第一話 顔

 まだ夜更のうちに青年は目を開けた。窓際の壁に寄りかかっていた身体が痛み、若干の痺れた足でよれよれと洗面台に向かった。

 薄汚れた鏡の前で、青年は肉の薄い顔を確かめるように撫でる。右手でぺたりぺたりと肌を触り、時には無造作に右頬にできたニキビを弄るように爪で掻いた。顔を少しずつ動かしながら、目だけは離さず、霞んだ銀鏡を直視している。


 彼の顔はさながら木乃伊ミイラの様相だった。汚いというより醜く、滑稽というより悲惨さが目立つ顔だった。青より灰色の印象な肌が、ぶつりぶつりと不規則に山を連ねている。色の悪い唇の間からは黄ばんだ歯の凹凸がのぞかせていた。彼にとっては見飽きたものであったが、他人はその限りでなく、事あるごとにうっすらと笑われたものである。


 青年は、目が覚めると自らの顔を見て触れて確かめるのが日課だった。それは、決してナルシズムなどではなく、起きていたらこの顔から何か変わっているんじゃないかしら、という一抹の希望のためであった。この醜い器から解放されれば、この惨めな気持ちを過去のものにできると思い込んでいた。

 彼は人の些細な言動で、その微かな嘲笑や卑下を感じとり、その度に彼の希望への渇望は深刻なものとしていた。しかし、希望は希望のままで、彼の日課は変わりもしない現実を確認し、自己嫌悪を日々強めるものとなっている。

 不変なる現実は次第に彼自身の迷惑さと不快さを刻々と意識させた。そして、彼は自らを守るために他人の悪意と侮蔑のみを丁寧に汲み取り、自らの敵意と反逆心を構成した。彼の際限ないコンプレックスと悪意の地平の根源は、第一にその顔だった。


 また、青年は自らの顔を整える努力をしなかった。彼にとってあざけられないがために取り繕うことは、これまで培ってきた人への悪意を捨てることであり、敵への降伏を意味していた。いまさら敵へ迎合できるほど彼の悪意は安くなかった。全身全霊をかけてこのジレンマに挑んだ果てに、彼は日々のささやかな儀礼と祈りに辿り着いた。


———神というものがあるのならば、少しばかり私に情けを与えて欲しい。どうか、この呪縛から私を解き放ってくれたもう———


 彼のわらにも掴む祈りは、ついぞや神へは届かなかった。それどころか彼の疲弊とともにその人面は、酷く歪んでいった。

 もはや彼は希望に委ねることはできない。ただ、惰性に祈るのみである。

 しかし、日々の祈祷さえも捨ててしまったら、彼の精神はいよいよ壊れてしまう。現に昨夜彼は発狂した。四畳半の小さい部屋で彼は暴れ狂った。物という物を壊し、奇声を発しながら地団駄を踏んだ。彼の祈りは新たなジレンマを生み出し、ただただ彼の首を絹で締めていった。


 しかし今日ばかりは、青年はその目に違いを認めた。普段生気の感じぬ二つ目から、何か泥の中の砂金に似た輝きを見たのである。

 それに伴い、彼は数時間前にした決心を思い出した。そうだ私は死んでも良いのだ、と。

 皮肉なことに、彼を醜悪で不変な現実から助けたのは、あるかどうか分からない希望よりも、確実に訪れるエンドという一種の現実だった。


 一連の儀礼が終わり、顔から目を逸らすと、鏡台の下に一つの封筒を見つけた。

 どうやら封筒は新しく、買った覚えもなかった。

 青年はそれを手に取り、中身を確かめると、三つの薬があった。パッケージ裏に薬名さえも記載しておらず、それぞれ色も形も異なるものだった。

 そして、封筒の裏に一筆記されていることに彼は気づいた。字体は彼のものとはおおよそ異なり、いよいよ、この封筒は他人の物であることがわかる。

 しかし、彼の興味を惹きつけたのはそんなことよりも書かれている内容だった。


 彼は狂喜し、神の存在を認めざるを得なかった。


 ———やはり、神はいたのだ。私の日々の祈りは誤ってなかった。神は見ていたのだ。私の祈り自体が間違っていたのではなく、私の祈りの内容が間違っていたのだ。神は私を許してくださった。私はその許しを甘んじて受け入れようではないか———


 封筒裏には一筆、異様なほど達者な字でこう書かれていた。

 「安楽死用」

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