第五話 叔父2
「よく来たね、狭いかもしれないけど入って」
若林は柔らかな声色で少年を招いた。その朗らかな雰囲気は、少年の胸の高鳴りをより一層とさせた。
最初の10分ほど、若林は同伴した母と玄関口で話しており、その間少年は、憧れの人の部屋で待っていた。
若林の住処は、彼の想像と異なり、喧騒とした六畳ほどのアパートだった。
若林が小学校の教員であることは父の口から聞いていたので、少年はこれまで会った「先生」という種族に言葉にならぬ同情を覚えたが、若林に対する好意の眼差しは変わることはなかった。
自分の部屋ほどしかない「先生」の空間は、彼にテーマパークを想像させるほど壮大で煌びやかなものに見えた。壁に掛けのアコースティックギター、使い古した机と写真立て、旅行用のボストンバック、そのどれもが未知の領域の宝の様だった。
若林が玄関から部屋に来るのを気づくや否や少年はこの数日間考えに考えた要望を吐き出した。
時折、通りを過ぎるバイクの音でかき消されたが、それに構わず若林は柔和な微笑みで受け止めた。
少年はこれまでにない近さで慈しみを感じた。それは、少年に慈愛の現実味をありありと見せつける。
ひょっとすると、今まで一度たりとも喜びを与えなかったあの世界は、ただの一つの世界であって、その脇道にはまた別の暖かな世界があるのではないだろうか。自分の悲哀も苦痛も全て抱きしめてくれる、自然の芳香溢れる世界が。
そんな希望を少年は胸に秘めようとしていた。
しかし少年は、何かこの緩やかな空間に散りばめられた違和感を微かながらに感じていた。どこかこの六畳間を構成する歯車が狂っていた。
少年は探す。彼の希望にさえなりうるこの麗しき世界にあだなすものは何か。何が私をもう一度暗がりの世界に引きずり込もうとしているのか。
少年と彼の叔父は、彼が提案した「遊び」をただただこなしていた。
しかし、彼の反応が満足いくものではなかったのか、叔父は少々大袈裟に彼の一言一言に反応した。大きく頷き、豊かに笑った。
それは、教員で培った子供とのより良い接し方だった。相手の話を聞いているというサインで彼の信頼を得ようとした。
しかし、その気遣いは彼を満足させるどころか、彼にあらぬ看過をさせた。
———そうか、これは紛い物なのだ。ウソの世界なのだ。叔父は、私を喜ばせなければならなかったのだ。その証拠にあの左ポケットにある茶封筒はなんだろう! ……きっと母が渡したに違いない。それで叔父はこれまで私に良い顔をしていたのだ———
強いて言うなら、違和感の正体は少年のその心であった。
確かに若林は少年の母から金銭を貰っていたが、自ら道化に成り果てるほどにはとても足りず、若林に少年を好む気持ちがあったのに変わりはなかった。
少年はもはや、人の優しさをありのまま触れるにはやや傷つきすぎたのかもしれない。
人が無条件に自分を愛すことが理解できなかった。
それよりも、何か利益のために自分を好むふりをしていると考えるほうが、より自然のように思えた。
可憐な花を可憐ととるには、その主体もまた可憐に触れてなければならなかった。
こうして少年は、叔父の微笑みを、あの暖かな空間を、ただ冷たい虚無の牙城のように感じるようになった。
瞬時見えた草花はただの造花で、あの芳香は香水によるものだと確信した。
叔父のちょっとした工夫が、彼にその世界の否定をさせたのだ。
そして、彼の先天的な「迷惑さ」と、人の欺瞞さを知らせることになった。
———自分は迷惑な存在なのだ。そこから利を生まぬ限り、人々は私と付き合ってはくれない。しかし利さえあれば平気で人は私と偽りの関係を生む。ああ、なんと
それから、少年の世界はその暗さを増した。はっきりともしない苦しみの輪郭が日増しに拡がりをみせ、彼の心の痛みをただ募らせてきた。
彼にとって生存することは酸素の充満した泥の中で溺れるに等しく、快活に生きることも満足に死ぬことも困難だった。
いつしか少年はもがくことを辞めた。泥の重力とともに堕ちようと思った。その堕落の先に何があるかその先を考えるのも億劫だった。
少年は青年になった。
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