8限目 紅薔薇の令嬢は進歩する

 紅薔薇の令嬢こと、茨木千尋いばらぎちひろは昔から孤独だった。


 友達がいないわけではないのだが、一日の、いや、人生の中で独りだった時間が占める割合が多いのだ。


「……ただいま」


 午後6時。家に帰って挨拶をするが、誰も挨拶を返さない。おまけに電気は一つもついていない。

 それもそう。千尋は今、マンションの一室で一人暮らしをしているのだから。


 一人暮らしだから、誰もいないのは当たり前。だけど彼女にとっての当たり前は、一人暮らしをする以前からも続いていたのだ。

 そう。小さい頃からずっと……。

 千尋の両親は多忙で、なかなか家に帰ってこなかったのだ。


 そんな彼女には、長年行ってきた孤独を紛らわす方法がある。


「ただいま、ベティ」


 自室に入ると、千尋はクスッと微笑んで、ベッドにあるクマのぬいぐるみを『ベティ』と呼んだ。


「えっ、何かいい事あったかって? ふふっ、そんなことないよぉ〜♪」


 千尋はベティを抱いて、ベッドに寝転がる。

 学校ではキリッと鋭い目付きも、家の中で一人でいるときはほころんでいる。

 きっとこんな姿を誰かに見られれば、彼女は恥ずかしさのあまりに死ぬだろう。


「学校は慣れたか、って? もう! その質問するの、何回目? ベティって田舎のおじいちゃんみたいなところあるよね?」


 ただ、ぬいぐるみたちに話しかけた時間が長すぎたのだろうか、どうやらぬいぐるみから声が聞こえるとのこと。

 傍から見れば恐ろしいものだが、それでもこの不可思議な現象が彼女にとっての心の癒しである。


「……えっ?」


 そんなベティとお話をする彼女の笑顔が初めて固まった。


「……好きな人はできたか? って……、はぁ!?」


 突然ベティから飛んできた(らしい)質問に、千尋は飛び起きた。


「いっ、いないよ! そんなの!! それに私、恋愛なんてどうでもいいし、わかんないし! てか、学生の本分は勉強でしょ!? 誰が恋愛なんて無駄なことを……」


 別にこれは彼女の強がりではない。この全ては彼女の本音であり、長年抱いてきた考えである。

 つまり千尋は、恋を知らない。


 だけど一つだけ、胸の奥でつっかえている感情があった。


「……それに、あの人はそんなんじゃないし」


 千尋は足を曲げ、ベティを強く抱き寄せながらまた横になった。

 あの人、というのは言うまでもないだろう。


 ──でも、あの人にあんなことされるの、悪くなかったかも。


 ぎこちないけれど、そんなにくどくない褒め方、触れた手の優しい感触を思い出し、千尋は自分の頭に手を添えた。そして自分で叩いてみる。頭をポンポン、と。


「……あっ、ジョニー」


 千尋は枕元にあった『ジョニー』こと、青色の綺麗な英単語帳に手を伸ばす。

 すると頭の中から耳へ、彼のあの言葉が届いた。


 ──じゃあ、ただ単に単語帳を一通り眺めるだけというキミのやり方で、分からない単語は覚えられるのか?


 数日前、単語帳に付箋を貼れという言葉に従わない千尋に、侑李が放った言葉である。


 単語帳のページをペラペラめくりながら、千尋は考える。


 ──もしあの人の言う通りにやったら、またあんなこと、してくれるのかな?


 寝返りを打って──


 ──私が何も言わなくても、また……


 そして最後のページまでめくり終わってから、千尋は身体を起こして勉強机の引き出しへ向かった。


「……あった」


 取り出したのは、カラフルな蛍光フィルムの付箋だった。

 千尋はその中から赤色の付箋を一枚取り、単語帳の中から自分が何度見ても覚えられなかった単語の近くに貼ってみる。


 そして、直近で覚えていた五十個の単語のうち、二十個の単語に様々な色の付箋が貼られた。


「……ジョニー」


 彩り豊かだが、どこか綺麗さを失った単語帳を見て、千尋は少し後悔する。


 けれどこの状況が、彼女を変えるきっかけとなった。

 千尋は付箋の貼られた単語を見て、発音と単語の意味を念仏のように唱え始めた。


 ──この単語を覚えられたら、付箋を剥がせばいいってことだよね?


 付箋の粘着力は程よく弱いため、剥がしても紙が破れることはない。

 だからまた、綺麗な状態に戻せるかもしれないと、千尋は希望的観測をした。


「……違う。……違う! ……違う!!」


 けれどしばらくすると、その考えはいつの間にか忘れていて。

 千尋が覚えられない単語のページを何度も戻る度、ペラペラとページをめくった。

 だからもちろん、単語帳の一部がヨレヨレとなり、付箋が取れても新品に近い綺麗な状態には戻らないくらいになっていた。


 それでも彼女は後からボロくなった単語帳を見て少しショックを受けるが、自分の行動を悔いることは無かった。


 だってそのおかげで千尋は、翌日の単語テストで満点を取ったのだから──。

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