第6話 甘いのが好き

 席を立った私はキョロキョロと周囲を見渡しながら職員がまばらに歩く通路を進み、エレベーター前のソファに腰を下ろす。

 手の中には武藤くんのスマートフォン。すれ違う人々の顔を注意深く目で追うが、目立つ金髪の彼の姿は見当たらない。


 スマホなんて忘れたらすぐに気が付くだろうし、普通は慌てて戻ってくる。しかもここはオフィスビルの十二階だ。無闇にこの階から飛び出しては、エレベーターに乗っている間に入れ違いになってしまいかねない。


 つまり、あえて追いかけず、武藤くんが戻ってくるのを待つのが吉。


 そう考え、私はエレベーター前のソファに腰掛けたまま彼の事を待っている。の、だが。



「……なかなか来ないなあ」



 打ち合わせが終わってから、かれこれ十五分は経つだろうか。武藤くんが戻ってくる気配は一切ない。


 もしかして、スマホを忘れた事に気付いてない? いやそんなまさか、と眉根を寄せるが、でも有り得るかも……? という考えも頭を過ぎる。


 様々な思いを交錯させ、私はついに痺れを切らして立ち上がった。昇りのエレベーターが動いている気配もない。入れ違いになるかもしれないが、ここは腹を括って駅まで追い掛けるしか──と、そう考えた時。



「……あ、六藤さん?」


「!」



 不意に耳に届いたのは、今まさに追いかけようとしていた彼の声。振り返れば、想定した方面とは全くの逆方向から武藤くんが現れる。「武藤くん!」とつい大きめに声を発し、私は彼に駆け寄った。



「えっ……ど、どうしてそっちから!? エレベーターここにしかないよ!?」


「ああ、階段で来た。筋トレついでに」


「階段っ!? ここ十二階なんだけど!?」


「うん。わりとキツかった」



 いやキツかったって……と呆れる私の手元へと視線を移した武藤くんは、「あ、俺の」と指をさす。私はハッとスマホの事を思い出し、それを彼へと差し出した。



「あ……これ、忘れ物」


「あー、良かった、見つかって。バス停で気付いてさ」


「もう……気をつけなよ」


「うん。ありがと」



 武藤くんは涼しげな顔で顎を引き、「階段ってどこだったっけ」と踵を返す。そんな彼を私は慌てて引き止めた。



「ま、待って、また階段で降りるの!? エレベーター使いなよ……!」


「俺、あんま好きじゃないんだよね、狭いところ。さっき佐伯さんと乗ったけどマジで死にそうだった」


「え……そ、そうなの?」


「うん。ってわけで、階段まで案内して。六藤さん」



 ちょいちょいと手招きされ、私は躊躇いがちに視線を泳がせながら仕方なく彼と並んで歩き始める。ただそれだけの事なのに、一度体を重ねてしまったという事実があるせいで妙に意識してしまうのが何だか気まずい。


 明るい髪色、ラフな格好、無駄に整った顔。

 このフロアに属すどの企業の社員とも明らかに異色の雰囲気を放つ武藤くんは、時折すれ違う他社の職員から当然のように好奇の視線を向けられていた。そんな彼の隣を歩く事に若干の居心地悪さを感じつつ、私は早足で武藤くんを階段の入口へと案内する。



「階段、ここから行ける……」


「ん、ありがと」


「……ねえ、本当にエレベーターじゃなくていいの? 大変だよ?」


「まあ、登るよりは降りる方がマシだから。別に大丈夫」



 いや、確かにそうかもしれないけど……と私は一瞬口篭った。降りる方がマシとはいえ、十二階から一階まで降りるなんて結構キツいと思うのだが。



「……あの、階段踏み外して落ちたりとかしないようにね? この階の階段なんて誰も使わないから、助けなんてこないよ……」


「何言ってんの、踏み外すわけないじゃん。子供じゃないんだから」



 肩を竦め、武藤くんは薄暗い階段へと続く扉を開ける。一応見送ろうと私も扉の奥へと足を踏み入れれば、不意に武藤くんが飴玉の包みを取り出して口の中に放り込んだ。


 ガチャン、と閉まる扉の音と同時に、一瞬漂う檸檬の香り。オレンジに染まる非常階段での思い出が蘇り、私の心臓はどきりと跳ねて足が止まる。



「……何?」



 たじろいだ私に問い掛け、武藤くんは表情ひとつ変えずに階段を一段降りて振り向いた。「あ……」とぎこちなく声を漏らして首を横に振れば、しばらく互いに沈黙した後、無意識に握りこんでいた私の両手に彼の手が伸びる。



「……ねえ、六藤さん」


「……」


「階段に二人きりって、懐かしいと思わない?」



 静かに放たれた声は、誰もいない階段に反響する。伸ばされた手が触れて、私は熱を帯びる頬を隠すように俯いた。



「いつも非常階段だったよね、する時。人が来ないからって理由で」



 一度下りた階段をまた上がり、武藤くんは握り合わせていた私の手を解くと自身の指を絡める。俯いたまま目を合わせない私の前髪を掻き分け、背後の壁にとんと私の背中を押し付けて、彼は顔を近付けた。


 武藤くんが何をしようとしてるのか、そんな事は既に分かりきっている。



「……ま、待って……」


「やだ」


「ひ、人が来ちゃうよ……」


「こんなとこ誰も来ないって、さっき自分で言ってたじゃん」



 残念でした、と囁き、彼は奥歯で飴玉を噛み砕く。


 君が檸檬の飴玉を噛み砕いたら、それはキスが始まる合図──顔をもたげた私と彼の視線が交わった瞬間、合図にたがわず唇は塞がれた。


 あまりに唐突な展開についていけず、彼を拒もうと胸を押し返す。けれど武藤くんは優しく唇を啄み続けて、やがて口内へと滑り込んだ舌が私から拒絶の言葉をさらっていった。

 重ねられた唇の隙間からは吐息混じりの声が漏れ、私は困惑と戸惑いに満ちる胸の前で彼の手をぎゅっと握り込む。


 口内を優しく撫でる彼の舌からは、檸檬の酸味に混じって苦い珈琲の味がした。



「……っ、ふ、……ぅ」


「……六藤さんの淹れたコーヒー、俺にはちょっとイマイチだった」


「……、え……?」


「あの男さ、やたら六藤さんのコーヒー絶賛してたじゃん。でも俺にはあのコーヒー合わないや、苦いのあんま好きじゃないし」



 一瞬唇が離れ、武藤くんは不意にそんな言葉を紡ぐ。苦いのが好きじゃない、とのたまった彼に、私は些か困惑した。


 だって、さっき、「無糖が好き」って言っていたのに。


 閉じていた瞼を薄く開けば、至近距離で視線を交えたまま彼は続ける。



「……俺は、こっちの甘いのが好き」



 つう、と私の下唇をなぞる舌先。あまりに甘美な含みを持つその発言。

 何かを答える隙もなく再び唇を重ねられた私は、舌を絡め取られて更に深く貪られた。


 くぐもった声が漏れ、目眩がしそうなほどの熱がくらくらと思考を麻痺させて、吐息を乱す以外には何も出来ない。何も考えられない。


 それどころか、胸の奥ではこの状況に歓喜しているかのような錯覚まで襲い掛かってきて──そんなわけない、と私は自身を咎めながら口を開く。



「む、と、くん……っ、だめ……!」



 触れ合う唇の隙間で言葉を紡いで、ようやく彼に意思を伝えた。だがすぐに「嘘ばっか」と離れた唇が耳元に移動する。



「そんな物欲しそうな顔して、だめなんて言われても説得力ないから。俺が飴玉舐めただけで顔真っ赤にしてさ」


「……っ」


「あと六藤さん、背中弱いよね。特に肩甲骨のあたり。キスする時ここなぞるとすごい濡れるの知ってるよ、俺」


「あ……っ」



 肩甲骨の周囲に指が伝い、ぞくっと肌が粟立って下腹部の奥が痺れる。思わず声の漏れた唇を噛んで距離を取ろうとするが、引けた腰元を押さえつけた彼は執拗に私の弱い所を指でなぞった。



「……っ、武藤くん……!」


「感じやすいとこも、声も、表情も……六藤さんって、全部可愛いと思う」


「な、何言ってるの……変な冗談やめて……!」


「冗談でも嘘でもないよ。ほんとに可愛い。すげー可愛い。……中学の時から、ずっとそう思ってた」



 背中に回された手が徐々に位置を移動し、首の裏側をなぞりながら髪をひとふさ掬い上げる。擽ったいようなむず痒いような感覚に吐息を漏らせば、武藤くんは私の唇を掠め取って続けた。



「……だからあの時、再会して、カラオケで話して……ちょっと舞い上がってた。酔った勢いで、後先考えずに色々……好き勝手にしすぎたと思う。ごめん」


「……!」


「俺、六藤さんに再会してからおかしいんだよ。ずっと忘れてた記憶どんどん蘇って、胸が痛くなったり、頭抱えて後悔したり、六藤さんの事が頭から離れなかったり……」



 こつ、と額が触れ合い、武藤くんは未だに握ったままの私の手を指先で撫でる。どくどくと騒がしい胸の鼓動が私の内側で早鐘を刻む中、「これって、何でだと思う?」と彼は問いかけた。


 その答えを、私は知らない。

 ……嘘だ、本当は知っている。彼の言うその感覚には確かに覚えがある。


 遠い昔に、私が知らないふりをしたもの。

 中学を卒業した後に君を街で見かけたあの日、全部くしゃくしゃに丸めて、未完成な不良品のまま投げ捨ててしまった檸檬色の何か──。



「……そんなの、分かんないよ」



 けれど私は答えを示さず、目も合わさずに告げて武藤くんの手を解いた。同時に彼の胸を押し返す。



「分かんないから、もう帰って……」



 力なく続けて彼の拘束を抜けようとする私。だが、武藤くんはその場を動かなかった。



「ねえ、六藤さん。付き合ってよ」



 更にはそんな言葉まで飛び出し、私は肩を震わせてあからさまに狼狽える。しかしすぐに「練習に」と付け加えられ、一瞬眉をひそめつつも首を横に振った。



「……い、嫌だよ……もう中学生じゃないんだから、恋愛なんて練習しなくても出来るでしょ」


「そう言うって事は、六藤さんはもう恋愛の感覚マスターしたんだ? そうだよね、元彼とは同棲してたんだもんね。だったらさ、その感覚教えてよ。俺わかんないから」


「何言ってるの、嘘つき! カノジョぐらい居た事あるでしょ!」


「カノジョは出来ても、それが本当に恋愛だったのかは分かんないじゃん。……俺、自分から誰かに告った事なんてないし」



 小さく言葉を付け加えた武藤くん。その表情にはほんの一瞬だけ暗い影がさしたように思えた。

 私は言葉を詰まらせ、「ねえ、だめ?」「少しの間だけでいいから」と強請ねだる彼に視線を泳がせる。


 嫌って言わなくちゃ。

 都合のいい女になるなんて御免だ、って断らなきゃ。


 そう心の中では分かっている。分かっているのだ。



『ねえ、六藤さん。あのさ──』


『俺と、恋愛の練習しない?』



 けれど、十年前のあの日。廊下で武藤くんと向かい合ったあの頃の記憶が、脳裏をよぎって。


 勝手に動き出した唇は、自分の意思と違う言葉を紡いでしまう。



「……け……」


「……」


「……携帯番号ぐらいなら、教えても……いいよ……」



 ふわり、上がる口角と鼻先を掠める檸檬の香り。

 頭の片隅に過ぎるのは、オレンジ色に染まった放課後の非常階段。


 あの頃確かに存在していた痺れるような感情の名前を思い出さないようにしながら、私は抗う事もせず、迫ってきた彼の唇をまた受け入れてしまっていた。


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