12限目 紅薔薇の令嬢はやはり素直になれない

 紅薔薇の令嬢こと、茨木千尋は勤勉である。

 スマホが普及する現代で、千尋はスマホではなく単語帳を片手に歩いていた。

 けれど農作業の合間に勉学に励んでいた江戸時代の偉人、二宮尊徳にのみやそんとくみたく真面目な人間というのは、現代でもそこまで珍しくない存在であって──


「あっ」

「あっ」


 京都市営地下鉄烏丸線、くいな橋駅ホームにて。

 千尋は英単語帳片手に電車が来るのを待つ侑李と遭遇した。どうやら最寄駅が同じらしい。


「おはようございます」

「おう、早いな。一人か?」

「はい。いつも一人で通ってます。そちらは友達いないんですか?」

「うっ……、なんでそんな聞き方するかなぁ……」

「…………」プイッ。


 一旦、沈黙。それから、


「てかキミ、最寄り駅一緒だったんだ!?」

「今更ですか?」


 まさかの事実に遅れて驚愕する侑李。対する千尋は侑李に目を向けず、単語帳に釘付け。


 ──まさか、冠城かぶらぎ先輩とここでも一緒になるだなんて……。


 だが彼女は、侑李の見えないところでざわつく胸の鼓動と戦っていた。

 単語帳を両手でキュッと握り、千尋は動揺を抑える。


「……………………」

「……………………」


 この後、侑李も彼女みたく単語帳を広げ、二人は言葉も視線も交わすことなく黙々と眺める。


 侑李と千尋と駅、すなわち電車といえば……、春休みのあの出来事が連想できるであろう。

 だがこのときの千尋と侑李はそのことを完全に忘れて、読経に励む坊主のように単語の発音をぶつぶつと呟いていた。


 けれどそのかん、千尋は、


 ──そうだ、あの日のお礼言わなきゃ。


 痴漢から助けてくれた侑李への礼を言おうと考えていた。

 けれど今まではいろいろと気まずく、事故とはいえ──自分の尻を触った相手に礼を言うものでは無いのかもしれないという考えと、お礼を言わなきゃという使命感で葛藤していた。


 けれど今は、何故か分からないが言えずにいた。


「……あのっ」


 言おう言おうと、小声で話しかけようとするが、その度喉に何かがつっかえて痛む感じがした。

 それでも千尋は、なんとか勇気を振り絞って、


「あのっ──」


『電車が近づいて参ります。黄色い線の内側に──』


「おっ、そろそろ来るな」

「そう、ですね……」


 しかしここで電車のアナウンスが、千尋の言葉を遮る。

 二人は同時に単語帳をパタンと閉じた。


 ……ダメだ、私。


 そして電車の訪れと同時に、二人は並んで乗車した。


 午前7時31分。この時間の車内はそこまで混んでいない。ただ座るスペースが埋まっているのが不便なだけで、十分なスペースが確保できるくらいの余裕はあった。


 とある駅に着くまでは──。

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