第15話 俺のだから

 車から出て来た男に迫られ、じりじりと後退しているうちに壁際へと追い詰められる。私は電源の切れたスマホを握り締め、震える声を絞り出した。



「あ、あの、ごめんなさい……! やっぱり私、今日は行けません……っ」



 私よりも一回り体格が大きく、身長差も頭一つ分以上ある男。その威圧感に息を呑んでいると、彼はきょとんと首を傾げる。



「え? どーしたの六藤ちゃん。昨日は乗り気だったじゃん」


「そ、その……私、今日体調悪くて……」


「えー? そんな風には見えないけど〜」


「いや、あの……お、お腹が……! お腹が痛いんです、ごめんなさい……!」



 必死に絞り出した虚言を紡げば、男は垂れ下がった目を細めた。暫し黙り込んだ彼は私を見下ろし、やがて「あー、なるほど〜」と顎を引く。



「そーいうアレね。大丈夫大丈夫、俺、全然気にしないから」


「……え?」


「──生理なんでしょ? 大丈夫だよ、風呂入ればいいし」



 にこり。不気味に上がる口角。


 紡がれた言葉が一瞬理解出来ず、しばらく経ってから「……は……?」と消え去りそうな声を返すのが精一杯だった。



(生理でも気にしないって……風呂に入ればいいって……それってつまり、今から私とそういう事しようとしてる……?)



 彼の目論見をようやく鮮明に把握し始め、私は今度こそ強い危機感を覚えた。


 飲みに行こう、と誘ったくせに、車のエンジンを切って降りてきた彼。つまりあの車を動かす気はないという事だ。


 わざわざ職場じゃなく家に迎えに来たのも、最初から部屋の中に入るため。その後の展開を想像してしまい、全身から血の気が引いていく。



「……っ! や、やだ……無理です、帰ってください!」


「大丈夫だって、恥ずかしくないよー。俺そういうの気にしないってば」


「そういう問題じゃなくて……!」


「あ、それとも何、ベッド汚れるの気にしてる? じゃあ風呂の中でしよっか。それも燃えるよね」


「……っ」



 だめだ、話が通じない。


 ついに追い込まれた私は腕を取られたが、反射的に「嫌!」と振り払った。しかしすぐに強い力で握り込まれ、痛みに表情を歪めた私は今度こそ息を呑んで血の気を失う。


 男は私を見下ろし、続けて口を開く。



「……あのさァ、六藤ちゃん。あんたさ、責任とか感じないわけ?」



 向けられた表情は笑顔だったが、その瞳にはどこか濁った悪意を感じた。「責、任……?」と声を震わせれば、彼はずいと私に迫る。



「俺さぁ、あの合コンで、あんたと消えたいけ好かねー兄ちゃんに便所の扉ぶつけられたわけよ。その後でっけーアザになってさあ、めちゃくちゃ痛かったわけ。アレ、傷害罪とかで訴えられんじゃね? 慰謝料請求しちゃう?」


「……っ」


「でもさー、俺けっこう六藤ちゃんの事お気に入りだし? 揉め事とか嫌だな〜って思うわけ。だからさ、一晩相手してくれたらチャラにしてあげよーって言ってんの。察せないのかな~、そういうの」


「……あ……」


「だからさあ──」



 ──めんどくせえ抵抗すんなよ。


 握り込まれた腕に力が篭もり、笑顔を浮かべる口元から底冷えするような声を囁かれた。脅迫さながらの意味合いを孕むそれを耳が拾い上げ、私は戦慄せんりつしながら立ち竦む。


 体格差が大きく、自力で彼の拘束を抜け出せる可能性など限りなくゼロに等しい。もし強引に抵抗したら殴られてしまうのではないか。最悪殺されてしまうのではないか。そんな負の未来ばかりを想像してしまって、言いようのない恐怖が胸を覆っていた。


 節くれた大きな手が腰に回り、歩くよう無言で促される。恐ろしくて何の声も出せない私は、真っ白に染まっていく頭の中で必死にこの状況を打開する術を探した。


 しかし何の打開策も思いつかないまま、震える足が男の誘導に従ってその一歩を踏み出してしまう。


 ああ、どうしよう、怖い。

 誰か助けて──と、そう心の中で叫んだ瞬間。


 その場に駆け込んでくる足音と共に、私の名前を呼ぶ声が響いた。



「──結衣!!」


「……!」



 張り上げられた声。同時に感じた温もり。

 男が握っているそれとは逆側の腕を掴み取ったその人は、荒らぐ呼吸を繰り返して上下する胸元に私の体を引き寄せた。


 顔をもたげれば、苦しげに息を乱す武藤くんと視線が交わる。しかしすぐに彼の視線は私の腕を捕らえている男へと移ってしまった。一方で、男も訝しげに眉根を寄せる。



「……は? 何、誰?」


「……はあっ……、すみません、離してもらえますか……この子、俺との先約があるんで」



 息を整え、武藤くんは低く声を紡いで男を牽制する。しかし当然男に引き下がる気配はなく、彼の言葉を鼻で笑い飛ばした。



「ハア? いきなり出てきて何言っちゃってんの。先に約束してたの俺なんですけど? 六藤ちゃんも乗り気だったし」


「……悪いけど、結衣はアンタんとこには行かないんで」


「いや何勝手に決めてんだよ」


「勝手じゃねーよ。俺が行かせないって言ってんだ」



 回された手に力が篭もり、武藤くんは男を睨み付ける。男もまた眉間に深くシワを刻み、煩わしげに彼を睨んでいた。



「悪いけど帰って。結衣は俺のだから」



 やがて武藤くんの口から飛び出した発言に、私の胸はどきりと跳ねる。結衣は俺の──その言葉はきっと、この状況を丸く収めるためについた嘘だ。そう頭では分かっていても、素直に頬が熱くなった。


 目の前の男は眉を顰め、舌打ちを放つとそれまで掴んでいた私の手を離す。



「……あー……何? そういう事?」



 程なくして、男の目が今度は私を睨んだ。思わずびくりと肩を震わせてたじろいだが、武藤くんは私を庇うように背後から腕を回して抱き寄せる。



「なあ、六藤ちゃんよォ、お前さあ、大人しそうなナリしてそういうヤツだったわけ? 昨日は思わせぶりな態度取って誘いに乗ったくせに、直前で男乗り換えるとか……何それ、マジ意味わかんねーんだけど」


「……っ、ち、違……」


「ハア? ははっ、何が違うんだよ、ウケる! びっくりするぐらいサイテーじゃんこの尻軽女! 可愛い顔して本性はそれかよ、性悪すぎて笑える! おーい、ご近所さん見てます!? こいつとんでもないクソ女ですよ!!」



 彼はこれ見よがしに声を張り上げ、私を指さす。張り上げられた大声は周囲に住む人々の耳にも届いたのか、近くのマンションのベランダや窓際には人の姿がチラつき始めた。ざわめきが大きくなり始める中、舌打ちを放ったのは武藤くん。



「……おい、黙って消えろよお前」



 事実無根の言葉を叫ぶ男を睨み、武藤くんが凄む。しかし男は鼻で笑い、彼の肩を突き飛ばした。よろけた武藤くんを慌てて支えれば、皮肉混じりに男は嘲笑する。



「お前も気を付けた方がいいぜ、弱そうなイケメンくん。どうせお前もその女にとっちゃ暇潰しの道具なんだよ。清楚そうな顔してる女ってのは、実は一番性格悪いんだからさァ。心ん中じゃお前の事も嘲笑ってる」


「違……っ、そんな事……!」


「うるっせーな、お前は黙ってろよクソ女!!」



 発しようとした主張を大声で遮られ、私は息を呑んで竦み上がった。そんな私を蔑むような目で見下ろして、男はポケットに手を突っ込む。



「あーあ、マジで気分悪ィわ。お前の悪行は真奈美ちゃんにしっかり報告しとくからな。最低な性悪だったって」


「……っ」


「それじゃあお元気で、クソ女と可哀想なイケメンくん。二人で仲良く腰振り合ってろ、クソ同士でお似合いじゃん。ははは!」



 男は歪んだ笑みを描きながらアパートの壁を蹴りつけ、地面に唾を吐き捨てると停めていたハリアーに乗り込み乱暴に扉を閉めた。そのままエンジンをかけ、当て付けのようにけたたましいクラクションを鳴らしながら駐車場を出ていく。


 普段は静かな住宅街。過ぎ去る喧騒が私達の元へ残していったものは、周囲の人々から向けられる物珍しげな視線。


「なあに? 修羅場? カップルの喧嘩?」

「不倫かしら」

「いや、状況的に女が寝盗られたんだろ」

「あの娘が二股かけてたって事? やだー」


 そんな会話がかろうじて耳に届き、あらぬ誤解が生じているのではないかと私は焦燥に駆られた。だが声を大にして「違います!」と叫ぶような勇気もなければ、そんな気力すらも湧いてこない。


 ほんの僅かな断片しか見届けていない野次馬ギャラリー達の目には、〝男をたぶらかした悪女〟として私の姿が映っているらしかった。

 ひそひそ、どこからともなく囁く声。全方位から蔑むような視線を向けられているような錯覚に陥り、唇が震えて目眩がしそうになる。


 そんな中、武藤くんは俯く私を腕の中から解放し、とんと背中を叩いた。



「……一旦、家ん中入ろ」


「……、うん……」



 悪意を孕む視線の数々から私を守るように支えて、彼は歩き出し、私もとぼとぼと前に進み始めた。



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