第22話 月が綺麗と呼吸する

 とぷりと日が暮れ、ネオンの光が街を包み始める午後六時。変な噂が回っているらしい職場内で、私は悪意を孕む視線にさらされたまま一日を過ごした。


 一部の同僚には佐伯くんが説明してくれたのか「大変だったね」と上辺だけの労いの言葉をかけてもらえたが、居心地の悪さが改善されるわけでもなく。来たる年末に向けて忙しそうに働く同僚をぼんやりと眺めながら、私は逃げるように定時で帰宅する事になったのだった。



「……お疲れ様でした」



 いつもより控えめに声を紡げば、返ってくるのもいつもより控えめなそれ。向けられた視線はどこか冷たくて、私は密かに両手を握り締めながら俯いた。


『若手のくせに定時で帰ってんじゃねーよ』

『また男遊びですか』

『企画も通らねーし、雑用もろくに出来ねーし、ほんと使えねーなぁ』


 そんな幻聴が聞こえる気がして、嫌な妄想に蝕まれる思考回路を断ち切りながら早足でオフィスを出る。


 細い通路を進み、十二階から一階まで降りていく狭いエレベーターの中。何の気なしにすれ違う他社の人々の視線でさえも恐ろしく感じて、私は足元ばかりを見つめながら会社のゲートを出た。


 あの人も、この人も、受付に座る人達ですらも。みんな私の事を指さして、あざけっている──そんな被害妄想が、心を徐々に侵食していく。



(……どうしよう……息苦しくなってきた……)



 考えれば考えるほど、自分が何の使い物にもならない〝不良品〟のように思えてくる。


 人並みに頑張っているつもりなのに、実力が伴わなくて苦しい。何も悪い事なんてしていないのに、誤解されて悔しい。


 思わず目頭が熱くなった。ぐっと唇を噛んで迫り上がる嗚咽に耐え、オフィスビルを足早に出る。


 しかしずっと下を向いて歩いていたせいで、突として視界を遮った目の前の影にすら気付けなくて。


 ──ドンッ!



「きゃっ!」



 早足で歩くまま目の前の誰かにぶつかってしまい、その衝撃で噛み締めていた唇に痛みが走った。私は慌てて「すみません!」と離れたが、その手はすぐに掴み取られる。



「……ちょっと、何すんのよ」


「……! 真奈美さん……っ」



 なんと、ぶつかった相手は今一番会いたくない真奈美さんだった。私がサッと顔を青ざめたのが分かったのか、彼女はフンと嘲るように鼻を鳴らす。



「六藤さん、今帰りなの? の方が仕事よりも忙しそうだものね。お疲れ様~」


「……っ、あ、あの! 私、あんな噂みたいな事は一切してません! 嘘の噂なんて、もう流さないでください……」


「えー、何の事ぉ? 私、本当の事しか言ってないけど~」


「嘘ばっかり! 私、男遊びなんてしてな──」


「──六藤さん?」



 荒らげようとした声を遮り、不意に呼びかけられた名前。直後、真後ろから伸びてきた手が私を引き寄せた。



「……!」


「……何してんの。こんな往来の真ん中で」



 よく知る声と、檸檬色の髪。現れたのは呆れ顔の綾人くんだった。その顔を見た途端に強張っていた肩の力が抜け、苦しかった胸の圧迫感が緩まる。


 しかしその一方で、真奈美さんは瞬時に目の色を変えた。



「あら……? あなた、どこかで……」


「……!」


「え、待って……あなた、もしかしてAYATOさんじゃないですか!? ネットを席巻させた歌い手RAIZOライゾーの、専属映像クリエイターの……!」



 声を張り上げた真奈美さん。対する綾人くんはあからさまに眉根を寄せて嫌そうな表情を作った。


 しかし、彼女は興奮冷めやらぬ様子で更に言葉を続ける。



「えっ、AYATOさんでしょ!? 本物!? うちの部署の企画でコラボしてるって噂はあったけど、ホントだったんだぁ~! あの、私、実は〝ライムライト〟の大ファンで! 特にあの動画が一番好きでした! ほら、デビュー作の──」


「──すみません、人違いなんで。ほら行こ、六藤さん」



 矢継ぎ早に紡がれる真奈美さんの言葉を強引に遮り、綾人くんは私の手を引く。わけも分からず彼に連れられるまま歩き出せば、何やら背後から真奈美さんの物凄い視線を感じたけれど──振り返る事も出来ずに、そのまま彼女に背を向け続けた。


 しばらく足早に並木道を進み、やがて人気ひとけの少ない川沿いに差し掛かった頃。綾人くんは不意に足を止める。



「……ごめん。いきなり引っ張って」


「……ううん」



 首を横に振りながら背後を一瞥するが、もう真奈美さんの姿は見当たらない。ホッと胸を撫で下ろしたその時、握られていた手はゆるゆると離れた。



「……あの人、六藤さんの同僚? もしかしてなんか話してた? 邪魔したかも、すみません」


「……ううん、大丈夫。むしろ、綾人くんが来てくれてよかった……」



 安堵感から思わず下の名前で呼んでしまった私に対し、彼は一瞬目を見張った。が、すぐに口元を片手で覆い隠すと「ああ、うん……。名前、言えるようになったんだ……」とくぐもった声を紡ぐ。


 その顔が、その声が──なぜだかとてつもなく愛おしいものに思えて。私は目を細め、また泣きそうになる衝動に耐えながら俯き気味に口を開く。



「……何、してたの……? 会社の前で……」


「いや、六時に迎え行くって言ったじゃん」


「あ……そっか……そうだったね……忘れてたや」



 へら、と数回瞬きながら笑顔を作り、顔を上げて「ごめんね、わざわざ。ありがと……」と告げる。すると彼は「別に……」と頬を掻き、私から目を逸らした。


 綾人くんって、本当に優しい人だと思う。

 さっきの真奈美さんの反応を見るまですっかり忘れていたが、一部の界隈では有名なクリエイターなのだ、彼は。


 才能があって、人に認められる技術があって、過去も未来もきらきらと輝いている人。それなのに、私みたいな出来損ないの〝不良品〟の事まで、こうして迎えに来てくれる。どこまでも優しい人だと思う。私とは、全然住む世界が違う人なのに。


 そう自分を卑下しながら考えていれば、綾人くんは訝しげに眉根を寄せた。



「……なんか、元気なくない? 大丈夫?」


「え……? そ、そうかな、そんな事ないよ。仕事が忙しくて、少し疲れちゃったのかも……」


「ていうか六藤さん、唇……切れて血が出てる」


「あ……」



 指摘されてすぐさま唇に触れれば、指先には確かに僅かな赤い血が付着する。どうやら先ほど真奈美さんにぶつかった際に切れてしまったらしい。



「だ、大丈夫。平気」


「……ちょっとじっとして」



 平気だと言ったのだが、綾人くんは背負っていたリュックからポケットティッシュを取り出すと私の唇に押し当てた。ぴりりと滲みた痛みに顔を顰めれば、「あ、ごめん、痛い?」と不安げに問い掛けられる。



「……う、ううん……大丈夫……」


「傷小さいし、すぐ血は止まると思うけど……一応帰ったら消毒する?」


「……うん。ありがと」



 控えめに頷き、綾人くんを見つめた。至近距離にあるその顔はいつも通り端正に整っていて、やはり狂おしいくらいに心臓が掴まれてしまう。


 とくん、とくん。繰り返す心臓の音。


 十年前もそうだった。知らないふりをし続けていたけれど、本当は、ずっとこの音が聴こえていた。


 君の姿を探して、視線だけで追いかけて、『無糖シュガーレス夫婦』と周りにからかわれる度に頬が熱くなって、いつしか放課後の非常階段での君との時間が待ち遠しくなって。


 けれど、認めてしまったら何かに負けるような気がしていた。それでも、捨ててしまった名前のない感情がずっと恋しかった。君との時間が、心底愛しかった。


 君が知らない女の子と一緒にいるのを見た時、本当は、すごく苦しかったの。



『──本気で好きになった? あの人の事』



 まるでその感情の答えを私に促すかのように、お昼の佐伯くんの問い掛けが脳裏に蘇った。私はこくんと喉を鳴らし、更にじっと彼の顔を見つめる。


 色素の薄い綾人くんの瞳と視線が交わり、それでもずっと彼から目を離せずにいれば、数秒後には綾人くんの方が困惑した顔で視線を泳がせた。



「……? な、何? 俺の顔、なんかついてる?」


「……ううん」


「え、じゃあどうしたの……なんかすごい、その……そういう顔で見つめられると、さすがに照れるんだけど」


「……そういう顔って? 私、今どんな顔してるの?」



 小首を傾げ、改めて視線を彼へと送る。綾人くんは「あー……」と暫し言葉に迷いながら顔を逸らし、やがてぼそぼそと続けた。



「……なんか、男が勘違いしそうな顔……」


「勘違い?」


「その……俺に気があるように、見えるというか……」



 言いにくそうに告げながら、綾人くんは私の唇に押し当てていたティッシュを離す。



「……とにかく、あんまりそういう顔で相手を見つめるのはよくないと思う。自惚れるヤツいるから、絶対」


「……大丈夫だよ」


「いや、ダメだって。六藤さんは無自覚にそうやって──」


「だって、綾人くんの事しか見ないもん」



 早口で言い切り、私は熱を帯びる頬を隠すように俯いた。途端に綾人くんは言葉を失い、一瞬の沈黙を挟んで「え……」と声がこぼれ落ちる。


 私は足元を見つめたまま、「ずっと、綾人くんの事しか見てないから……大丈夫……」と再び小さく続けて、その手をそっと握り取った。

 ぴくり、震えて汗ばむ彼の手。心做しかその喉が息を呑んだようにも思えた。


 けれど何も答えない彼の反応に、なんだか沸々と恥ずかしさが込み上げてきて。私は強引に話題を切り替える。



「……お、お腹すいたね! もう晩ご飯の時間だもんね! 夕方なのに真っ暗だし、寒いし! 冬なんだねー、もうすぐ!」


「……」


「ほら、帰ろっか、綾人くん! ……一緒に、帰ろっか」



 ふわり、吹き抜ける優しい風。自然と微笑みながら顔をもたげ、彼の手をきゅっと握り締める。


 綾人くんは、相変わらず何も言わない。

 どこか夢でも見ているかのような現実味のない顔で視線を泳がせながら、私に引っ張られる形で無言のまま隣を歩き始めた。


 それでも、あんなにも重く垂れ込めていたはずの私の心は徐々に元の澄んだ色味を取り戻す。あの日捨てたはずの感情の名前を素直に認めてしまえたら、曇り切っていた胸の奥にはいつのまにか晴れ間が覗いていた。


 いつからだったんだろうね。

 君に、この気持ちを抱き始めたのは。



「ねえ、綾人くん。今日キッチン使ってもいい? 綾人くんって何が好き? 私ね、結構料理得意なの。リクエストとかあれば何でも作るよ」


「……え? ……あ、えっと……、その、何でも、好き……です」


「ふふ、何で敬語?」


「な、何となく……」


「変なの」



 珍しく不自然な挙動に柔らかく破顔して、正面に浮かぶ大きな月を見上げた。


 今日は散々な一日だった。すごくすごく苦しかった。

 けれど彼の顔を見た途端に安堵して、まるで溺れるみたいに息苦しかった呼吸が急に楽になったの。


 浮かぶ半月はんげつ。足も付かない雲霞くもかすみ

 飲み込まれる寸前で顔を出した水面みなもから、仄かな輝きを纏うそれが鮮明に色味を帯びて視界に入った。


 甘いと勘違いしそうになる淡い酸味。

 それが、ただただ綺麗で、愛おしく思えて。


 ああ、私、やっと認められた。


 ねえ綾人くん、今更だけど、私ね──



(どうやら君が、初恋の人だったみたいだよ)



 並んで歩む帰り道。揺蕩たゆたう川のせせらぎに、波紋を広げた檸檬の色を追い越して。


 十年間の葛藤の末、ようやく躊躇ちゅうちょせず触れられた君の手を、私はやんわりと握り締めた。



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