第24話 檸檬の飴玉
お風呂場を出て、ふかふかのタオルで濡れた体を拭く。ドライヤーで髪を適度に乾かした私は、ふうと深呼吸をひとつして脱衣所を出た。
──私、多分、今から彼に抱かれる。
なんとなくそんな予感を感じ取って、普段よりも入念に体を清めたつもりである。下着も可愛いものを選んだし、歯も長めに磨いておいた。うん、大丈夫。きっと大丈夫。
そう自身に言い聞かせ、廊下を進んでリビングへと戻る。綾人くんの姿は既にキッチンになく、食洗機の中に洗い終わったお皿だけが綺麗に並べられていた。
(あ……食洗機とかあるんだ。さすが……)
密やかに感心し、ぴかぴかのお皿を見つめながら綾人くんに借りた服の裾を握る。その時ふと、私の視界には檸檬の飴玉が入った袋が飛び込んできた。
「……あ……」
無意識に足が動き、自然と檸檬の飴玉に手を伸ばす。彼がいつもキスをする時に噛み砕くそれは、キッチン近くの戸棚に置かれたカゴの中にまとめられていた。
その中のひとつを手に取って、私は不意にある事に気付く。
(……綾人くんって、この飴玉以外……檸檬味の何かを食べてる事って、ほとんどないような……?)
そう考え、私は顎に手を当てた。
一度、公園でレモンサイダーを飲んでいるところなら見た事があるが──あれも一口か二口程度の少ない量を喉に流し込んだところを見ただけで、残りを飲み切ったのかどうかはわからない。
お酒はいつもビールかワイン。食べ物にカットレモンを絞っているところを見た事もないし、冷蔵庫や部屋の中にも檸檬味の製品は他に見当たらなかった。
けれど中学時代、彼が口の中で転がすのはいつも決まってこの飴玉。
よっぽど檸檬味が好きなのだろうと思っていたから、私は綾人くんの面影を無意識に追いかけて、嫌いだったはずの檸檬味の商品ばかり買い集めるようになったというのに。
でも、もしかしたら──
「──綾人くんって……檸檬味のものが、特別好きってわけじゃない……?」
呟き、手の中の飴玉をまじまじと見つめる。だが、もし本当に好きではないのだとしたらなぜ彼が持ち歩いているのはいつも檸檬の飴玉だったのだろう。
十年前、私との〝練習〟が始まる前から持っていて──再会した時も、彼はそれを持っていた。
「……檸檬……飴玉……」
ころり、手の中で転がるそれを見つめる。その時、不意に綾人くんの部屋の扉が開いた。
「──何してんの」
「!」
背後から腹部に回された手が私を引き寄せ、とんと肩に顎が乗る。密着する体温に心拍数が上がる中、綾人くんは私の耳に唇を寄せて「風呂、長すぎ」と低音で文句を紡いだ。
私は手の中の飴玉をサッとスウェットのポケットに押し込む。
「……あ……っ、ご、ごめん……」
「あと、髪まだちょっと濡れてる。乾かすの下手なの?」
「ひゃ……っ」
濡れた髪を掻き分けられ、さらけ出された首元に軽く口付けられる。わざとらしいリップ音と共に何度も唇を押し当てられ、やがて綾人くんは私を抱き上げると革のソファの上に押し倒した。
「……あ、綾人くん……」
「ん?」
「ベッドで、するんじゃないの……?」
「待ちくたびれたから、もうここでいいや」
言いながら、彼は私が履いているスウェットの紐を解く。緩く結ばれていたそれは容易く解け、オーバーサイズのスウェットは容易く膝下まで下げられた。
体温が上昇するのが嫌でも分かり、私は咄嗟に脚を閉じて彼から目を逸らす。
「……俺の服だと、脱がしやすくていいね」
「や……綾人くん、電気消して……」
「やだ、結衣の顔見たい」
不意に下の名前を囁かれ、こんな時ばかり名前呼ぶなんてずるい、と不服をあらわに眉根を寄せる。不埒に動く指先は上に着ていたトレーナーも捲り上げ、瞬く間に下着姿をさらす事になった私は明るい電灯を恨めしく思いながら身をよじった。
「……あー、やば……俺の服着てんのが尚エロく見える……」
「あ、あんまり、見ないで……恥ずかしいから……」
「いや、見るに決まってんじゃん。残念ながら俺も男なもんで」
「あ、待っ……」
ぷつり、下着の留め具が外されて緩まる圧迫感。容易くずらされた布の隙間から指先が侵入し、素肌の上を滑ってぞくりと背筋が甘く痺れる。
頬が触れ合い、耳朶を軽く食まれて、唇からは熱を帯びた吐息が漏れた。
「……結構久しぶりかも、結衣に触るの」
「……っ、ねえ、やっぱり電気消そうよ……恥ずかしい……」
「やだ、全部見たい」
「あ……!」
下着の中に入り込んだ指先が不埒に
特に綾人くんへの気持ちを自覚してしまった今、普段よりも肌の感度が上がっているような気さえしていた。まだ大して触れられてもいないのに既に下腹部の奥はぞくぞくと疼いて、昂ったその熱を求めてしまっている。
そんな私の反応を、綾人くんは見逃してくれなかった。
彼は私の体に舌を這わせながら「今日、なんかいつもより反応いいね」と囁いて口元に満足げな弧を描く。
「声も可愛い。いっぱい声出していいよ、ここの壁分厚いから」
「……っ、や、やだ……恥ずかし……から……」
「えー、聞きたいのに」
空いた手で愛おしむように頭を撫で、優しすぎるほど丁寧に頬や瞼に口付けが降りてくる。ギシリ、軋むソファの音ですら扇情的な色香を含み、私の聴覚を刺激した。
「俺の手、冷たくない? 大丈夫? 一応カイロでずっと温めておいたけど」
「……あ……う、ん……」
「寒かったら言って、暖房つけるし」
「……っ、うん……」
「……ま、今から嫌というほど体あたためてやるつもりだけど」
不敵に笑う口元。どきりと心臓が掴まれると同時に後頭部を撫でていた手は顎を掴み、そっと
あ、今日は、飴玉がなくてもキスしてくれるんだ──。
そう理解して目を閉じた。──しかし、その時。
不意に玄関がガチャンと音を立てた事で、私と綾人くんは目を見開いた。
「……っ!?」
弾かれたように振り向き、鍵が解錠された音に息を呑む。
え、誰か入ってきた……? と背筋を冷やせば、綾人くんが焦ったように「マジか……!」と苦くこぼして床に脱ぎ捨てられていたトレーナーをすぐさま私に被せた。
サイズの大きいトレーナーで露出していた肌を隠したのも束の間──突如リビングの扉が勢いよく開き、ギターケースを背負った奇抜な長髪の男が満面の笑みでその場に現れる。
「
「……」
「……てぁ?」
怒涛の勢いで放たれた声が矢継ぎ早に言葉を紡いで、僅か一秒後。互いに動きを止めた私たちの間には長い沈黙が訪れる。
硬直する半裸の私と、それを隠す綾人くん。そして今しがた入室してきた男の人。
耳鳴りがしそうなほどの静寂に包まれる部屋の中──やがて先に口火を切ったのは、見知らぬ奇抜な彼だった。
「……あれま、びっくり。俺ちゃまのおらん間に、マイビッグフレンド・アヤヤが素人童貞を卒業して──」
──ボゴォッ!!
彼が声を発した刹那、目にも止まらぬ速度で綾人くんに掴み取られたクッションは豪速球となって風を切り、男の人の顔面に綺麗に直撃したのだった。
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