第13話 恋なんて

 朝日が昇り、冷えた空気が肺に入り込む。アルコールのせいかいつもより早い時間に目が覚めた私は、眠れなくなってしまったため仕方なく布団から出た。


 せっかくだからとジョギングついでにご近所を散策し、軽く一汗かいたところでシャワーを浴びて出社する。


 あれこれと動いていたせいで、結局出社したのはいつもと同じ時間だった。昼間眠くならないといいなあ、と考えながら自分の席で何気なくスマホに視線を落とした頃、不意に思い出したのは昨晩のメッセージ。



(そういえば私、武藤くんと今夜飲みに行く約束をしたような……!)



 そう思い出し、胸がきゅうと狭くなる。ほろ酔いのまま寝ぼけつつやり取りしたメッセージだったが、記憶はしっかりと残っていた。


 武藤くんの事を考えると勝手に頬が熱くなって、そわそわと胸が落ち着きを無くし始める。いや、待て待て私、落ち着け。まだ朝よ。焦るな焦るな。



(ああ、でも、どうしよ……今夜会えるんだ……! せっかく朝早く起きたんだから、髪型とか少しセットすれば良かったなあ……失敗したぁ……)



 慌てて鏡を確認すれば、すっかり頬はピンク色に上気していた。チーク塗り過ぎたと思われちゃう、と手で扇いで顔の熱を冷まそうとするが、考えれば考えるほど心臓が激しく脈打ってしまう。


 昨晩のメッセージは、普段の彼と違って結構フランクな印象だった。ハートマークなんかも使ってた気がするし……と考えて、また都合のいい期待が膨らむ。



(む、武藤くんって……やっぱり、実は私の事が好きなんじゃ……)



 正常な思考力を欠いているお花畑状態の私の脳みそは、そんな妄想を鵜呑みにして「もし本当にそうだったらどうしよう……!?」と自意識過剰な心配を始めてしまった。いやでも本当に、もしも万が一、いや億が一の奇跡的な確率で武藤くんが私の事を好きだったとしたら、私はどうしたらいいんだろう。


 恋人を作った事はあるが、そのどれもがずるずると流された末に断りにくくなって打算的に付き合ったようなものだった。あれが恋愛だったとは到底思えない。

 前の彼氏とは同棲していたし、結婚の話もあったが、それとなく流し続けていたら最終的に浮気されてしまった。けれど何の悲しみも感じなかったから、多分あれも恋じゃなかったんだと思う。


 でも、武藤くんは──。



「……考えるだけで、きゅーってなる……」



 か細く呟き、スマホを手に取った。なんだか胸が落ち着かなくて、恋しさから昨晩のメッセージを確認しようと画面を操作する。

 しかし同時に「六藤さん!」と呼びかける真奈美さんの声がきんと鼓膜を震わせ、私は咄嗟に息を呑んでスマホをデスク上に伏せた。



「は、はい!」


「ねえー、今夜またご飯いかない? ほら、交差点のところに新しくピザ屋さん出来てたでしょ? 最近話題になってるコスパが最高っていう釜焼きピザの~」


「あ、ああ〜! すみません! 今夜ちょっと用事が入ってて〜……」



 口火を切った真奈美さんにすぐさま言葉をかぶせ、二度も同じ手は食らうものかと食い気味に断る。どうせまた合コン紛いのくだらない飲み会の人数合わせが目的だろうという事は明白。どおりで全身をハイブランドでコーディネートしているはずだ。おそらく食い下がってくるだろうが、ここはハッキリと断らねば。


 そう心に誓い、密やかに臨戦態勢を取った。しかし、予想に反して真奈美さんは「あら、そう」と大人しく引き下がる。


 完全に肩透かしを食らい、私はつい一瞬呆気に取られてしまった。



「え……? あ、あの、いいんですか?」


「いいわよ〜。なんとなーく断られる予想は出来てたし? って事は、うまくいったんだ~。さては今夜、早速二人で飲みに行くんでしょ。と」



 うふふ、と含みを持った瞳が細まり、私の心臓が大きく跳ねる。どうしてそれを? と困惑していれば、真奈美さんは私に耳打ちした。



「男になんて興味無いです〜って顔してたくせに、向こうからの誘いにはちゃーんと乗るのね? 六藤さんって、ホントしたたかだわ〜」


「……っ」


「私に感謝した方がいいわよ〜? 連絡先、私が彼に教えてあげたんだから」


「……え?」



 突として紡がれた彼女の言葉。私は眉をひそめた。


 真奈美さんが、武藤くんに私の連絡先を教えた? え、どういう事? 二人って知り合いだったの?


 情報の処理が追いつかず、脳裏には様々な憶測が飛び交って複雑に絡まり合う。けれどよく考えてみれば確かに、私と武藤くんは電話番号を交換しただけで、メッセージアプリのアカウントまでは把握していないはずなのだ。──にも関わらず、武藤くんからのメッセージは私に届いた。



(……じゃあ、ほんとに……真奈美さんが、武藤くんに私のアカウントを教えたの……?)



 まさか、いやそんな……と次々に浮かぶ最悪の可能性から目を逸らす。「今夜は泊まったりするの?」と問いかけた真奈美さんの発言に、一層心が暗雲に飲まれた。


 どうしよう。嫌な予感がする。

 この先は聞いてはいけないような。



「ふふ……そんな不安そうな顔しなくても大丈夫よ〜。リラックス、リラックス」


「……いえ、あの……」


「彼、ああ見えて案外だから。安心して?」



 たじろいだ瞬間、耳元からは毒が注ぎ込まれた。私の内側はサッと冷え、瞬く間に温度を無くす。

 武藤くんと真奈美さんの間にがある事を匂わせるそれが、あまりに強烈な苦味となって私の心を濁らせた。


 ふふ、と短く微笑む彼女。聞いたらだめだと分かっているのに、私の唇は勝手に動く。



「……あの……真奈美さんって、その……」


「ん?」


「あの人と……何か、あったり……」


「え? 私っ? えー、やだァ〜! なんにもないわよぅ! 心配しすぎ〜!」



 アハハハ! と高く笑って大袈裟にリアクションを取った真奈美さんは、手を振りながら強めに背中を叩いてくる。前のめりによろけた私に構わず「全然そんなんじゃないから〜!」と続けて笑い、程なくして彼女はにこりと口角を上げた。



「──ほんと、一回事あるぐらいよ」



 しかして、残酷に告げられた言葉。囁き声であったはずのそれはきんと耳鳴りをともなって私の鼓膜を震わせ、胸に芽生えかけていた武藤くんへの感情を急速に冷やしていく。


 真奈美さんはどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべ、「あの人、誰とでもそういう事出来る人だから気をつけてね」と耳打ちすると、軽く肩を叩いて私に背を向けた。一方で私は、何も答えられぬままその場にひとり立ち尽くす。



『あの人、誰とでもそういう事出来る人だから──』



 今の発言が、頭の中に焦げ付いて、離れない。



「……、しごと、しなくちゃ……」



 芽生えかけていた何かから、目を逸らした私。

 襲いくる強い感情から逃げてパソコンの画面と向かい合う。


 暗いばかりの画面に映り込んだ自分の顔は、あまりに情けなく歪んで見えた。

 さっきまで頭から離れなかったはずの武藤くんの顔。けれど、今は一切考えたくない。



(……馬鹿みたい。武藤くんが私の事好きかも、なんて……そんなわけないのに)



 あの人は、誰とでもそういうことができる。


 知らしめられたその事実が辛いのか、悲しいのか、悔しいのか。今の自分の感情がどれに近いのかも分からない。分からないけれど、まるで肺の奥に煙が入り込んだみたいに息が苦しい。


 なんでこんなに胸が痛いのかな。

 捨てたはずの感情と向き合おうとしたから、こんなに苦しいのかな。



(あーあ、分かってたのに……。分かってたのにな……)



 短く笑うと、目頭が熱くなった。こぼれかけたそれを飲み込んで、私はキーボードに手を伸ばし、デリートキーをとんと押し込む。


 うん。知ってた。分かってたよ。


 私に、恋なんて出来るわけないって。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る