた。
「いやー、AYATOさんって、ほんとイケメンだよなー。同い年なのに落ち着いてるし! しっかし、まさかお前と同中だったとは」
「武藤く……じゃなくて、えと……AYATOさん、もう帰った?」
「おう、たった今一階まで降りて見送ってきたとこ。気になるなら追いかければ? 多分まだ近くにいるぜ」
「お、追いかけないよ! 別に気にならないし!」
「へえ〜?」
ニヤニヤと含みのある笑みを返され、私はむっと唇を尖らせた。「何よ……」と問えば「いや〜?」とわざとらしく首を振る。しかし、彼はすぐに続けた。
「ただ、『無糖が好き』って言われた時、あからさまに動揺してたな〜と思って?」
「なっ……!?」
そうして放たれたのはまさかの発言。
私はぎくりとあからさまに反応してしまい、佐伯くんの口角がますます上がる。
「残念ながらムトウ違いだったけどね〜。でも期待しちゃったのかな〜? 純粋な六藤ちゃんは。可愛いとこあんじゃん、ときめいたわ俺」
「ち、違……っ、そういうんじゃない! ばか! そもそもあんたが変な事言うから……!」
「ごっほん!」
焦燥するあまり、思わず声が大きくなってしまった。当て付けのように発せられた咳払いの主は真奈美さんで、私は頬を引きつらせながら「す、すみません……」と縮こまる。
一方で佐伯くんは笑いを堪えており、今度こそ本格的に殴りたくなった。
「も、もう! ばか! 仕事の邪魔だからあっち行って!」
「くくっ……まあまあ、そう言うなって。俺、実は六藤に仕事を頼みに来たんだよね」
「はあ? 何──」
──コトン。
ふと、デスクの上に置かれたのは見覚えのないスマートフォン。一体何だろうかと訝る私に、佐伯くんの口元は悪戯な笑みを描く。
「それ、忘れ物。AYATOさんの。今コーヒー片付けてる時に見付けた」
「……え!?」
「さすがにスマホ忘れんのはまずいっしょ? でも俺この後ミーティングあるからさ、それ六藤が返しといて。交通系のICカードも入ってるっぽいし、多分バス停か駅で向こうもスマホない事に気付くだろうから最悪そこまで追いかければ出会えると思──」
「ちょ、ちょっと待ってよ! バス停か駅って、全然場所違うじゃん! 大雑把すぎ……!」
すぐさま反論する私だったが、すぐに「佐伯〜!」と他のシマから呼び声がかかった事で口を噤んだ。件の佐伯くんは「あ、はい! すぐ行きます!」と慌ただしく声を張り上げ、私から離れていく。
「悪い、六藤! 俺モテるんだよ! イケメンは辛いね! あとよろしく!」
「ええ!? ちょ、ちょっと……!」
「頼んだぞ!」
ジェスチャーで『よろしく!』と両手を合わせながら去る彼に、私はしばし唖然としてしまったが、やがて深い溜息を吐きこぼして肩を落とした。
視線の先には、武藤くんのスマホ。
名刺入れとか衣類ならまだしも、昨今では財布の役割も担っているスマホを忘れていくのは些かまずい。
「……さすがに、届けないとだめよね……」
連絡も出来なくて困っているかもしれないし、と私は重たい腰を上げ、渋りつつもそれを手に取る。
かくして私は、不本意ながらも佐伯くんから放り投げられた仕事を請け負い、武藤くんが忘れていったスマートフォン届ける事になったのだった。
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