第三話 自称弱者2

 二人は半時間ほど沈黙していた。

 青年は胡座あぐらに肘をつきながら、一重瞼の三白眼をもって向井を睨んでいる。

 静寂の間に彼の疑問は怒りに変わっていた。青年は向井に一定の信頼と友情を寄せており、彼の告白が祝福とともに受け入れられたなら、死ぬ前に向井に一杯奢る約束をする気概だった。

 しかしその気概は陰湿な男の態度によって破算になった。もはや青年の感情は、己の決意を素直に承認されないことの苛立ちに満ちていた。


 一方向井は、背を包めた胡座の姿勢で、視線をあちこちに移している。

 そこには動揺の末に出した先の発言への後悔が見てとれた。

 しかし、向井は特段嘘をついた訳ではなかった。死にたいと言って本当に死を決意する奴の神経がわからなかった。

 自殺未遂をちらつかせる輩はこれまでいくつか見てきたが、目の前の友人がその類ではないことを確信している。そのことが余計向井の頭を混乱させていた。


 向井はそっと右足の脇にある灰皿をそっと青年の前へ寄せた。

 普段自分の銘柄以外の煙草の匂いを嫌う向井にとって、その行為は一種の謝罪と落ち着きの懇願を意味していた。

 青年は、胸ポケットに忍ばせたセブンスターを手に取り、軽く一服した。

 煙は二人の間を揚々と漂う。


 青年は低い天井に向けて肺に含んだ紫煙をふーっと吐き、いつ振りかの口を開いた。


「嘘を、ついたのか」


 向井はついに来たかというように身構えた。


 「君も以前、死にたいって言ってたじゃないか。死ぬ気もなくて死にたいって言ったのか。周りの奴らに合わせたのか。それで死なんてものを語ったのか」


 淡々としながらも節々に怒気を忍ばせた言葉に内心怯えながら、それでも向井は目を逸らさずはっきりと答えた。


「別に嘘じゃない。死にたかったのは本当だ。この世界から逃げたかった。生の苦難から逃げるために死ぬことは合理的とさえ思っている

……しかし、僕は逃避のためだけに死ぬことはできない。今まで生きてきたことへのプライドがある。

痛みの有無なんて関係ない。逃避のために死ぬことは、それまでの生の否定になると思っている。

……それは、できない」


 青年はようやく、向井と自分との境界を認識した。ああ、なんだそんなことだったのかと腑に落ちた。

 と同時に彼は向井に対する隔たりと諦念の情を抱いた。

 しかし、目の前にいる男の、振り絞った真情の吐露を蔑ろにすることもできなかった。


 彼は精一杯の穏やかさで、子を説くように話す。


「僕には、生きてきたことへのプライドなんてないよ。僕の生は僕に喜びを与えないばかりか苦難だけを押し付けてきた。もう、要らない。

……要らなくなったから捨てるだけだ。

しかし、君は違うらしい。君は生に怯えているだけで、生を憎んではない。まだどこか生きてることを好いているんだ。口では生の酷さを語りながら、内心明日に希望を抱いてたんだ

———それはそれで、良いと思うよ」


 青年の顔は優し気で、どこか寂しさを含ませていた。

 己の孤独を内に秘め、それでもなお懸命に彼への情を注いだつもりだった。

 偽者と声高々に叫びたかったが、やめた。それは、彼の自称弱者に対する最後の愛情だったのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る