暗がりと逃避

第二話 自称弱者

 青年は天啓を感じた。

 ついに神は自らの過ちを認め、良心の呵責に耐えきれず、我が身に安らかな死を与えたもうたのだと。

 彼曰く、死における痛みはその人生の原罪にたいする然るべき罰だった。

 そのため、これが本当に安楽死へ導く薬であったのならば、それは生の罪の免責を表していた。仮にそうでなくても、あの薬は彼の尋常ならざる決意の、優しき肯定だった。


———私はいつ何時でも逃げていいのだ。この最悪な社会から、いつでも、痛みもなく、私は逃避できる。これは一つの優越ではないか———


 彼は運命的に手に入れたこの権利を誰かに誇りたい衝動に駆られた。

 しかし、誰かれ構わず話すのは本意ではない。

 彼は誇りたいのだから、相手は羨望の目を向けてくれなければならない。無闇に傷心させたり、異議を唱えられるのは好みではない。

 彼の決意に同意しつつ、罰の免責を望みながら持たぬ者でなければならない。「死にたいが死ねない人」を彼は探していた。


 彼の友人は少ない。その中でも彼の好む友人はより稀有である。

 青年の持つ果てしない劣等感は、あらゆる人間関係に弊害を及ぼしていた。およそ多数の人間とは、彼のコミュニケーションは不能をきたす。

 一度、相手が自分より優位な人間でどこか私を見下してると判断すると、彼の声は吃音を生じ、終いには黙りこくってしまう。

 そのため、青年の友人の多くは彼と同様に他者への蔑みを感じる自称弱者であった。

 自称弱者同士では、相手を蔑むことはない。それは決して配慮の類ではなく、自らの自己を守るために相手を見上げて、己が最も不遇な者、怠惰な者であると錯覚する故である。

 自らの不運、愚かさを認め合うことで互いに踏み込まず、傷つけない、自己本位のユートピアが彼らの作り上げた世界だった。


 それ故、「死にたいが死ねない人」を探すことは彼にとって容易だった。

 死を口にすることは、自らの価値を最も引き下げさせる。

 彼らの世界では「死にたい」という言葉は飽和していた。

 かくいう青年自身も数日前までは、口癖のように自殺願望を唱えてた。そして、誰かがそう呟くたびに他の者が次々と同意し、一定のコンセンサスを得ることが彼らの様式だった。

 しかし彼らは、死の痛みに自ら赴くことができるほど勇敢ではないし、痛みを顧みないほどの切迫性を持ってる訳でもない。

 勇者でもなければ、劇的な苦しみもない。だからこそ、彼らは「自称」弱者だった。

 「死んでも構わない」と言われてもあと一歩踏み出せない集団だった。


 彼らの名誉のために述べると、彼らは確かに苦しんでいた。しかし、彼らの苦しみに劇的な根拠はない。

 彼らは、彼らの生きた社会からの無言の否定によって苦しめられてきた。細やかな言動、些細な配慮が彼らのコンプレックスを優しく傷付けてきたのだ。

 鈍器の一振りと絹縄の絞首の違いである。


 青年はそんな彼らを一方で心から愛しく思いながら、一方で激しく嫌悪していた。

 自分と同様の苦しみを持つ者でありつつ、あくまでも自身の殻に籠りきっていること。彼らの言葉の多くが薄っぺらく重量を持たぬこと。そして彼らは自分の鏡に相違ないこと。全てが愛憎の対象だった。




 深夜3時を過ぎた頃、青年は同じアパートの向井の部屋に向かった。

 ドアの覗き穴から部屋の明るみを確認してノックをする。

 暫くすると寝間着姿の向井が出てきた。夜中にも関わらず向井は眠気もなさそうで、「やあ、久しぶりだね」と陰険そうに部屋に招く。


 青年は「これ」と呟いて手持ちのレジ袋を差し出した。

 中身は部屋で適当に見繕った菓子類だった。向井は「ああ、いつもありがとう」と小太りな身体を左右に揺らしながら受け取る。


 向井は俗にいう「優しい」男ではあるが、その実折々の表情に歪んだ感情を醸し出していた。

 以前、青年に向井がべったりとにやけながら手帳を見せてくれたが、それには日毎に会った人一人一人の悪口が書かれており、そこに青年の名もあった。

 以来青年はその事件を忠告と受け取り、向井を繊細に扱うようになった。


 青年は部屋に入った後、向井に先ほどまでの顛末を述べた。

 死ぬことを決意したこと、「安楽死用」と書かれた薬を手に入れたこと、それを手に入れることでより決意が固まったこと、向井は話の序盤まで相槌と共に朗らかに頷いていたが、薬の話以降黙り込んでしまった。


「で、どうだい。」


 青年は、子供が宝物を見せびらかしたような笑みで尋ねた。


「どうって……」


 向井はばつが悪そうに口をつぐみ、少しして細々とした声を絞り出した。


「本当に死ぬつもりなのかい。」


「勿論」


返す青年。


「本当に?」


向井は念を押す。


「だから、そう言ってるじゃないか」


 すると向井は青年の顔から目を逸らして、口元でボソボソと何か呟く。

 青年はその姿に釈然としない気分を感じて、ついぞや苛立ってしまった。


「君は何がいいたいんだ。折角の一大事を伝えたのに、ボソボソ、ボソボソと!」


 青年の荒げた声に向井はぎょっとして、応じるように語尾を強めた。


「いや、お前が変なことを言うからだ……死ぬだの何だのって。それを聞いて平然とできるわけがない」


 青年は更に頭に血が上り、威嚇するように放った。


「別に変なことじゃない。前会った時も死にたいって言ってたじゃないか。君だって……。死にたい奴が死ねる手段を手に入れたら、後は死ぬのが道理だろ」


 向井は痛いところをつかれたのか、無言になり、口元で「いや、いや」と繰り返した。目を青年に決して合わせず、右手で畳を弄る。


 暫くすると向井は、顔をきっ、と上げ今度は落ち着いた様子で話した。


「いや、違うんだ。わかってない。おかしいのは君のほうだ。死ねるから死ぬなんて……いいかい、『死にたい』と『死ぬ』は違うんだ。君はおかしいよ、気が狂ってる。僕にはわからない」


 青年に大きな疑問符を残して、彼の告白は終わった。

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